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《写真漢詩》春、「四長」と号す。

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    雅号である四長には二つの意味を込めた。一つは下の五言絶句の漢詩にある通り、「長く学び・長く遊び・長く楽しみ・長く生きる」である。二つ目の意味は、 私の曽祖父「長左衛門」から頂いた。彼を初代と考えれば、私は四代目に当たり『四代目長左衛門』、縮めて「四長」である。彼は明治 期の愛知県で、青果商を営んでいた。東京の経済人や文化人とも親しく付き合い、残された記録や、彼を知る末裔たちの話からは、恐らく「四長」を体現した人物であったことが伺える。  一方、私は60代も後半になって漢詩と短歌を始めた、遅咲き(失礼、まだ咲いていない、咲かないかもしれないが)の漢詩人・歌人。漢詩界や短歌界のしきたりや世間体に縛られることなく、自由に、自分なりの詩歌を吟じ、残された人生をひたすら「四長」して行きたいと願っている。 

≪写真短歌≫運河ルネサンス

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   江東区は運河の街です。我が仙台堀川を中心(私見です)に区内を運河が縦横に走っています。そして現在、区は基本構想の中で「水彩都市・江東」を標榜し、それに向けての活動として「運河ルネサンス」を展開しています。私は最初にこれを聞いたときは「運河とルネサンス?どう関係があるのか?」と疑問に思ってしまいましたが、基本構想を見ると区当局は結構本気でした。江戸時代全盛であった小名木川や仙台堀の水運をルネサンス(復活・再興)する計画です。成る程!イイね!「運河再興!最高!」 ( このルネサンス計画には、運河沿いに全て遊歩道を整備する計画も入っています。まだまだ未完成ですが、最終的には、本当に運河沿いに全区内を歩けるようになるようです。そうなれば「江東運河マラソン」や「江東運河駅伝」も可能かもと夢は膨みます。)   その日は、豊洲で小松亮太氏のバンドネオンのコンサートを聴きに行く予定が入っていました。とても暖かい日で、自宅から出来る限り運河沿いを歩き豊洲へ向かうことにしました。そして豊洲運河に掛かる朝凪橋を越える頃、この瞬間に出逢いました。見えた光景と私の心境は下の短歌の通りでしたが、もし地下鉄や車を選択し、歩くことを放棄していれば、出逢うことの無かった景色と時間でした。   ゆっくり進む船が作る漣に陽光が反射し、少し暗い色だった水面が、少しづつ春のパステルカラーに変わって行く、そんな春の幕開けに立ち会いました、随分得をした気分!「運河ルネサンス」に感謝ですね。  明日は、仙台堀から、でも川ではなく空の話です。

《写真短歌》マイボタニカルライフ(3)(屋外編・ファースト木蓮)

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  江東区の汐浜運河沿いの遊歩道は、この時期見逃せない。木蓮の並木が一斉に大輪の花を咲かせ、全長1キロに及ぶ運河が真っ白く縁取られるからだ。唯、満開の絶好のタイミングに遭遇するのは結構難しい、天候や気温を気にしながら、早め早めにチェックするのが肝要だ。   先日、その早めのチェックに運河を訪れたところ、木蓮の蕾たちはもうパンパンのスタンバイ状態、来週辺りが見頃かなっと判断し、家路に着こうと思ったところ、もう明日には開花しそうな蕾を一つ発見!その蕾ををじっくりと観察していたら、その姿が何かに似ていることに気が付いた。  そうだ、ペンギンだ!ペンギンが海に飛び込む直前のポーズに似ている。正にファーストペンギンだ。氷山に囲まれた冷たい海、仲間が躊躇して、周りの様子を伺っているとき、勇気を振り絞って一番先に飛び込むペンギンに似ている。   木蓮の世界だって、いつ開花するかは結構悩ましい、余り早く咲き過ぎて、開花後雪でも降れば興醒めだ。逆に遅過ぎれば、後に控える大スターの桜に主役を奪われ、全く話題にもならない。それはそれで悲しすぎる。皆んな様子見を決め込むのも理解できる。そんな中、「偉いな『ファースト木蓮』!頑張れよ!僕は君の味方だ!」  明日は、この汐浜運河の先の豊洲運河からお届けします。

《写真漢詩》マイボタニカルライフ(2)

