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《写真短歌》ピカソの時代(7)アメデオ・モディリアニ「少女の肖像」

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   2018年アメデオ・モディリアニの裸婦の絵画「(左向きに)横たわる裸婦」が、サザビーズの落札額として過去最大の1億5720万ドル(約172億円)で落札された。そのニュースを聞いた時の驚きは今でもしっかりと覚えている。ロマンチストを自称しているが、実はリアリストである私は、あまり上品とは言えない二つのエピソードに思いを巡らしていた。 こちらは「髪をほどいた横たわる裸婦」大阪中之島美術館蔵   モディリアニは、ピカソと同じ時代を、かの有名なモンマルトルの安アパート「洗濯船」で過ごした。しかし決定的にピカソと異なるのは彼が破滅的で不健康な生活を好んでいたということだ。彼は、毎日のように、モンマルトル周辺のカフェを徘徊、その日の酒代のため、カフェで隣席した客の似顔絵を描いて、無理やり売りつけていたという。  そうか、毎日のようにか、、、彼は35歳で夭折したとはいえ、それまで毎日である。1日で何枚も描いたこともあるとのことであり膨大な数だ。サインのある無しとか関係するだろうが、その似顔絵は一体一枚幾らの値が付くのだろうと、、、人ごとながら考えてしまった。モンマルトル周辺に住む人たちの中には、家の物置か何かに、曽祖父や祖父のそれらしき似顔絵が残っていないか、探し回った人もいたのではないか?確かに探し回る価値のある金額だ。  そして二つ目は、グレタ・ガルボのことを考えていた。彼女は現代でも歴代映画女優人気ランキングがあれば、イングリッド・バーグマンやオードリー・ヘプバーンとともに、必ず上位にランキングされる大人気女優である。彼女は絵画のコレクターとしても有名で、モディリアニについても「少女の肖像」を所有していた。 グレタ・ガルボのマンション、壁一面に名画が飾られている。   彼女の全盛期に購入し、彼女が35歳で映画界を引退し84歳で亡くなるまで、ベールに包まれた隠遁生活の日々、手元に置き続けた名品である。現代もグレタ・ガルボ・ファミリー・コレクション所蔵ということで、2018年当時、門外不出であった。もし、サザビーズでオークションにかけられたら幾らになるのか?想像つかない。ひょっとしたら「(左向きに)横たわる裸婦」も上回る金額で落札されるのかもしれない。だってモディリアニの傑作に伝説の大女優グレタ・ガルボ所蔵(グレタ・ガルボが毎日眺めていた)という凄いプレミア付きだから、、

《写真漢詩》四長、第100回を記念して「此星」を詠む。

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   今年の1月21日、このブログ「仙台堀日記」を開設し早いもので100日、100回目を迎えました。1日も休むこと無く、今日を迎えることが出来たのは、ひとえにこのブログを読んで頂いた皆様のお陰と深く感謝しています。「本当にありがとうございました。」 仙台堀壁面アート、名も知らぬ草とコラボしています。   100回目の今日は、私の漢詩創作の中で、一番スケール感があると私が勝手に思っている七言律詩をお届けします。廃墟っぽい仙台堀アートの写真に、地球の環境保護、持続可能を願って詠んだ詩を添えた上の作品です。この詩を詠むにあたってインスパイアされたのは、この写真からは想像つかないでしょうが、「瑠璃色の地球」。松田聖子の歌唱で、今や環境問題のイベントやTV番組の定番曲になったあの曲です。作詞は私の大好きな松本隆。私がこの曲の歌詞を凄いと思うのは、タイトルでもある「瑠璃色の地球」と「ひとつしかない私たちの星を守りたい」というフレーズ以外は、環境問題を想像させる歌詞が全く使われていないことです。それなのに、聴いていると最初から最後まで環境問題について語りかけてこられているような、危機感を訴えかけられているような気になるから不思議です。そしてその不思議の延長なのか、私もこの「瑠璃色の地球」を口ずさみながらその気になり、この七言律詩を詠んでしまいました。正に松本隆の手練の技、松本マジックだと思います。 こちらも仙台堀壁面アート、植物とのコラボに人の手が加わっているのか?は不明です。   一方で出来た私の漢詩といえば、そんな技やマジックは望むべくも無く、直截的に環境保護を訴える拙い作品です。唯、日々仙台堀の自然の中で暮らし、草花を慈しむ私にとって、温暖化への危機感はそれなりのものがあり、詩には私なりの切実な想いも込めたつもりです。そして大作詩家松本隆先生には恐れ多いですが、「瑠璃色の地球」へのオマージュを込めて、タイトルは「此星」とさせて頂きました。100回記念ということで松本隆先生もお許し頂けると信じています。

