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《写真短歌》四長、グスタフ・クリムトの生涯を語る(下)。

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   いよいよ、クリムトは晩年と言うか最盛期(色々な意味で)を迎える。日本人のクリムトに対するイメージは殆どこの時期の彼の作品、生き様により形成されている。クリムトはウィーン大学の天井画事件の後、国家との関係を一切絶つ。そして美術界での立ち位置についても古典主義派・伝統主義派との完全に決別し、分離派と結成し、そのリーダーを務める。 ウィーン分離派会館の壁画「ベートーヴェンフリーズ」   しかし、その分離派さえも、派閥争いに嫌気が差し数年で脱退してしまう。その後は、敢えて世間的な付き合いを放棄して、自らの感情の赴くまま自由を謳歌した。 クリムトの日常の服、正に全く束縛されていない(笑い)。   クリムトは自宅で、最盛期(?)は15人もの女性(裸婦)モデルと暮らし、非摘出子(生涯未婚を通す)の多く確認されている。そうした環境の中で彼は極めて旺盛な創作活動を続ける。(「黄金の騎士」「アデーレ」「接吻」等々代表作は、この時期に制作された。)  後輩の無頼派エゴン・シーレも、この頃クリムト宅を頻繁に訪れている筈だが、「流石にクリムト先輩には敵わない。三角関係に悩む自分は、なんて小さいのだろう。」って思ったんじゃないかな、、短歌も出来た。   しかし、そのクリムトにも最後のときが近づく、下の作品は、彼がスペイン風邪で亡くなる3年前に描いたものだ。この頃はめっきりと作品数も減っている。タイトルは「生と死」、恐らく右側に寄り添い、抱き合って固まっているのは、彼を中心とし、一緒に暮らす家族?たちだ。左側の骸骨はズバリ死神に違いない。強かにウィーンの世紀末を謳歌したクリムトも死の恐怖からは逃れられなかったのか?それともその最後の日々の中で、近づく死さえも美術に昇華させようとして足掻いていたのか?興味は尽きない。でも、晩年の彼の暮らしの記録は残されていない、、、想像するしかない。そこがクリムトらしい。

《写真短歌》四長、グスタフ・クリムトの生涯を語る(中)。

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   昨日に続き「四長が語るグスタフ・クリムトの生涯」の中編だ。前編ではクリムトの順風満帆の前半生が、転機を迎えるところまで書いた。今日はその転機となった「ウィーン大学講堂の天井画」について語りたい。  クリムトは1894年、国立ウィーン大学から大学講堂の天井画を依頼され、7年間をかけ描き上げる。しかし、この制作過程で大学から大バッシングを受ける。大学側は人間の知性の勝利を歌い上げるような作品を期待していたようであるが、制作の過程で徐々に明らかになるクリムトの絵は、知性の優位性どころか、それを真っ向から否定し、「ポルノチック」で「変態的過剰表現」で描かれていると言うのだ。実際はどうだろうか?順に見て行こう。  「哲学」「医学」「法学」の3つのテーマを描いた絵は、3枚ともナチスによって焼かれたとされており、今は写真と下絵しか残されていない。私はウィーンで、その写真を結構大きなパネルで見ることが出来た。天井画のイメージが湧いた。 医学 哲学 法学   現代に生きる私の眼には、先ず「医学」は背景の病気に悩む人たちを、前に立つ女神が医術を尽くして救おうとしている様に見える。次の「哲学」は真理を求めて考え悩み抜く人たちを、後ろにぼんやりと見える大きな神のような影が、しっかりと見守っている様にも見える。現代なら二つとも十分アリだと思う。それに比して「法学」は辛い、(私は法学部出身だ。)何かタコの様な軟体動物が、罪人を絡め取り処刑をしている様だ。これはかなり辛い。でも、でもだ。よーく見ていると別の考えも湧いてきた。軟体動物を取り囲む三人の女性が裁判官や検察官や弁護士といった法曹たちと思えば如何だろう。三人が事件を法律に照らして冷静に考えていると見れば、アリだと思う。だんだんアリと思えてきた。そう現代なら絶対アリなのだ。 そもそも、現実の人間社会に於いては、医学も法学も、哲学だってドロドロしたものだ。その中で、学生も大いに考え・悩み、真実を見つけて行くしか無いのだ。クリムトもそれが言いたくて、これを描いたのだろう。     でも、当時の大学の教員たちに理解出来なかった。彼らは猛然と抗議し、クリムトに約束していた大学の美術アカデミー教授就任オファーも反故にした。帝国議会もこれに従い、クリムトに「猥褻物陳列罪」を適用すべきとの意見も出た。クリムトは失意の中、「検閲はもうたくさんだ。今後