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   今日は「苔玉」の話だ。「苔玉」とは盆栽で用いられる手法「根洗い」の手法を応用して植物の根を用土で球状に包み、その周りにコケ植物を貼り付け糸で固定したものとのこと。私はてっきり江戸時代とか、結構昔から伝わる伝統的な手法だと勝手に思い込んでいた。でもどうやら「苔玉」は、1990年代くらいに、高知県の匠が始めた比較的新しい技らしい。現在、「苔玉」はスーパーの園芸コーナーで数百円で購入出来る。「四長庵」でも昨年秋からボタニカルメンバーに正式に加わった。  私にとっての「苔玉」の魅力、それはもう形が球状であることに尽きる。この地面?を苔に包まれ、その上から樹木の様に見えるシダが徐々に覆って行く球を見つめていると、どうしても地球を思い浮かべ、愛おしさを覚えてくるのである。 その心境を詠んだのが、次の五言律詩である。   結構、思いが入り過ぎて、この「苔玉」との最後を想像するのが怖い、こんな小さな「苔玉」であればきっと何年も生き延びて行くことはないだろうが、その具体的な状況を想像するのが嫌だ。Googleでその関連を調べることも敢えてしないでいる。私の小さな地球が滅んでいくなんて耐えられないではないか。   私の心配を他所に、今、「苔玉」は順調に育っている。いや順調すぎるくらいだ。シダ類が育ち過ぎてコケの部分を完全に覆い隠し、「シダ玉」と言うのが相応しいくらいだ。でも、元気でいてくれれば、それで良い。  明日も、私のボタニカルライフをお届けしますが、屋外編になる予定です。  

《写真漢詩》木場上空で謎の飛行物体?を見た

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   1月31日の話、まだ薄明かり残る東京・木場、東の空には下弦の月、雲一つ無く澄み渡った空気の中でクッキリと輝いている。思わずiPhoneのシャッターを習慣的に切った。その時、月の右斜め上方向に白く細長い円柱形の物体を発見、宵の明星(金星)にしては輝いていないし、何かゆっくり動いている気がする。時々見る広告用の飛行船とは高度が全く違い遥か上空だ、飛行機とも形状や動きが違う気がした。「何だろう(UFOか)?」と一瞬疑問には思ったが、撮影した画像を確認することも無く帰宅した。  それから直ぐのことだ、米国がサウスカロライア沖で撃墜した中国の気球のニュースがテレビを賑わすようになったのは。「そうか、あれは気球だったかもしれないな。」全く根拠無しでそう思った。iPhoneの写真画像を拡大してみると、白い円柱形の物体が写っていた。 (サウスカロライナの気球の様に球形ではないので、あれは気球では無いなと思っていたら、テレビ報道で、気球の形状は様々でカナダ上空で3番目に撃墜された気球は円柱形だったとのこと、、気になるな。)             拡大してみて下さい。円柱形に見えます。   よく分からないが、まずは漢詩で詠んでみようと、 その時詠んだ漢詩です。  ひょっとすると、米国の気球騒ぎと全く同時期に日本上空を別の気球が通過していたのか、、、勝手に想像は膨らむが、答えは見つからない、疑問は深まるばかりだ。 (でも、やっぱりあれは金星かな?)  最近は何かトピックスがあると、条件反射的に漢詩が浮かぶ面倒な爺さんになってしまいました。  明日は、門前仲町の「四長庵」から、マイボタニカルライフpart2をお届けします。

《写真短歌》ニューヨークタイムズと盛岡(6)

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   ニューヨークタイムズの「2023年行くべき都市」に盛岡が選ばれたことをキッカケに始めた今回の特集もいよいよ今日が最終回です。最終回の今日は「盛岡の夜」をご紹介したいと思います。「盛岡の夜」と言えば、それは断然「木伏」です。と偉そうなことを言っていますが、私は盛岡へ行くまでは、「木伏」の存在を全く知りませんした。  そして、「木伏」との出逢い、それは突然やってきました。その晩は城址公園の近くの老舗の鉄板焼きの店で美味しい岩手牛の夕食を頂き、腹ごなしにとホテルまで歩いて行くことにしました。北上川にかかる開運橋に来た時の驚きは今でも覚えています。真っ暗だと思っていた川の左岸に煌々と灯りがついているのです。それも何か整然とセンス良く、アート作家のインスタレーションの様に、、唯、じっと眼を凝らすとその灯りの中では、小さな無数の人影が動いています。北上川の激しい流れに人の声は完全にかき消されているはずですが、「こちらにおいで、こちらにおいで。」と呼んでいるような気がしました。   「木伏」は近づいてみると、バルやカフェ、ショップの集合体です。統一されたシンプルな構造の建物の中に個性的な店が色々入っていて、簡素だけれど気持ちの良い空間でした。観光客目当てではない、地元民の憩いの場といった雰囲気です。こういったところもニューヨークタイムズの推しのポイントではないでしょうか。   今日で「ニューヨークタイムズと盛岡」の連載は一応最終回と言うことです。でも盛岡に関しては、写真も短歌も漢詩も今回お届け出来なかった作品が、まだまだ一杯残っています。是非また機会を見つけて第2弾を企画したいと思います。そしてその時迄に、もう一回盛岡へ行って来るつもりです。  明日からは、またホームグラウンド仙台堀・木場からお届けします。