《写真漢詩・短歌》ピカソの時代(6)マリー・ローランサン

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    マリー・ロランサンは、20世紀前半に活動したフランスの画家だ。彼女は、パブロ・ピカソ、後に彼女の恋人となる詩人ギョーム・アポリネールらとともにモンマルトルの安アパート (洗濯船と呼ばれた)で、不遇時代を過ごした。しかし、彼女はその後1920年代、パリの「レザネフォル(狂騒の時代)」の寵児となる。パステル・カラーの少女像という独特の画風を確立して、、、        マリー・ローランサンが今、ブームだ。東京のBunkamuraや京都の京セラ美術館で大型の企画展が開催されている。「彼女とフランスモード界との関わり」、「シャネルとの確執」、「バイセクシャルの告白」等、今日的な話題も満載で盛り上がっている。そんなローランサンだが、日本では、前にも結構長い期間続いたブームがあった。1975年〜1985年くらいか?その時も大きな回顧展が日本各地で開かれ、東京のタクシー会社の社長が、自身が所有している500余点の作品で、蓼科に美術館を設立するなど大いに盛り上がった。フランスの美術評論家が「マリー・ローランサンが今日まで生き永らえたのは、日本のあのブームのお陰」と言っているくらいだ。     ローランサンの絵のファンといえば、その題材、色合い等からか圧倒的に女性だ。前のブームの時も、フランス好きで美術好き、知的でお洒落な女性が多かった記憶がある。そうなると男性陣も大変だ。何とかお目当ての女性の関心を引こうと、ローランサンについて勉強して、美術展のチケットを購入したり、画集を送ったりしていた。そんな時代だった。   そんな時代、恋をする若い男性には、結構困難なハードルが用意されていた。まだ携帯電話が存在していない。彼女をデートに誘うには、彼女の家の電話にかけなければならなかった。彼女が出ればラッキー!母親はまだ何とか乗り越えられる。最悪は彼女の父親が出た場合だ。これは乗り越えられない。当時の私のアンケートでは、友人の70%が父親が出れば「間違えました」と言って電話を切る、30%に至っては、何も言わずに直ぐ切るだった。そうなると手紙しかない。買い慣れない絵葉書なんて買う。「ローランサンの絵葉書で、ローランサン展へ行きませんか?」なんて素敵な誘い方だ。さすが俺って感じだ。でも、、彼は直ぐに気が付く、彼女の家のポストでその絵葉書を見つけるのは父親かもしれないと、、、そうして、書きか

《狂歌》どうする四長

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  どうする四長!  そう迷っています。この記事をアップすべきか?否か?こんな本当に個人的見解をアップしてどうするって思いと、うーん、でも折角狂歌まで降りて来ちゃたんだからアップするしかないよねって思いがせめぎ合って大変、、、結局、「個人的見解」を強調してアップすることにしました。  そう!あくまでも、私の個人的見解です。全国の大河ドラマファンの方🙏ごめんなさい。  私は自分のことを相当な大河ドラマファンだと思っています。基本的には、ほぼほぼ一年を通して見続けて来ました。昨年の「鎌倉殿の13人」に至っては、大熱狂で一回も欠かさず視聴したどころか、何回も再放送を見た回もあったぐらいでした。お陰様で大河ドラマ漢詩・狂歌も50作品くらい詠んでしまいました。  それが今回の「どうする家康」!、本当に「どうする家康」です。おそらくは「鎌倉殿ロス」だと思いますが、そして本当に個人的な見解ですが、私には微妙です、、、  主役の家康!結構熱演しています。信長!突然、家康の耳を齧ったりと怪演だけどこれも嫌いじゃない。でも他の歴史的人物たち、信玄・光秀・義昭、、みんな微妙です。秀吉に至っては辛すぎます。(全国の太閤ファン、みんなもう見なくなるんじゃないかな?)、そして家康の家来たち、、ちょっとドタバタが過ぎるのではないでしょうか?(海老踊りしている場合じゃないと思う。)  聞けば古沢良太、手練、気鋭の脚本家とのこと、これから面白くなるのは確実だと皆んな言います。おそらく流石にそうでしょう。そうでなければ困ります。でも、もし年末までこのままで行ちゃったらと思うと不安です。老人には、残り少ない貴重な時間です。辛抱も弱くなりました。本当に迷います。「どうする?四長」です 。 P.S.ここまで書いて分かりました。今年の大河、 タイトルは素晴らしい! 「どうする家康」!「鎌倉殿の13人」よりずっとキャチーで、使えると思います。