《写真漢詩》四長、グスタフ・クリムトの生涯を語る(上)。

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   グスタフ・クリムトである。今日から3日間、2019年ウィーンでクリムトの作品を撮影、その写真を見ながら詠んだ私の短歌と漢詩を紹介しながら、私なりにクリムトの生涯を振り返りたい。   クリムトの最高傑作と言われる「接吻」を見ながら詠んだ七言絶句、最初に何故か「陶酔無限」というタイトルが浮かび、後は一気に詩を完成することが出来た。詩にあるように、彼はウィーン分離派(古典的・伝統的な美術からの分離を標榜する)のリーダーである。そして世紀末のウィーンで街の退廃ムードを纏い、自由奔放に生きた人物だ。しかし前半生は意外に周到で堅実、言い方は悪いが計算高くもある。  彼は先ず、美術学校在学中から、弟や友人たちと、装飾やデザインの工房(芸術家商会)を立ち上げた。この商会は、直ぐに業界の一番手となり、今もウィーンに残る「ブルク劇場」「美術史美術館」等の装飾は、クリムトの手になるというか、この商会の仕事である。なかなかの経営手腕で、ビジネスはウィーンに留まらず、中欧(ハプスブルク勢力圏)全域に及んだ。 ウィーンのブルク劇場、2019年訪問時は中の工事中で装飾を見学することが出来なかった。   またクリムトは、「画家の王」と呼ばれ、ウィーン社交会の中心人物であったハンス・マカルトに学び、気に入られ継承者と称されることとなる。それにより、マカルトの極彩色で享楽的とも言える絵画手法とともに社交界・美術界での人脈も手に入れた。 ウィーン、美術史美術館のクリムトの装飾。   正に順風満帆の半生だが、そんなクリムトに転機が訪れる。契機はウィーン大学の天井画の作成である。その事件の詳細、物語については次回お話したい。  ところで、上の七言律詩だが、末句の「藝術不在倫」について、これは「石田純一」のことかと質問があった。恐らくその人は、その昔、当時トレンディー俳優として絶好調の石田純一が不倫騒動で、しつこいレポーターからマイクを向けらられ、「そういうもの(不倫)が、歴史上にも色々ある。それを題材にし生まれた作品もある。それを全否定したら、文化も芸術も全否定されてしまう。」と言ったのを切り取られ「不倫は文化」と大炎上したことを思い浮かべたのだろう。でも、それなら「不倫在文化」「不倫在芸術」だ。  私の詩は「藝術 不在倫」で、訳にあるように、「アートは倫理から解き離たれている」の意だ。  石田純一も

《写真漢詩》まだ5月だ!梅雨よ、少し待ってくれ!

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   もう梅雨に入ってしまったのか?このブログでも 一昨日(リンク) 、 昨日(リンク) と「四長、梅雨を楽しむ。」なんて季節先取りの余裕を見せていた自分が情けない。まだ5月だと油断していたのだ。温暖化の影響を軽視していた、、、、まだ、爽やかな5月を詠んだ漢詩が残っているのに、、、来年まで取っておこうかとも、考えたが私もいい歳だ。何が起こるか分らない。まだ暦の上では5月と言うことでお許し頂きアップすることにした。 「新緑」、漢字を見ただけでも初夏の爽やかな季節感が伝わる言葉だ。時候の挨拶として5月下旬から6月初旬まで使える。(昔は梅雨はその後6月中旬だった。これも言い訳だ。)その他にも、この5月下旬の頃の時候の挨拶の言葉は「薫風の候」「初夏の候」「若葉の候」「立夏の候」「軽暑の候」「万緑の候」と爽やかさ満載だ。一年で一番気持ちの良い季節だと思う。(少し5月を褒め過ぎなのは、私が5月生まれであることも影響している。) 特に、今年は新型コロナがやっと5類に移行、マスク無しで、新緑の森や野原のオゾンたっぷりの空気を思い切り吸い込める。最高だ!次の漢詩も、仙台堀川公園のベンチに座り、思い切り伸びをして、空気を吸い込んだときの喜びが込められている。 「梅雨も始まり、鬱陶しい日々が続きますが、少しでも5月の爽やかさをお届けしたいと言う私の気持ち、伝わりましたか?」と言うのは、本当に苦しい言い訳だ。(油断を反省)

