≪写真漢詩≫四長の『現代漢詩論』
私の現代漢詩論
四長
1.私と漢詩の出逢いと再会
私が漢詩と出逢ったのは、今から50年以上前の高校生の時です。当時私の通っていた名古屋市の東海高校は、その頃でも珍しく古文から独立した漢文の時間が週に1回ありました。その漢文の授業の中心となり題材となったのは、今でも良く憶えている中国唐代の近体詩の2大巨人李白(詩仙)、杜甫(詩聖)の漢詩でした。
勿論、日本語での授業であり、「絶句と律詩」「押韻」「対句」等々の近体詩のルールはしっかり教わりましたが、読むのは日本語の書き下し文であり、中国語の発音である「平仄」は一切教わることはありませんでした。
そして、時は流れて約50年。漢詩とは全く無縁の生活を送っていましたが、一昨年(2021)コロナ禍の11月、年賀状を作っているとき、なかなか逢えない友人たちに、李白風のお酒の詩を贈ろうと、何故か急に思い立ちました。このとき本当に不思議ですが、高校時代の記憶が蘇り、割と簡単に何編か出来てしまいました。(偉そうですが、正に天から降りてくるように。)
それからは、本を読んでも、テレビを見ても漢詩が気になるようになり、夏目漱石や森鴎外の漢詩の本を読んで勉強(確認?)して、正に習うより慣れろで、自己流の漢詩を創作するようになりました。基本1日1編のノルマ)のペースで、正確では無いですがもう400編は超えていると思います。
2.私にとっての漢詩の魅力
現在、私にとっての漢詩の魅力は2つあります。「読む魅力(自作も含む)」と「創作する(詠む)魅力」です。
(1)読む魅力
先ず読む魅力ですが、これも大きく分けると2つあります。「書き下し文の美しさ」と「漢詩に載せられている情報量の多さ」です。
①書き下し文の美しさ
前述しましたが、私のような中国語を知らない多くの日本人にとって、漢詩を読むこと、口述することは、日本語の書き下し文を読むことです。高校時代、李白や杜甫の詩の書き下し文を読むとき、私は不思議に気分が昂揚したこと憶えています。美しいな、カッコいいなと思いました。それは、今になって良く分かりますが、文語体の心地よさだと思います。
(文語体を心地良く感じる感覚は、今でも一定以上の年齢の日本人は自然に持っています、文語体で綴られた小学唱歌(朧月夜、夏は来ぬ、荒城の月等々)を聞けば懐かしく思います。また谷村新司の「昴」、ユーミンの「春よこい」、桑田佳祐の「花咲く旅路」なども文語体を歌い聞く心地良さを、彼らが意識して作詞しているからこそ大ヒットしたと思います。)
②漢詩に載せられる情報量の多さ
中国語を知らない日本人も、漢字を見れば音読み訓読みは出来るし、意味も分かります。そうすると象形文字をルーツとする漢字から、日本人は多くの情報を得ることが出来ます。私も高校時代も李白や杜甫の詩であれば、書き下し文を読む前に、白文(漢文)を見ただけで、大半の情報を得、意味を読み取ることが出来ました。そして、その時、少ない字数の漢詩が持つ情報量の多さに驚いたものです。
例えば、戦国武将の伊達政宗に有名な五言絶句「馬上少年過ぐ」(司馬遼太郎に同名の小説あり)があります。この1句目の「馬上少年過」の日本語解釈は「私は若い頃から、戦場で馬を駆り過ごし、あっと言う間に歳を取ってしまった。」です。私たちは、伊達政宗を戦国武将として知っていることもありますが、「馬上少年過」の五言だけで、武将伊達政宗の前半生を瞬間に想像できるではありませんか?