《写真漢詩・短歌》四長、「尼僧物語」のオードリーを詠む。

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    嘘みたいだけど本当の話だ、また話を盛ってるねと言われても事実だから仕方ない。私が仙台堀でこの花を見つけたときの話だ。私は花好きの家人からは、「花の名前を知らない、常識が無い人」と良く言われる。花の名を知らないと、何故常識が無いことになるのか疑問は残るが、確かに花の名前は私の苦手分野だ。この花の名前もその時は恥ずかしながら知らなかった。でも思った。 何かに 似ている。いや 誰かに 似ていると。次の瞬間思い出した。「尼僧物語のオードリー・ヘップバーン」に似ていると。その日は頭の回路が繋がったことに満足し、写真を撮って帰宅した。   後日、その花の名前はカラーだと家人から教えて貰った。ネットで検索すると、名の由来は①ギリシア語で美しいという意味の「カロス」が語源 ②修道女の襟(カラー)に見えることに因むとの説ありと。そうか!やっぱり!と思った。 あのオードリーが語源か!と。 でも疑問が浮かぶ、カラーの花は、そしてカラーの名前は昔からあるのに、「尼僧物語」は1958年の映画だ。変だと、、、直ぐに、馬鹿な疑問だと気付いた。オードリーよりずっと昔から尼僧は存在していたんだから、、、   映画「尼僧物語」は、なかなか難産の映画だったようだ。原作が発表されたときから、ローマ・カトリック教会は激しく反発した。(尼僧が還俗するストーリーだから、カトリックが反発するのは当然だ。)そしてストーリーが暗い。映画化の話を持ち込まれたワーナー・ブラザースのプロデューサー達は全く乗り気ではなかった。ところが原作を読んだオードリーが主役を演じたいと言っているとの話が伝わる。事態は動く。オードリー神話全盛期だ。映画化は一気に実現した。そして「尼僧物語」は当時のワーナー・ブラザースにとって、空前の興業収入をもたらすことになった。正にオードリーがなければ、存在し得ない映画だった。  オードリーには、映画を成功させるため、演技に迫真性を齎すため、1週間修道院で修行したというエピソードまで残る。そんなオードリーにオマージュした漢詩も出来た。    全くの蛇足だが、カラーは原産地南アフリカでは「varkoor(豚の耳)」と呼ばれているとのこと。確かに形状が似ている!上手い!さすが原産地!と思った。でもこれから毎年、カラーの花を見るたび、オードリーの白く清らかな尼僧の横に「豚の耳」が思い浮かぶのは絶対に避