《写真漢詩》四長、梅雨を楽しむ(2)。

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   雨が苦手と 前に書いた 。でも、過去を振り返ると雨が好きだった頃があったことを思い出した。幼稚園から小学校の低学年迄だ。あの頃は、毎年身長が伸び、足のサイズも大きくなったので、結構な頻度で、傘やレインコート、レインシューズを新調して貰っていた。   それに加え私ときたら、傘を忘れる、失くすのが得意だった(今も得意だ)。自ずと頻度はもっと高くなった。そんなに失くす筈のないレインシューズも学校の近くの「底無し沼?(そう呼んでいたが、今思えばレンコン沼か?)」で遊んでいるとき、沼にシューズが吸い込まれていく事件が起きた。上級生も一緒に探してくれたが結局見つからず、片足裸足で帰ったこともある。今考えれば、梅図かずおや水木しげるの漫画に出てくる様な底無し沼?が、学校の近くに柵も無くあることが問題だと思うが、母は新しく買い与えたシューズを早々に失くす私に怒っていた。私はシューズではなく、私が底無し沼に沈まなかったことを喜ぶべきだと言いたかった。でも、また、新しいのを買って貰わなくてはいけないので、神妙にしていたのを覚えている。  そんな事件もあったが、新しい雨具を最初に使うときは嬉しかった。早く雨が降らないかと待ち遠しかったものだ。でもそんな時に限って空梅雨だったり、日照り続きだったな、、、、  最近、本当に何十年か振りに、新しいレインシューズをAmazonで買った。健康を維持するためには、雨の日にも、ルーティンのウォーキングをサボるわけにはいかない。気分をより盛り上げるため、漢詩も創った。 五言律詩、写真と本文だけ(訳無し)で、ご理解いただけるのでは、、、

《写真漢詩・短歌》四長、梅雨を楽しむ(1)。

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  間も無く梅雨だ。仙台堀の花暦も梅、桜、藤、躑躅、ハナミズキ、ヤマボウシと終わって、次は紫陽花の番だ。その紫陽花について、私は衝撃的な(私にとって衝撃的であっても、世の中では当たり前のことかも知れない)事実を知った。それは、「紫陽花の花の色は、土壌の酸性度(pH値)によって変わる」というものだ。土壌の酸性度ということは、肥料によって酸性度を変えれば、人間は紫陽花の花の色を自由に変化させられるということだ。  それで納得した。私の幼かった頃は、その名の如く殆ど紫陽花と言えば紫色だった気がする。それが最近では、本当にカラフルな紫陽花を見る。私はどんな色の紫陽花が咲くのかは、その花の遺伝子次第で、偶然の要素も大きいと思っていた。少し興醒めな点は否めないが、、、  でも、梅雨の時期の紫陽花の貢献を思えば、そんな興醒めなんて失礼なことは言えない。紫陽花には感謝しかない。下の漢詩が、私の正直な気持ちだ。   元々ライバルが少ない梅雨の時期、紫陽花は一人横綱状態だ。紫陽花には頑張って日本の梅雨を盛り上げて、少しでも楽しいものにしてもらわなければならない。カラフル戦略も大いに結構!益々磨きをかけてくれ!どんどん新しい色の紫陽花で梅雨の仙台堀を彩ってくれ!それはそれで楽しみだ。将来、朝ドラ「らんまん」の牧野博士もビックリのゴールド、シルバーの紫陽花も出てくるかも知れない。

《写真漢詩・短歌》四長、エゴン・シーレを「世紀末と寝た画家」と表す。

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  「世紀末」と聞いて何を思い浮かべるかは人それぞれだが、私は20世紀末の日本を席巻したヘビメタ・バンド「聖飢魔II」を思う。音楽を媒介として悪魔教を布教することを目標としていたようであるが、1999年12月31日23時59分59秒に「地球征服を完了した」と宣言し解散した。(その後も、定期的に復活しているみたいだ。)  悪魔教に征服されたが、私の記憶では、日本の20世紀末は比較的平和だった。私自身はシステムの2000年問題でドキドキして迎えたが、ノストラダムスの大予言も外れ、穏やかな21世紀の幕開けであった気がする。   でも19世紀末のヨーロッパは少し雰囲気が違ったようだ。世紀末イコール世の終わりと捉え懐疑的・退廃的・病的な思潮の傾向が一気に強まり、その傾向は20世紀の初頭まで続くことになる。そしてその時代、中欧の中心都市ウィーンで、時代の空気を纏い、性と死というそれまでの美術界でタブーであったテーマを直感的に描いた画家が登場した。エゴン・シーレである。 エゴン・シーレのポートレート、ハンサムでモテそうだ。そして当たり前だが自画像と似ている。   エゴン・シーレが、もし現代の日本に生きていたら、彼の私生活・創作活動からして、ひょっとすると逮捕されていると思う。少なくとも文春砲や新潮砲の餌食であったろうし、ネットで大炎上を続けたに違いない。私生活に於いては、彼自身は「ミューズを求め続けた結果の女遍歴」と言うかもしれないが、反倫理的で不倫そのものだ。創作物も見る人によっては多くの作品が卑猥そのものだ。(実際今でも、彼の絵画をTwitterでアップしたら、その半分くらいは、センシティブな映像として画像が消されると思う。)   そんな彼が、100年前のキリスト教の倫理観が支配的であったウィーンで認められ、人気画家となっていった。それは、3つの理由があったと思う。先ず何と言っても、先輩グスタフ・クリムトに可愛がられたことが挙げられる。次に勿論、彼の画力だ。 前にブログ(リンク) で書いたが、彼の描いた人物の強すぎる目力と極端に身を拗らせたポーズは、その絵を見ている人を、男女を問わず惑わせ、惹きつけずにはおかない。そして最後に、その時代、世紀末のウィーンの街のムードも大きく彼に味方したと思う。「時代と寝た女」と言う表現をよくその時代、一世を風靡した大女性歌手や大女優に使うが、