《写真漢詩》ニューヨークタイムズと盛岡(5)

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   光原社の名付け親は宮沢賢治です。光原社の創業者及川四郎は、賢治とは盛岡高等農林学校の先輩・後輩の間柄で、賢治の代表作の一つ「注文の多い料理店」は彼の手によって出版されました。そして賢治が出版の際、付けた社名が「光原社」だったとのこと。そう聞くと如何にも賢治が考えた名前に思えてきます。「どこまでも続く光り輝く草原、、、」店もそれに相応しい雰囲気を漂わせ、中庭に至ってはもう完全に賢治ワールドです。  その思い出を詠んだ漢詩です。   光原社は、賢治が37歳で世を去ったのちは、南部鉄瓶や漆器の製作を手掛けました。そしてその後、民藝運動の思想家柳宗悦や版画家棟方志功らとの親交を深め、全国的に有名な民芸店になり今に至っています。  勿論現在の商品ラインナップもとても魅力的です。私はニューヨークタイムズが盛岡を推薦している要素の一つにこの店の存在があると思っています。    明日は、盛岡シリーズの最後、夜の盛岡をお届けします。

《写真漢詩》ニュートークタイムズと盛岡(4)アート編(3)

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  舟越保武は盛岡カトリック教会で洗礼を受けている。父親も熱心なカトリック信者であった彼にとっては、「殉教」は生涯に亘り考え続けたテーマであったに違いない。  此処岩手県立美術館の舟越保武の部屋には、彼が長い時間をかけて取り組み、幾つもの作品に作り上げた「島原の乱」関連の主要な彫像が展示されている。圧巻は壁に掲げられた「長崎26殉教者記念像」のうちの4彫像である。   私は、仏教徒?いやいや無神論者と言って良い人間なので、「カトリック」や「受難」そして「殉教」も遠藤周作の『沈黙』などの本の中の知識しかない。でもこうした作品群に囲まれていると、この彫像達のモデルになった人たちの心のうちがどのようなものであったのか、知りたく考えたくなるから不思議だ。  そんな自分の気持ちの動きを詩に詠みたいと現地で撮影した写真を見直して見れば、少なくともあの彫像に囲まれた部屋の臨場感は即座に蘇る。作品の力だと思う。  舟越保武は2002年、奇しくも島原で日本二十六聖人が殉教したのと同じ2月5日に89歳で天に召された、最後まで不思議な宿命と力を与えられた彫刻家だった。   明日は、美術館を離れ、盛岡の街なかの宮沢賢治所縁の民芸店を訪ねます。

《写真短歌》ニューヨークタイムズと盛岡(3)アート編(2)

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   舟越保武は、戦後日本を代表する私の大好きな彫刻家です。因みに彼の次男の舟越桂も、父親とは、全く作風が異なりますが大好きで、彼の新作個展があると家内と一緒に駆けつけます。父子二代への追っかけファンということで、勝手に家族ぐるみのような感覚を抱き、作品を見させて頂いています。  その舟越保武(パパ舟越)の作品を、ここ岩手県立美術館は本当に、見事に贅沢に知的に蒐集しました。(おそらく、郷里ということで、舟越保武自身・家族の全面的な協力があったに違いありません。)舟越保武に駄作はあろうはずは無いですが、それにしてもハイクオリティの作品ばかりです。   そんな、保武作品の中で私の最も惹かれる「聖ベロニカ像」を詠んだ短歌です。彼女の口元は世界中の彫刻の中で一番美しいのでは、、、   次に、これも魅力的な作品『魚」です、じっと見ていると何か別の場所・別の時間を漂っている様な不思議な感覚に囚われます。それが保武マジック、アートの真髄なのかもしれません。 明日も舟越保武の作品についてお届けします。

《写真短歌》ニューヨークタイムズと盛岡(2)アート編(1)

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 岩手県立美術館には本当に感激しました。大好きな作家・舟越保武と松本竣介を思う存分堪能できたからです。私と家内は、二人とも舟越保武と松本竣介の作品が一点でも出品されていれば、それを目当てにその展覧会に出かけるくらいの大ファンです。それが、此処では、それぞれに広くゆったりとした記念室が用意されており、そこに所蔵・展示されている作品は数十点にも及ぶという何とも贅沢な空間が用意されていました。お陰様で極上の時間を過ごさせて貰いました。  そもそも、この二人の作品が何故此処に沢山一緒にあるかといえば、二人が盛岡市にあった旧制盛岡中学の同級生だったという奇跡に行き着きます。それ故、二人に共通する上品で知的な作風を育んだのは、この盛岡の風土に違いありません。ニューヨークタイムズが今年尋ねるべき街として推薦するのは、この地の文化度の高さが背景にあってのことだと思います。  後、この美術館にはもう一つ素晴らしく、嬉しかったことがありました。それは全館・全作品撮影OKだったことです。後で写真を見直し思い出が蘇り、短歌や漢詩を一杯詠みました。まずは、「青の風景」を始め、松本竣介の青系統の透明な色調に浸る世界を詠んだ短歌です。  明日は、松本竣介の同級生、舟越保武の作品で詠んだ短歌をお届けします。