《写真短歌》四長、赤倉観光ホテルに泊まる。

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   私は自分のことを無神論者だと思う。浄土宗系の高校を卒業し、結婚式も神道で行ったが、特に仏様や神様の存在を意識したことは無い。況してやキリスト教については、クリスマスや娘や知人の結婚式以外は全く無縁の人間だ。そんな私が、神の存在を少しだけ身近に感じた二日間を、二つの短歌でお伝えしたい。2022年4月8日、9日の話だ。場所は「赤倉観光ホテル」、新潟県、いや日本有数のスキーリゾートだ。まずはこの短歌だ。   ホテルは、妙高山の中腹、標高1000mにあり、展望フロアーからは、眼下に野尻湖、そして斑尾山、八海山といった志賀の連山が一望に臨める。そしてフロアーは結婚式場も兼ねているので、山側に突き出したデッキには水が貼られ、十字架が建てられている。初めて見るシチュエーション、景色だ。神秘的と言ってよい。不思議な気分になったのはその時だ。十字架が私に問いかけてくるのである。「お前、何か懺悔しなければならないことあるだろう?」と、冒頭述べたように私は無神論者である。街でキリスト教会の十字架を見ても何も感じない。それなのに、、、、理由は明白だ。十字架が神々しいとも言える山嶺を背景にしているからに違いない。山の神(箱根駅伝ではない)はいるかもしれない。   しかし、決定的な瞬間がやって来たのは翌朝だ。ホテルの部屋の窓のカーテンの隙間から光が差し込む。その光がまるで私を手招きするように揺れた。思わず窓に近づく私が見た光景は、まるでこの世のものとは思えなかった。山嶺の遥か向こうから朝日が昇る。朝日は瞬間、それまで見えていた星々を消し去り、山際から空を染めていく。その光がゲレンデの雪に反射して辺りは黄金に輝く。荘厳な自然のドラマが繰り広げられた。その時だ、来光が放った光の矢が私の胸に突き刺さった気がした。私は思った「今、此処に神がいる。」と、、   そして、その神聖なドラマの終わりを告げるように、来光の斜め上の天空を流星(箒星、ハレー彗星みたいな)が来光に向かって駆けて行った。   この流星については、後日画像を見た友人から「飛行機雲だろ、お前は寝ぼけていたのさ」との正に身も蓋も無い発言があった。折角、神秘的な気持ちに浸る私を邪魔しないで欲しい。

《写真漢詩》マイボタニカルライフ(7)(屋外編・四長、ナンジャモンジャを「マイボタニカル定期観察樹」に認定する。)

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    昨年の4月24日詠んだ漢詩である。タイトルの「花風月酒」は、私が鳥が大の苦手なので、「花鳥風月」の鳥を外して、大好きな酒を入れた苦心のタイトルである。写真にある白い花を愛で、心動かされ、今から昼酒を飲みそうな勢いが伝わる。下手は下手なりに幸せな老境を詠んだ作品である。上の写真では、木の全体像が伝わらないので、下の写真で全体像をお伝しよう。 2022年4月24日撮影   木の名前はヒトツバタゴ、通称「ナンジャモンジャ」の木である。まさに「何じゃこれは!」という大迫力である。全体を雪のような白で覆われている。一方、近づいて見れば一つ一つの花弁は細く実に繊細で愛らしい。感動的であると言う点においては、私の中では全植物中NO.1かもしれない。(「ナンジャモンジャ」としては国内有数、天然記念物級の名木だったと私は思っている。) その「ナンジャモンジャ」がである、、、   今年の4月14日、「ナンジャモンジャが、もう開花しているかもしれない(昨年の満開は4月24日だったけど、今年は全ての植物の開花が早い)。」いや「もう散ってしまっているかもしれない。」と家人を脅し、心踊らせ、仙台堀を北上した。しかし昨年は、かなり遠くから見えたはずのナンジャモンジャの白い塊が、なかなか見えてこない。何かあったのか?段々不安になる。その不安が現実になった。 2023年4月14日撮影   正に「何じゃこれは!」である。剪定されたのだろう。ボリューム感は昨年の10分の1以下である。ところどころ、鋭利に切断された幹、枝が痛々しい。ネットで調べれば、ナンジャモンジャは剪定の必要が無い品種とある。それが、ここまで剪定されたのは、よっぽどの理由があったのに違いない。理由が知りたくて区役所に電話しようと思ったが、何とか思いとどまった。  剪定のあとを見れば、明らかにプロの技である。残った花弁は元気に風に揺れている。ナンジャモンジャは絶滅危惧種2類であることを思えば、ナンジャモンジャをサバイブさせるためにはこの大胆極まりない剪定が必要だとのプロの判断だったのだろう。   そう理解すれば、後私が出来ることは一つしかない、ナンジャモンジャを暖かく見守ることだ。私はこのナンジャモンジャを「マイボタニカル定期観察樹第1号」に認定した。これからは週に1回、必ずこのナンジャモンジャを見に来ることを自らに課した。でも、