《写真短歌》マイボタニカルライフ(10)四長、ポインセチアの奇跡に興奮する(後編)。

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  三回目の奇跡はつい最近の話だ。  私はまた京都へ行きたくなった。でも流石に今回はポインセチアの水遣りをどうするかを、一番先に考えなければならないと思った。私にボタニカルライフを送るものとしての責任感が芽生えた瞬間だ。戦略的に考え二つの案が浮かんだ。 京都旅行前、赤い葉のみ   一つはデジタルを活用する案だ。Amazonで、私のポインセチアに定期的に水遣りをしてくれるデジタルグッズが無いか捜した。かれこれ30分は捜した。でも残念ながらそんな都合の良いグッズは、まだ発明されていないようだ。案1は割とあっけなく途絶えた。  案2は人海戦術だ。人海といっても私には動員出来る戦力は娘二人しかいない。(家人は京都に同行する。)これは物理的には可能だなと思ったが、良く考えるとこれもなかなかハードルが高い。もし娘たちに「私の貴重な3時間(往復でそれくらい要する)と、パパが498円で買ったポインセチアとどちらが大事か?」と問われたらマズイ。私はそうした根源的な問題を論理的に詰められるのに極端に弱い。案2も採用は見送られた。こちらは僅か3分で見送られた。  結局33分後に私が採用した案はこれだ。「京都へは行く。但し前回の1週間滞在を今回は3日間に短縮する。」という極めて平凡だが現実的な策だ。くだくだ悩まず最初からそうすれば良かった。大好きな京都滞在が短くなるのは残念だが、ポインセチアとの絆がそうさせた。気分は「英雄たちの選択」だ。  そして2泊3日の京都旅行から帰った翌日、また奇跡が起こった。ポインセチアが僅か3日間の間にまた変身を遂げたのだ。皆さんも前編の赤しか残っていなかった姿がご記憶に新しいと思うが(前編にリンク)、何と、赤の葉の下から、今度は緑の葉が元気に生えてきたのだ。それも幾つも。3日間に水遣りブランクが影響したのか、赤い葉の方は若干色が燻んだ感じは否めないが、緑の葉は元気だ。勢いがある。赤を凌駕して緑が席巻するのか、、、ポインセチアは凄い、正に人知を越えている。 iMacの画面で旅行前と比較する。   こうなると問題は(楽しみは)クリスマスだ。赤で迎えるのか、はたまた緑で迎えるのか、興味は尽きないが、予測は不可能だ。ポインセチア自身にクリスマスを意識しているか聞いてみたいところだが、プレッシャーになってはいけないと我慢した。もう結構長くなった彼との付き合いの中で、私も

《写真短歌》マイボタニカルライフ(9)四長、ポインセチアの奇跡に興奮する(前編)。

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   ポインセチアの奇跡は3度起こった。私の机の上で、、、 一回目の奇跡は、 前にブログ に書いた。「一昨年のクリスマスに買ったポインセチアが、昨年のクリスマスは完全に緑色で過ごしたが、その後も諦めずまた赤い葉を出し始めた。」と言う涙無しでは読めない話だ。 一昨年のクリスマス、ポインセチアが入所した頃、その後の苦労も知らず元気、498円の値段シールも鮮やかだ。因みに右のシクラメンは既に引退している。   二回目の奇跡、これは今まで隠していた。読者は知らない話だ。一回目の奇跡で、非常に優しい人になったであろう私のイメージが、これで崩れてしまうのではと恐れ隠蔽してきた話だ。小さい男だ。永遠に葬ろうと思ったが、三回目の奇跡が起こってしまったからには仕方ない。公表することにした。一回目から三回目に飛ぶことは、性格的に私には出来ない。話はこんな感じだ。 「私は3月に、1週間、京都へ吟行へ出掛けた。1週間、ポインセチアを始め、我が研究所のボタニカルメンバーの水遣りはどうするのだという問題意識は十分に持ってはいた。持ってはいたが、時に私は楽観的になる。そして非情にも、、まあ自分たちでなんとかするだろうと。(植物は自分たちで、蛇口の下まで歩いていけないのに、、本当に非情なヤツだ。)  旅行前日、普段よりたっぷり多めに水を遣り(下の受け皿から溢れんばかりに)、そして、取り敢えず旅行中、私は彼らの存在を忘れることにした。(ここまで読み返したが、まるで懺悔だ。)」 京都吟行前のポインセチア、赤葉は少数派だった。 「1週間後旅行から戻った朝、研究所のドアの鍵を開けるとき、私は急に悲観的になった。私の中で優しさが蘇った瞬間でもある。ボタニカルメンバーは大丈夫か?ポインセチアは元気か?と。なんか南極物語で、南極大陸に置き去りにしたタローとジローに再会するシーンがフラッシュバックする。私はそのとき、1週間前の非情な判断を後悔していた。」 「でも、いつまでもドアの前で後悔している訳にはいかない。私は思い切ってドアを開けた。そのときだ。目の前に奇跡があった。ポインセチアは生きていたのだ。それも何故か、緑の葉を全て落として、赤い葉だけになって、、、でも不思議だ。残った赤い葉は、一週間まえより明らかに赤い色が鮮やかでピンとしている。ポインセチアの中で、何かが起きたのだ。緑の葉を全て落とすことで、養分を全