《写真漢詩》ニューヨークタイムズと盛岡(1)

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   今年の1月12日、とても嬉しいニュースがありました。世界有数のメディア、ニューヨーク・タイムズが「2023年に行くべき53カ所」に私の大好きな岩手県盛岡市を選出したのです。それもロンドンに次ぐ2番目で。  凄く、嬉しかった。何か長年の胸の支えが下りたような気分でした。昔から、「国内で何処へ行きたい?」「国内で何処が一番良かった?」という質問に対して、私は常に盛岡と答えていましたが、聞いた人の返事は大体「じゃあ2番目は?」。そして「そう、そんなに盛岡がイイ、今度行ってみようかな。」と答えた人で、その後、行って来ましたとの報告はこれまで一度も聞いたことがありません。要は私の周りの友人たちの中では、旅行の優先度の中で盛岡は不当に低く抑えられていたのだと思います。   それが、「どうだい!ロンドンに次ぐ2番目だぜ」、やっと正しく評価されました。  ニューヨークタイムズの記事を受けて、地元もマスコミも盛岡賛美で大いに盛り上がっているみたいです。市内の真ん中にある城址公園、西洋と東洋が融合したような街並み、歴史的なジャズ喫茶、個性的な独立系書店、そう!盛岡は圧倒的に文化度が高いのです。 盛岡城址公園周辺  そして、今もあまり語られていない盛岡の魅力もまだまだあります。例えばアート!岩手県立美術館のコレクションも抜群!素晴らしい充実度です。  と言うことで、今日からの6日間、ニューヨークタイムズ掲載記念、「盛岡の魅力とそれを詠んだ四長の詩歌」をお届けします。  まずは、盛岡愛溢れる大作(七言律詩)です。 明日は、岩手県立美術館からお届けします。

《写真漢詩》雨水の頃

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   本日、2月19日は、二十四節気の「雨水」。雪が雨に変わる日と言われ、雛飾りもこの日に飾るのが縁起良しとされている。唯、如何せん「雨水」もあくまでも暦の上での話で、まだまだ北日本や北陸の雪の便りは続いている。そんな雨水の頃を詠んだ漢詩。   詩の中にもあるように、花粉症の私はそろそろ鼻がむず痒い、辛い季節の始まりだ。いつも何故スギの花粉はあんなに無駄に沢山、広範囲に飛ぶのだろう疑問に思っていたら、その答えをテレビで話していた。「杉は雌雄同株なので、その木の雄花と雌花で受粉することも可能だが、種族の多様性を高めために、雄花は遠くまで飛んで行く自然な機能を持っている。」とのこと、つまり、近所の彼女でも良いのだが、新しい彼女との出逢いを求めて飛び回っているのだ。   そうなんだ。でも「杉も杉で色々考えてチャレンジしているんだ、頑張れよ。」と理解を示すほど、私はロマンチストでは無い、科学の力で何とか杉の遠距離恋愛を阻止して欲しいものだ。(最近、無花粉スギも開発されているようだが、旧来種と置き換わるのには相当時間がかかるみたいだ。) 今年は何年に一度という花粉大飛散の年になるとのこと。私には恐怖しか無い。 明日からは、特別企画「ニューヨークタイムズと盛岡」を6日間お届けする予定です。