《写真漢詩》四長、漢詩でウクライナの平和を祈る。

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   ウクライナ開戦から、今日で1年2ヶ月経過したが、ロシアの侵攻は終わる気配は全くない。テレビの特集番組を見ていても、遣る瀬無い思いが募るばかりだ。私は、春夏秋冬の草花や、吟行と称する旅行を、短歌や漢詩で詠んできたが、時に時事問題についても漢詩で詠むことにしてきた。ウクライナ問題については、当初は周りの関心も高く、沢山詠んできたが、最近はとんとご無沙汰している。慣れてきたのか?関心が薄れてきたのか?そんなことは決して無いつもりだが、自分の中で少し反省している。本日は過去の作品から、3作アップして振り返り、「ウクライナに1日でも早い平和を」との思いを新たにしたい。   ロシア侵攻の直前に詠んだ五言絶句だ。外電が伝えるロシア軍のウクライナ国境に集結のニュースを聴いて詠んだ。でもその時も「さすがに、プーチンもそこまでやらないだろう。」と高を括っていた。外交による努力、解決を期待する思いが、仙台堀壁面アートを撮った写真や「地球」と言うタイトルに現れている。今となっては虚しい限りだが、、、、   侵攻後2ヶ月経過した時期に詠んだ五言律詩だ。ウクライナ軍の善戦とロシア軍のウクライナ軍を甘く見た計算違いで、戦線は膠着していた。トルコの仲介等、和平に向けての外交努力も重ねられたが、進展は見られず焦る思いがしていた。(私が焦ったって仕方ないが)この頃に見た映画「西部戦線異常無し」の影響もあり、長期戦を想像し虚しい思いで時を過ごしていた。最終句にある通り、いつもなら心癒されるはずの昼の月も、その日、癒し効果は殆ど無かった記憶がある。   最後は「プラハの春」を詠んだ七言絶句だ。2019年訪れたときの写真を昨年探し出し、それを見て詠んだ。プラハ訪問の際、どうしても訪れたかった場所が、ここヴァーツラフ通り(広場)だ。1968年の「プラハの春」や1989年の「ビロード革命」の舞台だ。なかでも「プラハの春」は、当時8、9歳であった私に、生まれて初めて、世の中には(それも国際政治において)随分理不尽なことがあると思わせた出来事だった。この通りをソ連軍の戦車が我が物顔で走り回り、勇敢なプラハ市民が、その戦車の前に立ち塞がっていたのを鮮明に覚えて いる。 それが今、写真のように人々は平和を謳歌し、街は賑わっている。そんな平和な詩を詠いたいところであるが、それはとても出来ない。どうしても、プラハから

《写真短歌》四長、花水木に昭和を想う。

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  「ハナミズキ」である。私にとって「ハナミズキ」と言えば一青窈である。何故かと言えば、答えは至ってシンプルだ。恥ずかしながら、私は詩歌を始める前まで花の名前を殆ど知らず、「ハナミズキ」も例外ではなかった。彼女の歌が先行し、後にこの花の名札を見て「これが、一青窈のハナミズキか」と認識したからだ。  そして最近、今更ながらであるが、その一青窈がなかなかの歌い手であると認識した。それには2つ私なりの理由がある。一つは、彼女はカバーが上手いからだ。カバー専門の番組もあり、カバーを売りにする歌手も数多くいるが、私にとってカバーを聴く意味は、その歌の歌詞の意味がオリジナルの歌い手以上に、伝わってくるか否かに掛かっている。カバーの上手い歌手はオリジナル曲へのリスペクトからか、歌詞の一言一言を丁寧に歌ってくれる。そうすると私達も歌詞の深い意味、言わんとすることが、オリジナル以上に理解出来る。そのときこそが、私がカバーを聴いて良かったと思う瞬間である。一青窈にはその瞬間が沢山ある。岩崎宏美の「シンデレラ・ハネムーン」とか井上陽水の「ジェラシー」等々、オリジナルの素晴らしい歌の細かい描写や詩の背景が、彼女の歌唱で、より鮮明に理解出来、驚くことがあった。  もう一つは、彼女の作詞力である。以前に編曲家の武部聡や森山良子が、彼女の作詞力を絶賛していたが、コロナ禍を経て私もそう思うようになった。特に「ハナミズキ」の歌詞は素晴らしい。深い。聞けば「ハナミズキ」は、最初は「戦争」や「テロ」の描写も入った、もっともっと長い歌詞であったそうだ。それを削って削って残ったのが、あの珠玉のフレーズの連なりである。そして最後の決めの「君と君の好きな人が百年続きますように」である。深いはずだ。   そんな、「ハナミズキ」はその素晴らしい歌詞故、本当に多くの歌手がカバーしている。でもカバーの名手一青窈を超えて、その素晴らしい世界観を、別の歌手がカバーで伝えるのは至難の業だと私は思っていた。ところが先日、一人これはカバーした意味があるなと思える歌い手に出会った。それもテレビCMを見ていて、いや聴いていて、、、「ヤクルト400w」のCM、大泉洋である。驚いた。歌い上げるというよりも、自然体で口ずさむような歌唱であったが、一青窈とはまた別な「ハナミズキ」の世界観が伝わった。これもアリだ。やはり彼は只者ではない。  