《写真短歌》四長、西域を語る(6)「大谷光瑞・大谷探検隊(後編)」

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   昨日の 前編(リンク) の最後に、大谷探検隊の西域大探検の資金調達に私「四長」の祖先が、少し(ほんの少し)関連しているのではと書いた。何をバカなことをと皆さん思うだろう。その通りバカな話、私の頭の中で作り上げた妄想の類いの話だが、一応、順序立てをして整理したので、下の説明を読んでくれると嬉しい。こんなストーリーだ。 1. 私の雅号「四長」は、「長学・長遊・長楽・長生」の「四長」の他に、私の曽祖父である「初代、長左衛門」から数えて、私が四代目に当たるので「四代目、長左衛門」、略して「四長」の意があると 前(リンク)に書いた 。その初代長左衛門は「尾張名古屋の台所」と言われた「枇杷島市」で広く青果商を営み、明治期〜昭和初期の経済人・文化人と交遊した。 2.  その文化人の中で、最も親しく接したのが、大口鯛二(周魚)だ。周魚は同時期の代表的な歌人であり、宮内省御歌所寄人(明治天皇の和歌の先生)。また書家で、日本の書道史研究の第一人者であった。周魚は枇杷島市の近くの生まれであり、上京前、後に「初代長左衛門」が支援・後援をしていたことが、残された書簡から窺える。(その為か、我が家には周魚からの様々な御礼の品が残されている。現在、それらの品々は「成田山書道美術館」に預託してある。) 大口周魚から初代長左衛門に贈られた菓子器 3.  周魚の数ある業績の中で、最も華やかなものに「西本願寺本三十六人家集」(三十六歌仙の和歌を集めた日本最古の装飾写本・国宝に指定)の発見がある。この世紀の発見は1896年、浄土真宗本願寺派第21代法主大谷光尊から依頼を受け、周魚が寺の庫裡を調査する中で起きたものだが、その後、周魚の学界・書道界への一大功績と呼ばれるものになり、今も語り継がれている。 4.   時、正に日本仏教史上最大の逆風、廃仏毀釈運動の嵐が吹き荒れていた時期である。大谷光尊法主は、この世紀の発見を日本仏教再興に繋げるプロジェクトの企画策定を、ロンドン留学中の息子、後に第22代法主となる大谷光瑞に命じた。 5   命を受けた大谷光瑞が、ロンドンで企画したプロジェクトは概略、次の通り。①「西本願寺本三十六人家集」の一部を財界人(これも周魚が当時財界大立者にして大茶人益田鈍翁に周旋を依頼)に売却、資金化する。②その資金を持って「大谷探検隊」を編成して、当時まだ国際的にもブラックボックス

《写真漢詩》四長、西域を語る(5)「大谷光瑞・大谷探検隊(前編)」

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   大谷探検隊である。20世紀の初頭、浄土真宗本願寺派(西本願寺)第22代法主・大谷光瑞が西域に派遣した学術探検隊である。前後3次にわたって行われ、西域研究において世界的な業績を挙げた。 京都市・西本願寺御影堂   しかし、最近でこそ、東京国立博物館の創立150周年記念特集で取り上げられ話題にもなっているが、私のような西域フェチ以外は、余り皆さん興味を持っていない気がする。それが残念で堪らない。    大谷光瑞がこの探検隊の派遣を構想した動機は、当時日本で吹き荒れていた廃仏毀釈の嵐に対する仏教界トップとしての危機感であった。でも、その結果齎された研究成果は仏教界に留まらず、世界史・地理の中でブラックボックスになっていた西域の文明・歴史・地図を白日の元に晒すことになる。お陰で多くのシルクロードの謎が解明された。  例えば、「謎の山であった霊鷲山」「動く湖ロプノール」「マガタ国の首都王舎城」「スバシ故城」「楼蘭や敦煌の経典やミイラ」など、数え上げればキリが無い。もっと評価されて良いし、学校の世界史・日本史の授業で、その学問的業績をしっかりと現在の子どもたちに教えるべきだと思う。 大谷探検隊踏査ルート   そして、この旅は、単に調査研究の旅に留まらず、映画インディ・ジョーンズのようにロマン溢れる大冒険活劇であった。あの広い西域で、ロンドンから出発した隊員と、日本から出発した隊員が、お互い音信不通になりながら、偶然に敦煌で再会するなどなど奇跡の連続の旅でもあったと言う。私は日本制作のネットフリックス配信のドキュメンタリードラマのネタとして最適だと思うが如何?  下の漢詩は、そのドキュメンタリーをイメージして詠んだ詠んだ七言律詩だ。   さて、明日の後編では、大谷探検隊が。あの廃仏毀釈の嵐の中、日本仏教再興を賭けての西域の旅の膨大な資金をどの様に調達したのか?にスポットを当てたい。そこにも奇跡のドラマが!何と「四長」の先祖も登場! ※参照   四長、西域を語る(1)「井上靖・敦煌」(リンク)   四長、西域を語る(2)「田村能里子・風河燦燦・三三自在」(リンク)   四長、西域を語る(3)「NHK特集・シルクロード・楼蘭を掘る」(リンク)   四長、西域を語る(4)「久保田早紀・異邦人」(リンク)