《写真漢詩》木場の凧揚げ

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   木場公園は、凧揚げの聖地です。木場公園はその名の通り、材木業者の倉庫や貯木場があった場所で、その機能が全て新木場に移った後、その跡地を東京都が防災都市計画の一環として公園として整備したものです。公園の南側は広大な原っぱとなっており、ここが23区内かと思うほど空が広く感じます。   その広い原っぱと空を見れば、誰でも凧揚げがしたくなります。  我が家も例外でなく、二人の娘が幼くて可愛かった頃には、冬の休日は毎週のように凧揚げに通いました。そして現在でも休日の木場公園で凧揚げに興じている親子を見ていると、父親と男の子のカップルより、父親と女の子のカップルの方が数が多いような気がします。  それは多分、男の子は凧揚げなんかは普段友だちとやっているので、休日はボール遊びのような他の遊びをしている。一方で女の子は、休日に父親とやる以外、凧揚げをする機会はないので、休日には目立っているのではないでしょうか?(男の子がいないので勝手に想像しました、)   それに、父親と幼い女の子との関係に於いて凧揚げというのは、非常に有益で貴重な時間だと思います。そう思いませんか?  と聞かれても良く解らないと思いますので 、 私の経験を元ににその有意義な時間を再現して見ましょう。  先ず、父親が女の子に「糸を持った方の手を高く掲げて思い切り走りなさい」と指示します。この頃までは父親に絶対的な信頼を置いている女の子は、言われた通り思い切り走り出します。1、2回は上手くいかないですが、最近の凧(カイト)はよく出来ているので、3回目には凧はそれなりに高く上がります。そうすると周りも皆んな、「ほう、凄い!」と女の子に注目してくれます。  木場公園ではそれはお約束です。一瞬ですが、女の子は公園のヒロインになります。小さな小さな成功物語が完結するのです。それも、女の子は凧糸を持って走っているとき、その指先に上空の風を感じ、自然と会話するという上質な体験も大きなオマケとしてついてくる物語が完結します。  女の子 は成長しても、「公園のヒロインとなった昂揚感」と「指先で風を感じ自然と会話した感覚」を、きっと忘れないで覚えていてくれるでしょう。その時、横で父親が見守ってくれていたというと記憶と共に、、  将来何かが原因で父親と女の子との関係が悪くなっても、きっとこの凧揚げの思い出が、父親を助けてくれるのは

《写真短歌》マイボタニカルライフ(1)

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   今日は、門前仲町の私のオフィス「写真デザイン研究所」&「四長庵」からほぼほぼライブでお届けします。このオフィス、シェアオフィスですから、勿論狭小空間、でも結構ボタニカルで、色々な植物たちが頑張っています。  今日は、その中でも私が驚いた「レジリエンス・ポインセチア」君のお話です。このポインセチア君、一昨年のコロナ禍のクリスマス、当時、写真ばかりに囲まれて、生物の気配を感じない事務所に、ささやかな命の息吹と彩りをと、近所の花屋で400円で私が購入したものです。   彼は頑張りました。たった一人でその年(注:昨年ではなく一昨年!)のクリスマスを盛り上げ、その後も、気まぐれなオーナーの不規則な水分補給にも耐えて、素直にすくすくと成長してくれました。(今では、体長は買った時の2倍はあります。)唯、ポインセチアのあの特徴的な赤い色をすっかり無くして、、、、一般的な緑の草となって、、、、私もいつも「そんなもんだぜ人生は、緑の君も素敵だぜ。」と声掛けして優しく接して来ました。   そして、年は過ぎ行き、昨年のクリスマスも完全な緑草で過ごしたこの二月、突然、真紅の新しい葉が何枚も出て来ました。偉い!奇跡だ!(自分の頭髪にも比較して)。 そんな驚きと喜びを短歌にしました。  ひょっとしたらベテランの園芸趣味の方には、全く当たり前のことかもしれません。でもボタニカル・ライフ初心者の私にとっては、想定外の嬉しい出来事でした。暫く事務所に通う楽しみが一つ追加されました。今年のクリスマスは、またこのポインセチア君が盛り上げてくれると思います。  明日はまた木場公園からお届けする予定です。

《写真俳句》木場の日向ぼっこ

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   先週土曜日、2月11日の話。前日の雪から一転、3月中旬並みの暖かさということで、建国記念日の休日の木場公園も大変な賑わいだ。この時期凧揚げに興じる親子連れが多い中、芝生広場の周りのベンチは、落ち着いて穏やかな雰囲気のカップルたちが、日向ぼっこを楽しんでいる。私もカップルではないが、一人でほっこりと日向ぼっこを楽しみながら、考えなくてもよいことを考えてしまった。それは「穏やかな人だから日向ぼっこをしようと思うのか」「日向ぼっこをしているから人は穏やかになるか」という一見どうでもいいが、ひょっとしたら重要な問題である。   それを、考えるには、日向ぼっこの語源を探らなければならないが、どうもこれには3説あるようだ、①日向誇り②日向惚けり③日向ほっこりの3つで、3つとも言われれば成程と納得してしまいそうだ。そして①②③の順に有力説とのことだが、私は断然、③の「日向ほっこり説」を支持したい。  それは日向ぼっこには、自然に人間をほっこりと優しく、平和な気持ちにしてしまう不思議なパワーがあると思うからだ。例え10分前まで喧嘩していたカップルも、10分間日向ぼっこ状態にあれば、どちらからか休戦を持ち出し、ほっこりとした気分になると思うし、そう信じたい。  世界中の国で、国民に1日10分日向ぼっこを義務化すれば、少なくとも人と人の争いは激減するだろう。(勿論、夏の間は外してだ、外さないと逆に激増するだろう。)  そして、国連か何か国際機関で、国同士で日向ぼっこをする方法を考え出してくれないかな?そう思ってしまう辛いニュースが多すぎる。   木場公園のお話が3日続きました。明日はちょっと趣向を変えて、私の門前仲町の事務所「四長庵」から私のボタニカルライフ?のお話をお届けしたいと思います。