《写真短歌》作曲家シリーズ(6)ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番」

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   浅田真央はラフマニノフが好きだった。そうでなければ、彼女の選手人生の天王山とも言えるバンクーバーとソチの二つの冬季五輪のフリー演技のプログラム使用曲に、ラフマニノフの曲を選ぶはずがないと思う。   バンクーバー大会で選んだのは、「前奏曲『鐘』」である。あまりにも重厚な曲で、彼女と同い年の宿命のライバル、韓国のキム・ヨナ選手が、映画007シリーズのイメージを取り入れた軽快でキャッチーなオリジナルの曲で挑んだのとは対照的だった。シーズン当初は点数も伸びず、彼女も苦労しているのがテレビ画面を通して見てとれた。五輪が刻々と近づいてくると、日本中の彼女のファンから「ラフマニノフはやめて」「鐘はやめて」「前シーズンの曲に戻して」と大合唱が起こった。  でも彼女は頑固(あの穏やかな風貌からは想像つかないような意志の強さ)だった。そこから猛烈な練習で、このプログラムを仕上げ、大会をラフマニノフで戦った。結果はキム・ヨナに敗れ銀メダルで終わったが、キム・ヨナよりも高難度の技で戦った彼女は、正に最後まで諦めない「敗れざる者」であることを証明した。私には彼女はプログラムの曲を変更しないことで、ラフマニノフの名誉まで守ったように感じられた。  4年後のソチ大会、彼女がフリー演技の曲として選んだのは、またしてもラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」だった。この大会、バンクーバーの雪辱を期す彼女は、ショートプログラムでミスが続き、まさかの16位と出遅れる。彼女の惨めな姿を見たくない国内のファンからは、フリー演技を棄権すべきではとの声まで上がった。でも彼女はこの時も「敗れざる者」であった。    フリー演技では、ラフマニノフのピアノ協奏曲に導かれるように、高難度のジャンプを次々に成功させる。最高のパフォーマンスを見せ、彼女の競技人生のフリー演技最高点を叩き出した。順位も16位から6位に上った。後に彼女自身、このときの演技が一番記憶に残っていると発言している。私にはラフマニノフが、彼女にバンクーバーの恩返しをしたように感じられた。   では、何故彼女はラフマニノフに拘ったのだろうか?昨年、音楽番組でベテラン指揮者の藤岡幸夫と広上淳一の対談があり、二人がラフマニノフについて熱く語っていた。二人曰く「ラフマニノフの曲は、照れ臭いくらい切なくロマンチック。ラストは必ず噴水の如く高く高く吹き上がり、指