《写真短歌》四長、エゴン・シーレの目力に戸惑う。

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  エゴン・シーレ、グスタフ・クリムトともに、オーストリア、ウィーンの世紀末芸術を牽引した2大スターである。28歳で夭折したが、多くの印象的な作品を残し、先頃上野の東京美術館でも大規模な回顧展が開催されていた。 こちらは、2019年、ウィーンのレオポルド美術館で行われた「WIEN 1900」展   そのシーレが、あのナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラーとほぼ同時期にウィーン美術アカデミーを受験していたのは有名な話だ。今回の回顧展に合わせて、幾つかの番組でもそのことを取り上げていた。受験の結果は、シーレは合格、ヒトラーは不合格だった。歴史にイフ(i f)は禁物だが、もし受験結果が逆であったら、世界の歴史は大きく変わったかもしれない。(シーレが、折角合格したアカデミーを直ぐに中退してしまったことを考えれば、私には逆で良かった気がする、、、でも、そんなことを言ったらミューズ(芸術の女神)に怒られるかな?)  一方、ヒトラーは、結構そのことを根に持っていた様だ。ナチスが政権を取った後、政権は「退廃美術展」なる展覧会を開催、シーレの作品を国内から没収し、その中心展示とした。展示する画家の選定、作品の選定にヒトラーがどこまで関わったのか、私は正確に知らない。でもシーレについては、ヒトラーが、直接関わった様な気がする。だって、シーレが合格していなければ、自分が合格だったに違いないと。自惚れと嫉妬も強かったヒトラーは、そう思っていたに違いないから。   その作品選定のとき、この自画像はどうしたのかな?興味がある。シーレの他の作品と違って退廃って感じは全然しない。そして、何と言ってもこの目力(めぢから)だ。さすがヒトラーも、これに睨まれたら、少し躊躇したかもしれない。   最近、テレビドラマを見ていて、エゴン・シーレの自画像に負けない目力を持つ俳優に出会った。「エルピス」の眞栄田郷敦だ。彼の視線の先にある主演の長澤まさみが、その目力に戸惑う様子が面白かった。(短歌にある「視線の先で戸惑う」のは、ヒトラーではなく長澤まさみがイメージだ。念の為!)  眞栄田郷敦にはもう一つ武器がある。父千葉真一のDNAか体幹もしっかりしているのだ。大きな荷物を持って坂を駆け上がるシーンで、腰の高さが一定に保たれ感心した。俳優は目力と体幹だ!(あと声かな?)、是非、眞栄田郷敦には2つの武器でスターダムを駆け

《写真短歌》四長、西域を語る(4)「久保田早紀・異邦人」

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      私にとって、西域の音楽と言えば、 前回のブログ(リンク) に記した喜多郎作曲の「NHK特集シルクロードのテーマ」が一番だが、もう一つ忘れられない曲がある。それは1979年10月発売、三洋電機のカラーテレビのCMソングにも起用された、久保田早紀作詞・作曲の「異邦人・シルクロードのテーマ」である。当時のヒットチャート1位で、その後もZARD等多くの歌手がカバーした。  この曲、元々は「白い朝」というタイトルで、作者の久保田早紀は、東京国立市の大学通りの並木通りの朝のイメージを書いたと言う。それを、ここまで、西域、シルクロードのイメージの楽曲にしたのは、敏腕プロデューサー酒井政利の力だろう。  酒井は、この同じ年、ジュディ・オングの「魅せられて」をイントロにギリシャの民族楽器ブズーキを登場させ、エーゲ海のムードを醸し出し、一気にレコード大賞をジュディ・オングにもたらしている。そして、この「異邦人」に於いても同様、中近東の民族楽器ダルシマーを使いシルクロードのイメージを現出、80年代の日本のシルクロードブームを増幅するのに大いに貢献した。サビまで待てない現代の若者には、通じない魔法だったかもしれないが、当時の日本人は、この長めのイントロを聴き、それだけでシルクロードの雰囲気に痺れることが出来た。   しかし、何度も酒井プロデューサーにダメ出しをされ、歌詞を書き直した久保田早紀の作詞力も只者ではない。特に2番の歌詞「市場に行く人の波に、身体を預け 石畳の街角を ゆらゆらと彷徨う 祈りの声 蹄の音 歌うようなざわき、、、」は、その翌年から放映が始まる「NHK特集シルクロード」の中で見た、オアシス都市カシュガル やサマルカンドのバザールの朝の情景そのものだ。(決して国立駅前の朝ではない。)  作者本人の意図とは切り離されて、別の命を得て生き続けた楽曲の典型的な例だ。でも実は、作詞家・久保田早紀にも、心の奥にシルクロードへの憧憬が眠っていて、この機会に覚醒したに違いないと私は思う。  曲の終わりのフレーズ「ちょっと振り向いて見ただけの異邦人」の「異邦人」とは、国境だけでなく、時も越えて来た人、久保田早紀自身に違いない。 ※参照   四長、西域を語る(1)「井上靖・敦煌」(リンク)   四長、西域を語る(2)「田村能里子・風河燦燦・三三自在」(リンク)   四長、西域を語