《写真俳句》木場の白梅

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    仙台堀から、木場公園に入ると小規模ながら整備された梅園がある。梅園の梅の木は低木が多く、枝が丁度目の高さにあるので花見には好都合だ。まだ開花した白梅の木はここでは少数派だが、一番日当たりの良いところにある一木が、見事に開いた白梅を風に揺らして誘っている。  近づくと、完全に満開、梅にしては大きな白い花弁をが、凛とした佇まいを見せている。   そしてその時、私が思わず無意識に取った行動には、自分でも笑ってしまった。何故か着けていたマスクを外したのだ。白梅の凛とした佇まいに、こちらも居住い正して向き合わなければ、白梅に失礼だと思ったのだろう。  下がその時の一句。  マスクを外すと、二月の風はまだ頬に冷たかった。少しオーバーだが、自分の体の中の自然が蘇った感覚が、そこにはあった。 明日も木場公園からお届けする予定です。  

《写真短歌》木場の胡蝶菫(実存主義的?短歌です)

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  立春の朝、木場公園で三色菫を見ました。写真の通り鮮やかな濃い紫で、早速短歌か俳句で詠もうとしましたが、そこでふと考えました。三色菫って言っても、目の前の三色菫は紫の単色で三色ではありません。何か別の名前は無いか、スマホで検索、パンジー、ビオラ、、イイのがありました。「胡蝶菫」、コレだなと思いました。  でも名前の由来は書いてありません。想像するに花弁が「胡蝶」(蝶)に似ているからでしょう。写真で見ても、紫色の羽の蝶が草の上に止まっている様に見えないこともありません。これに決めたと思ったとき、最近物忘れが激しいくせに、昔のことは鮮明に思い出す私の前頭葉に何かが電気が走りました。 「確か、受験勉強のとき、読んだ「源氏物語」の中に「胡蝶」の巻ってのがあったな。その中で、光源氏の奥さんの「紫の上」が胡蝶の和歌を詠んでいたな。」と。  そうか、三色菫に胡蝶菫と言う別名を与えた人は、蝶に似た花弁だけではなく、源氏物語の紫の上を思い浮かべて名付けたに違いない。だから胡蝶菫は三色菫の中でも、この紫単色のものだけを言うのだと、、 (すみません。全くの私の推論、暴論です(笑)) そのとき、私が詠んだ短歌がこれです。  下の句の「夢か現か」は、中国の荘子の説話「胡蝶の夢」(司馬遼太郎にも同名の長編小説あり)から連想しました。「自分は夢の中で蝶になって飛んでいた、でも夢から覚めると、今度は本当は自分は蝶で人間になった夢を見ているのでは思う。夢と現実の区別がつかなくなった。」と言う話です。(荘子って紀元前から実存主義的だったんですね。(笑)) 源氏物語から、中国の思想家・荘子、そして果てはサルトルの実存主義を思う、不思議で少しだけ哲学的な短歌になりました。(でも紫ってそんな色です。) 明日も木場からお届けします。

《写真短歌》仙台堀と漢詩

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   今日は、仙台堀と漢詩についてお届けします。  漢詩と聞いて、令和の世に漢詩かと不思議がられる人が大半だと思いますが、私は結構嵌っています。(詳しくは、このブログのメニューの「ご挨拶」→「私の漢詩論」に、でも長文につきお暇な時にのみご覧下さい。)   仙台堀と漢詩と言えば、私は、やはり仙台藩の始祖、独眼竜の伊達政宗を連想します。政宗は戦国武将として知られていますが、その時代を代表する教養人・趣味人で漢詩の腕もなかなかだったようです。その政宗が詠んだ有名な五言絶句を紹介します。   この漢詩は、司馬遼太郎の同名の小説「馬上少年過ぐ」を読んで知りました。第一句の「馬上少年過」の僅か五つの漢字で、「常に馬の上(戦場)で過ごし、戦さに明け暮れた」武将伊達政宗の前半生を切り取る鮮やかさに痺れました。そしてその痺れが、私が漢詩に嵌る大きなキッカケとなり、現在はほぼ毎日、政宗公所縁の仙台堀を散策し、漢詩や短歌を詠む幸せを満喫しています。正に「残躯天所赦 不楽是如何」を実践しています。 そんな政宗公への感謝&リスペクトの心境を詠んだ短歌です。 空の上から、「短歌の出来はともかく、俺への思いは伝わった。今後も「不楽是如何」を忘れず、精進するように」って独眼竜がウインウしてくれました。 仙台堀の夜景、ライトアップはありませんが、運河の水面に揺れる灯影は幻想的です。 明日は、仙台堀に繋がる木場公園からお届けします。