《写真短歌》四長、青春の藤棚が甦る。

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  フジが満開を迎えている。ここは仙台堀に繋がる小名木川畔の遊歩道である。江東区は此処に一定間隔で藤棚を作り、その下にベンチを置いてくれた。運河ルネサンス( 2月28日付け記事「運河ルネサンス」参照 )の一環なんだろうけれど、粋な計らいである。まだ木が幼く、名所になるのはまだ先だが、私は近い将来、「汐浜運河の木蓮」( 2月27日付け記事「ファースト木蓮」参照) と並び「小名木川の藤棚群」も江東区の花の名所になると秘かに(余り混んで欲しくないから秘かに)予測している。   そのフジだが、実は蔓が右巻きの品種(ノダフジ)と左巻きの品種(ヤマフジ)の2種類ある。そのことを発見したのは現在NHKの朝ドラ「らんまん」で活躍中の牧野富太郎博士だ。朝ドラは私も毎朝楽しく拝見している。主人公の万太郎(牧野博士の幼名)は、何かというとすぐに地べたに腹ばいになり、草を見つめて色々呟く。この前の回で、茎か葉かが、右巻きか左巻きか拘って呟いていたが、このフジの大発見に繋がる伏線かと思いが至り、ひとり笑ってしまった。   私も都内有数のフジの名所「亀戸天神」(梅の名所としても有名)のフジがどちら巻か気になり確認したことがあるが、ノダフジだった。因みに此処、小名木川のフジもノダフジだ。江東区はノダフジで統一しているのかもしれない。   そして私には、フジに関する忘れられない記憶がある。中学校入学間もない一年生のときだ。まだ校内全部を把握していない私は、友達と二人、放課後、学校の裏庭に探検に行った。そこには老木の藤棚があったのだが、その下で上級生の男女が寄り添って話をしていた。(確か生徒会長と副会長だったと思う。)それを見て、ウブな私たち二人は逃げるように慌ててそこから離れた。見ていてはいけないと思ったか?邪魔しちゃいけないと思ったか?まあビックリしたというのが一番しっくりくる。でも、上級生二人はテレビの青春ドラマの主人公みたいに輝いて見えた。少し羨ましく、私も頑張ろう(何を?)と思ったのも覚えている。もう半世紀以上前の話だ。あの頃の中学校や高校の裏庭には、そんなプラトニックな恋を味方する藤棚があった。(その藤棚は植物観察のためにあったという万太郎が言いそうな説も有力だが、ロマンチックではないので私は採用しない。) そんなことを思い出している私に、小名木川の5月の風は爽やかだ。フジも優しく揺れた

《写真短歌》作曲家シリーズ(5)ラヴェル「ボレロ」

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   フランスの作曲家モーリス・ラヴェルのバレエ曲「ボレロ」の話だ。これにもちょっと恥ずかしい告白がある。私が初めてこの曲を聴いたのは1982年。ホンダの車2代目プレリュードのテレビCMで聴いた。中学生時代、オーケストラ部に所属して、クラシックを聴くことだけは好きになっていた私だが、聴くのはベートーベン、バッハというドイツ系、チャイコフスキーなどのロシア系、イタリアオペラのベルディやプッチーニといったところに限られていた。フランスの作曲家は殆ど聴いたことが無かった。   CM映像はよく覚えている。ヨーロッパの街角から車が現れ、石畳の道をゆっくりと走り出すというものだ。そしてバックに流れるのがこのボレロ。最初、スネアドラム(小太鼓)がリズムを刻む中、フルートソロの弱音、それに他の楽器が被せるように加わってくる。徐々に聴いている者の気持ちを昂揚させずにはおかないあの旋律が聞こえてくる。素晴らしい!人気のプレリュードにピッタリのリズム・メロディーだ。そのとき私は強烈に思った。この続きを聴きたいと、この後、素晴らしい展開が待ってるに違いないと。私は迷わずボレロのカセットを購入した。  そしてカセットを聴いた。出だしは素晴らしい!テレビCMと同じだ。私は待っていた次のメロディ展開を。繰り返される2つのパターンが終わる度に、この次こそ、この次こそ、新しいメロディが聴こえてくるのだろうと。でもそれは裏切られる。カクッ、カクッとズッコケた感じは今も覚えている。(カセットが壊れたのかとも思った。)そして、ついに15分間(もっと長く感じたな)、ボレロは2つのパターンをくり返して終わった。  聴いた後は、正直ガッカリした。でも、すぐに理解した。想像出来た。これはクラシックに精通している人たちには常識中の常識なんだろうと。私の正直な感想は封印しようと決心した。あれから50年、時は流れた。そして今回告白することにした。その理由は、ある本で知ったのだ。ラヴェルがボレロを完成させたとき「世界の一流オーケストラは、2パターンの旋律の繰り返しに終始するこのボレロの演奏を絶対に拒否するだろう。」と思っていたと。「世界的人気曲になって一番驚いたのはボレロ自身」だったと。本人がそう思っていたぐらいなら、まあいいか!ってな訳だ。   私が聴く前からそうだったんだろうけど、相変わらずボレロは世界中で流れ続けて

《写真漢詩・短歌》四長、松江をニューヨークタイムズに推薦する。(後編・小泉八雲)