《写真短歌》四長、西域を語る(3)「NHK特集シルクロード・楼蘭を掘る」

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   私の西域好きを決定的にした番組がある。1980年代放映された「NHK特集・シルクロード」だ。NHKの敏腕プロデューサー鈴木肇の企画で、当時人気絶頂の石坂浩二のナレーション、音楽も注目のシンセサイザー奏者・喜多郎と言う豪華布陣だった。西域に造詣の深い作家の井上靖、司馬遼太郎、陳舜臣らも撮影に同行した。(長年の念願が成就したからだろう。三人とも少年の様に目を輝かせ、張り切っていたのが印象的だった。)   番組のラインナップは第1シリーズの5回までを並べても「1.遙かなり長安」「2.黄河を越えて」「3.敦煌」「4.幻の黒水城」「5.楼蘭を掘る」と、今もタイトルを見ただけで、私の胸は騒ぎ、踊る。中でも圧巻は第5回の「楼蘭を掘る」だ。何とその番組の撮影中に女性のミイラ「楼蘭の美女」を掘り当ててしまったのだ。  当時、中国は鄧小平の時代、改革開放路線華やかかりしときで、日本から学ぼうという姿勢が鮮明であった。今では想像もつかないが、番組を見ていても、NHKへのリスペクトが滲み出ていた。鈴木プロデューサーの企画は大体が中国側に受け入れられたのであろう。日中関係が最も上手くいっていた時代だ。懐かしい。   このとき発掘された女性のミイラ、その名も「楼蘭の美女」、変な言い方かもしれないが、今見ても「ミイラなのに本当に美しい」。少し前に、ある番組で、このミイラの骨格から、生前の姿を復元(何故か90%正確に復元出来るとの触れ込みだった。)するという企画をやっていた。さぞかし絶世の美女に復元したのだろう。興味は大いにあったが、私は見なかった。  だって、私はミイラの姿で十分に満足している。根拠は何も無いが、私の独断で「楼蘭の美女」は井上靖の小説のヒロインのミイラということになっているのだ。従って、もうとっくに頭の中で、私好みの絶世の美女に復元されている。その美しいイメージが少しでも崩れる可能性があるならば、それは勘弁して欲しい。 ※参照    四長、西域を語る(1)「井上靖・敦煌」(リンク)   四長、西域を語る(2)「田村能里子・風河燦燦・三三自在」(リンク)

《写真短歌》マイボタニカルライフ(8)(屋外編・四長、ヤマボウシに比叡山を想う。)

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   私が「ヤマボウシ」の漢字が「山法師」であることを知ったのは、恥ずかしながらつい最近のことだ。それまではずっと「山帽子」だと信じていた。「山帽子!」避暑地の夏山、麗人が被る少しツバの広い白い帽子!そう!昔、イギリスのダイアナ妃が来日したときに被っていたそれだ。   それが本当は、「山法師」だと知ったときは驚いた。誰かに話す機会が無かったことにホッとした。でも、説明を読んで納得だ。説明を要約すればこんな感じだ。「比叡山の僧兵に似ていることから来ている。中心に沢山の花の集まる頭状の花序を法師(僧兵)の坊主頭に、花びらに見える白い部分を白頭巾に見立てている、、、」成程!現金なもので、私の中で、ヤマボウシのイメージはダイアナ妃から弁慶に変わった。(変わり過ぎだ。)  その山法師の名木を、私の事務所の近く、運河沿いの遊歩道で見つけた。   運河が護岸工事で遊歩道が閉鎖されており気が付かなかった。灯台元暗しだ。先日通行止めが解除され発見した。遠目には巨大な白い塊だが、近づくと山法師であることが分かる。ここまでデカイのはなかなかお目にかからない。私は迷わず、この山法師を「マイボタニカル定期観測樹第2号」に指定した。(因みに第1号は、 前にブログに書いた(リンク)ナンジャモンジャ だ。)   樹の内側入ると、また景色が変わる。5月の風に花房をたわわに付けた枝が、ユッサユッサと揺れる様に、昔見た平家物語の映画を思い出す。白河上皇や平清盛を悩ました比 叡山延暦寺の法師(僧兵)が、大挙して比叡山を降り京の都に攻めてくるシーンだ。「山法師」とは 見事なネーミングだと実感した。 風に戦ぐ(そよぐ)、何故そよぐの漢字が「戦」なのかはイマイチ分からないが、この短歌の場合はピッタリきた。