《写真短歌》これが仙台堀の魅力だ。

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  予告通り「仙台堀の魅力」についてお届けします。私にとっての仙台堀の魅力は大きくは2つあります。それは①仙台堀を通って何処へでも行けること、②仙台堀には何でもあることの2つです。先ず①です、何処へでもと言っても勿論江東区内ですが、昨日話した通り、江東区の運河沿いの遊歩道、運河跡の公園(広義の仙台堀川公園)を通り歩いて、錦糸町・亀戸・豊洲・清澄白河、それにスカイツリーと言った繁華街へも大体行けます。基本公園内ですから、信号待ちもほぼ無くストレスフリーですし、緑か水を見ながら歩くことになるので気持ちいいです。  ②の何でもあると言うのも、かなりオーバーですが、私のような老境に達した人間にとっては必要な刺激である。自然(花鳥風月、四季の移ろい)、芸術(壁画・彫刻等々)、文化(松尾芭蕉や小津安二郎の記念館等々)が揃っています。  以上、超簡単で且つかなり地元贔屓、独善的な見解ではありますが、これが「仙台堀の魅力」です。 最後に、この熱い仙台堀愛を詠んだ短歌を1首お届けします。 明日は、「仙台堀と漢詩」と言うお題でお届けする予定です。

《写真漢詩》仙台堀を紹介させて下さい。

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   予告通り、仙台堀についてお届けします。一応予定では、今日から「仙台堀の紹介」「仙台堀の魅力」「仙台堀と漢詩」と言う順に展開して行こうと考えていますが、何分、大好きな仙台堀のこと故、脱線し、横道に入ることもあるかもですが、ご容赦願います。  今日は簡単に仙台堀を紹介します。先ず仙台堀の名前は、江戸時代、現在の清澄庭園の横に仙台藩の蔵屋敷(隅田川にも繋がる)があり、そこに米などの仙台藩の特産品が、荒川(含む中川)方面から、この堀(運河)を通って運び入れられたことに由来します。  江東区は、隅田川と荒川に挟まれた地域を区域としていますので、仙台堀はほぼ江東区を横断していることになります。また仙台堀に交差し、接続する横十間川や大横川や砂町運河が昭和期の河川法改正で仙台堀川として一つに纏められました。そして現在は多くの流域が埋め立てられ、その上に都内最大の親水公園「仙台堀川公園」が整備されています。  そして、この広大な仙台堀川公園が私の自宅があるマンションの敷地とも繋がっており、私は毎日、この仙台堀川公園を通って、門前仲町の事務所(勝手に「写真デザイン研究所」または「四長庵」と称しています。(笑))に通勤(往復徒歩2時間)しています。 今の心境を詠った漢詩を最後にお届けします。 写真は昨年の躑躅の季節に撮影 明日は、「仙台堀の魅力」をお届けする予定です。

《写真漢詩》ブログ開設記念海外編11 (チヴィタ・ディ・バーニョレージョ)幸齎

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   昨日の続き、今日も「チヴィタ・ディ・バーニョレージョ」の村を詠んだ漢詩をお届けします。  橋を渡り村に入り、石畳の道を行くと教会の広場に出ます。教会の前を一人の男性がこちらのことは全く気にすることなく、ゆっくりと箒で履き清めていました。  その時のことは、今でもはっきりと憶えています。強烈な既視感(デジャブ)が私を襲いました。それが何かは直ぐに解りました。そう私の大好きなBS日テレの「小さな村の物語 イタリア」の映像が重なったのです。(この番組は三上博史がナビゲーターで、本当に淡々とイタリアの小さな村の日常を紹介して行く番組ですが、かなりの長寿番組であることから、私のような隠れファンも沢山いると思います。)これも一つの聖地巡礼かなと思った途端、番組のオープニング&エンディング・テーマのオルネラ・ヴァノーニの「逢びき」が頭の中で流れ、とても幸福な気持ちになりまし た。   そして、数年後にこの写真を見て漢詩を詠んだ時に、普段苦労する五言律詩の「対句」の部分が随分簡単に降りて来ました。恐らく「逢びき」の気持ち良いメロディーとリズムが助けてくれたのだと思います。 (対句とは「五言律詩」「七言律詩」の3(句)行目と4行目、5行目と6行目の品詞の構成を揃えることを言います。今日の私の漢詩「五言律詩」を見てもらうと解り易いと思います。この「対句」と「押韻(別の機会に説明させて下さい)」の二つを理解すれば、漢詩は誰でも楽しむことが出来ると思います。) 明日は、また仙台堀の作品をお届けする予定です。