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    小泉八雲、ラフカディオ・ハーンである。私が「文化の街・松江」の礎を築いたと考える二人のうちの一人である。もう一人の松平不昧公は、 昨日の前編 で紹介した通り、江戸時代、茶道を通じて松江の文化をブランド化した。一方、八雲は、明治中期、松江尋常中学校の英語教師として松江に滞在、その後その著作を通じて日本の魅力、松江の魅力を世界中に発信することで「文化の街・松江」に貢献した。  僅か443日の滞在ではあったが、その日々は濃厚で八雲と松江の街の絆は堅い。例えば、この地で生涯の伴侶セツ(松江の有力士族の娘)と結婚しているし、セツの献身的な協力により、出雲地方や日本の民話・伝説を取り入れた紀行文、随筆、小説、日本研究書をものにしている。そして、極めつきは、日本国籍を取得する際に、妻の旧姓小泉と出雲の国の枕詞である「八雲立つ」の八雲で、「小泉八雲」と称したことだ。八雲は松江を深く愛した。  そんな八雲のことを、松江の人達も大好きである。八雲の旧居や記念館は皆、地元のボランティアの人達で運営されているが、皆んな八雲のことをヘルン(中学校教師への辞令の表記でハーンがヘルンとなっていた。本人も気に入っていた)さん、ヘルンさんと親戚の叔父さんの様に呼ぶ。それも良い感じだ。「ヘルンさんグッズ」も色々作られているが、松江らしくセンスが良い。 小泉八雲記念館で購入した「ヘルンさんピンバッジ」   勿論 、私も八雲、ヘルンさんのことが大好きだ。その業績・生き様を高く評価しているし、リスペクトしている。でも、彼の代表的な著作「怪談」は愛読書かと聞かれれば、それは微妙だ。少なくとも夜は怖くて読めない。小さい頃、夜「耳無し芳一」を姉から聞かされて、泣き出したこともある。松江の街に夜の帷が降りてくると、そんな記憶も甦る。そうか、此処で「耳無し芳一」が生まれたんだ、、何か気配がするな、、私の五感は自然に研ぎ澄まされていく。

《写真漢詩》四長、松江をニューヨークタイムズに推薦す。(前編・松平不昧公)

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松江城天守閣から宍道湖を望む。姫ヶ島も見える。   松江の話である。島根県の県庁所在地松江市。少し気が早いかも知れないが、私は来年か再来年、松江市が「ニューヨークタイムズの今年訪れるべき街」に選出されるのではないかという大胆な予測を立てている。今年、岩手県盛岡市が選出されたが、盛岡市と松江市、私は同じ雰囲気を感じる。2市とも、県庁所在地としては人口も少なく、一般的には、地味な(失礼)印象の街ではあるが、私は2つの街に共通な質実で洗練された高い文化を感じる。(「ニューヨークタイムズと盛岡」については2月20日から当ブログで6回連載)   唯、違いもある。全くの私見で恐縮だが、文化の形成された過程が違うのではないかと思う。盛岡市の文化は、旧制盛岡中学、盛岡第一高等学校のOBである、宮澤賢治、石川啄木、舟越保武、松本竣介、金田一京助、、、といった錚々たるメンバーたちにより、明治期から昭和期にかけて形成された。一方で松江市のそれは江戸後期から明治中期にかけての二人の傑出した文化人、「松平治郷(以下不昧公)」と「小泉八雲」によって創られたと思う。 松江城天守閣   小泉八雲については明日後編でお話しするので、前編の今日は不昧公についてお話ししたい。不昧公は地元の松江で今も人気絶大だ。その理由は二つある。一つは、彼が先代達の浪費によって藩の財政がボロボロになったときに藩主となり、様々な産業振興策によって藩の財政を見事に立て直したこと。消極的な倹約策に頼ることなく、積極的に改革派の人材を登用、任せるべきは任せて、現代まで繋がる地元産業を育成したことだ。  もう一つの理由は、茶人としての不昧公の功績である。彼は江戸時代を代表する茶人の一人だ。それも単なる茶人ではなく、彼は茶事に関するあらゆる物(茶道具、茶室などの建築、銘菓等々)に精通し、松江の茶道を体系化、そして産業化し、それらについての著書も多く残した。   但し、晩年の不昧公には茶道に打ち込むあまり、全国的な茶道の銘器を蒐集、折角立て直した財政を自ら大散財してまた悪化させたとの批判が付き纏う。でも、不昧公贔屓の私は、そうした批判を良しとしない。彼には戦略があったのだ。  「江戸から遠く離れた小さな松江の街が生き残っていくためには、産業振興だけでは限界がある。何か他の地方には無く、他の地域からリスペクトされる「ブランド」が必要だ