《写真短歌》四長、西域を語る(2)「田村能里子・風河燦燦・三三自在」

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     昨日のブログ(リンク) にも記したが、田村能里子の描く「西域の女性」は魅力的だ。華人風でもあり、ギリシア・ローマ風、アラビア風でもある。遠くアフリカの雰囲気もあるが、その何れでもない。それは正に「西域の女(ひと)」そのものだ。しなやかで健康的で、魅力的な顔つき、体つきをしている。エキゾチックで私も魅入られる。   西域は、漢代には、その中央辺りのタリム盆地の中だけでも、西域36国と言われる国々があり、そこで様々な民族・言語・宗教が絡み合った。更にそこへ、シルクロードを通り、東から中国、西からはギリシア・ローマ、南からはインドの人々や文化が流入したのだから複雑だ。ある意味、カオスだ。当然、各民族の血も複雑に混じり合ったに違いない。  昨日記した井上靖の西域小説に登場する女性たちも、このカオスに巻き込まれている。「敦煌」のウイグルの王女、「蒼き狼」のテムジン(ジンギスカン)の母や妻。強い意思を持ち、気品ある麗人に描かれているが、皆、民族興亡の戦いに巻き込まれ、時に不本意な男女関係を強いられる、、、  私は田村能里子が、そんな井上靖の西域小説を意識して描いたかどうか知らない。でも、私は、彼女の描く現代の西域女性の屈託のない表情の中に、ふと、井上靖の小説のヒロインの影を感じる瞬間がある。それは時空を超える技量を持った画家からのプレゼントだと思い、楽しませていただいている。 京都・嵐山、天龍寺塔頭「宝厳院」襖絵 田村能里子作「風河燦燦・三三自在」(昼)   もし、貴方が田村能里子の絵を少し纏めて見たいのなら、「ホテル椿山荘東京」で、いつでも壁画やアクリル画等を見ることが出来る。でも、私のお勧めは京都・嵐山、天龍寺の塔頭「宝厳院」の襖絵だ。この春の特別拝観でも公開していたが、年に何回かは公開されていると思う。その時に合わせて、これを見るためだけに、京都へ行く価値があると思う。三つの部屋それぞれ、三面にシルクロードの「朝」「昼」「夜」が描き分けられている。圧巻だ。 ※参照 四長、西域を語る(1)「井上靖・敦煌」(リンク)

《写真漢詩》四長、西域を語る(1)「井上靖・敦煌」

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   私は、中学生のときから西域に魅了されている。西域とは、古来、中国人が中国の西方にある国々を呼んだ総称である。地理的には、概ね中央アジアを指し、時にはインド亜大陸、西アジアまで含むこともある。そこを絹の道(シルクロード)が走り、エジプト・メソポタミア・ギリシア・ローマとの間で、様々な文化・宗教・産物が行き来した。   魅了されるキッカケは、姉に勧められて井上靖の小説「敦煌」を読んだことだ。「敦煌」は井上靖が調べた西域の歴史的な「実」と、彼の想像した「虚」が綾なす壮大な物語だが、中学生の私には、主人公の「西域冒険・恋愛小説」だった。ワクワク・ドキドキが止まらず一晩で読了したのを覚えている。  物語はこんな感じで始まる。中国・宋の時代、科挙(現代日本の国家公務員上級試験をもっともっと狭き門にしたもの)を受けるため田舎から出てきた主人公が、試験を待っている間に居眠りして受けられなくなり落第。ショックで街を彷徨っているとき、偶然に西夏(西域の国)の女の危機を救う。そのとき女から手に入れた一枚の布に書かれた西夏文字!主人公はその未知の文字に好奇心を掻き立てられ、西夏を求めて長い旅に出る、、、  見事な導入部!それまで全く西域、西夏、西夏文字の存在を知らなかった私も一気に引き込まれた。そう。50数年前のあの晩、「敦煌」の始めの数ページを読んだあのとき。私の西域への想像の旅、憧れの旅、夢の旅も始まった。  漢詩は、あのとき以来の西域への想いを載せた七言律詩。横の写真は、西域・シルクロードの女性を描いてはNO.1と言われる画家・田村能里子の「風河燦々 三三自在」。私の中で彼女の描く西域の人々と井上靖の小説の一場面が重なりあう瞬間がある。嬉しい瞬間だ。