≪写真漢詩≫四長の『現代漢詩論』

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私の現代漢詩論                                                  四長 1.私と漢詩の出逢いと再会  私が漢詩と出逢ったのは、今から50年以上前の高校生の時です。当時私の通っていた名古屋市の東海高校は、その頃でも珍しく古文から独立した漢文の時間が週に1回ありました。その漢文の授業の中心となり題材となったのは、今でも良く憶えている中国唐代の近体詩の2大巨人李白(詩仙)、杜甫(詩聖)の漢詩でした。  勿論、日本語での授業であり、「絶句と律詩」「押韻」「対句」等々の近体詩のルールはしっかり教わりましたが、読むのは日本語の書き下し文であり、中国語の発音である「平仄」は一切教わることはありませんでした。  そして、時は流れて約50年。漢詩とは全く無縁の生活を送っていましたが、一昨年(2021)コロナ禍の11月、年賀状を作っているとき、なかなか逢えない友人たちに、李白風のお酒の詩を贈ろうと、何故か急に思い立ちました。このとき本当に不思議ですが、高校時代の記憶が蘇り、割と簡単に何編か出来てしまいました。(偉そうですが、正に天から降りてくるように。)  それからは、本を読んでも、テレビを見ても漢詩が気になるようになり、夏目漱石や森鴎外の漢詩の本を読んで勉強(確認?)して、正に習うより慣れろで、自己流の漢詩を創作するようになりました。基本1日1編のノルマ)のペースで、正確では無いですがもう400編は超えていると思います。 2.私にとっての漢詩の魅力  現在、私にとっての漢詩の魅力は2つあります。「読む魅力(自作も含む)」と「創作する(詠む)魅力」です。 (1)読む魅力   先ず読む魅力ですが、これも大きく分けると2つあります。「書き下し文の美しさ」と「漢詩に載せられている情報量の多さ」です。   ①書き下し文の美しさ  前述しましたが、私のような中国語を知らない多くの日本人にとって、漢詩を読むこと、口述することは、日本語の書き下し文を読むことです。高校時代、李白や杜甫の詩の書き下し文を読むとき、私は不思議に気分が昂揚したこと憶えています。美しいな、カッコいいなと思いました。それは、今になって良く分かりますが、文語体の心地よさだと思います。 (文語体を心地良く感じる感覚は、今でも一定以上の年齢の日本人は自然に持っています、文語体で綴られた

《写真漢詩》ブログ開設記念海外編10(チィヴィタ・ディ・バーニョレージョ)羅飛多

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   昨日予告したイタリアの小さな村を詠んだ作品です。唯、小さな村と言っても、そこは天空の城、「チヴィタ・ディ・バーニョレージョ」の集落です。この村について今日と明日の二日間、作品をお届けしたいと思っています。 まず、今日は、余り予備知識も無いまま、この村(天空の城)を遠望したときの驚き、感動を詠った漢詩です。   本当に驚きました。「チヴィタ・ディ・バーニョレージョ」は、2500年前にエイリトリア人によって築かれた都市の跡ですが、今は崩落の危険もあり、「死にゆく町」とも呼ばれています。しかし、私の目の前に現れた天空の城は、スタジオ・ジブリの大ヒットアニメの「天空の城・ラピュタ」の如く生き生きとして、今にも大空へ飛び立って行くような迫力でした。  漢詩の題名「羅飛多」は如何にも無理無理の当て字ですが、どうしても漢詩の中に、「ラピュタ」を思い浮かべた自分の感動を入れ込みたい私の切なる願いの表れ、ということでご理解下さい。  明日は、写真にもあるこの村への唯一の交通手段である狭い橋を渡り村に入り、そして詩の中で詠んだ鐘楼の教会を詠んだ漢詩をお届けします。

《写真漢詩》ブログ開設記念海外編9(ローマ・パンテオン)

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  ローマ編3日目です。今日は古代ローマの遺跡のパンテオンの写真を見て詠んだ漢詩をお届けします。パンテオンはローマ市内、マルス広場に建造された神殿です。写真撮影は2016年、そしてこの短歌を読んだのは、その6年後の2022年です。確か何度目かの緊急事態宣言かまん延防止措置の最中に詠んだ記憶があります。それもあってか、この七言絶句は神殿の前の広場、そして広場を埋め尽くす人の群れを詠んでいます。   残念ながら、神殿の中の写真が残っていないせいか、室内のことは、天井の丸い天窓のイメージ以外は余り憶えていません。一方で広場の群衆については、飛び交う言語の多様さが明確な音の記憶として残っていました。   そして、その音の記憶と共に降りて来たのが、「広場」と言う漢詩の題名です。ヨーロッパでは、「広場は都市の本質そのものだ」と言われていますが、正にその通り、「早く世界中の言語、会話が飛び交うローマの広場の本質が帰ってくると良いな。」「またいつの日か自分もその広場に居たいな。」と、その時強く思ったこと、憶えています。 明日は、イタリアの小さな村?を詠んだ漢詩をお届けする予定です。