(2)創作する(詠む)魅力
次に、私にとっての漢詩を創作する魅力ですが、これはズバリ「パズル」、「クロスワードパズル」の様な「パズル」の魅力、当てはまる漢字を考える楽しさです。私は漢詩を創作するときは、平仄以外の近体詩のルール、「絶句・律詩と言う形式」「起承転結」「押韻」「対句」「重ね字以外の同時重出の禁(日本だけのルール)」等は割としっかり守るようにしています。それは正にルールの中でパズルを解く楽しさを味わうことが出来るからです。そして最近になってそのルールを守ることによって、漢詩が白文にしても、書き下し文にしても、見た目やリズムが格段に良くなることが、感覚的に分かるようになりました。
(日本語の口語体でも押韻するとリズムが良くなります。井上陽水、若手でも米津玄師とかあいみょんとか押韻が上手なミュージシャンが沢山います。)
3.平仄論争について
平仄とは、中国語における漢字音を声調により平音と仄音に類別したもの、発音上のルールです。私は前述したように、中国語は習ってこなかったので、この平仄ルールは意識せず、創作を続けています。
漢詩の世界では、昔から現代に至るまで、この平仄の問題が論争になってきました。平仄は必ず守るべきだと言う人は、「漢詩は、中国語で平仄を付けて読み上げるものだ。」と言い。平仄無視派は「日本人が漢詩を読む時は、殆ど書き下し文で読むので、平仄は必要無い。今では中国の人でも、正確な平仄は分からないので意味がない。」と言います。
昔の人でも、有名な漢詩の詠み手では「良寛」や「頼山陽」「西郷隆盛」など幕末志士達は平仄無視の詩を詠み、一方で漢文への造詣の深さを自負する「夏目漱石」は、こうした作り手を批判してきたようです。
私も平仄を理解し漢詩を創られている方達のことは凄いなとリスペクトしています。しかしながら、もし平仄が漢詩の絶対ルールになったら、私を含め殆どの日本人は対応不可能となり、隠れ漢詩ファンもいなくなってしまうので、平仄は少なくとも「現代の日本の漢詩」には必要ないのではと思います。
4.日本の漢詩への危機感
漢詩への危機感、それは言うまでもなく日本の漢詩人口の減少です。この前、漢詩に詳しい人から、非常に厳しい話を聞きました。漢詩を嗜む人の95%以上が60歳以上で、60歳以上の中でも逆ピラミット型なんだと。そうか、想像はしていたけど、ホント、日本の漢詩界は「限界集落」なんだ。そして私は、絶滅危惧種なんだと実感しました。
でも、一方で本当に漢詩が絶滅して良いのか、、、色々心配になりました。
①先ほどの夏目漱石に代表されるように、古からの日本の文化人・教養人のバック・グランドに漢詩があったことは間違いありません。その文化的バック・グラウンドが消えて行って良いのか?
②前述した通り、漢詩を書き下し文にしたのが「文語体」だと私は思うので、漢詩とともに、文語体も無くなってしまうのではないか?それで良いのか?
等々です。①、②が現実になっても若い人たちには全く影響が無いと言う人も多いと思いますが、私は、漢詩の衰退が日本人の文化・教養・伝統等々にとって非常に重要なジャンルの消失に繋がるのではと危機感を覚えます。日本の漢詩界として、一般の人が何か(例えばもっと自由で伸び伸びとした「現代自由漢詩」という形式とか)少しでも漢詩に親しみを持てる工夫をする、ギリギリ最後のタイミングを迎えていると思います。
5.最後に
色々勝手気儘なことを書いてきましたが、最後に田中角栄が日中国交回復の交渉に中国に向かい、北京空港に到着したときの心境を詠んだ漢詩、七言絶句をご紹介して終わりにします。
(田中角栄に限らず、伊藤博文、陸奥宗光、吉田茂といった明治以降の日本の政治家も、特に外交の修羅場に立ったときは、漢詩を詠んだそうです。)
田中角栄は、後にロッキード事件で逮捕されたこともあり、政治家としての評価は毀誉褒貶の激しい人です。でも私は最近改めて、この漢詩(角栄自身で詠んでいると信じています。)を見て、彼の政治的功罪は別にして、学歴は無いが教養はある人、政治家としての覚悟を持った、スケールの大きな人物だったんだなと思いました。
しかし、当時の漢詩界からは、平仄を無視している。押韻が間違っている。同字重出があるとボロクソに言われたそうです。(まあ、漢詩のプロがついていれば、こんなミスは起きないので、逆に角栄自身が詠んだ証拠だと思います。でも漢詩界には、そもそもこの瞬間に漢詩を詠むという田中角栄のセンスと教養を褒めてあげて欲しかったな。)
国交途絶幾星霜
修好再開秋欲到
鄰人眼温吾人迎
北京空晴秋気深
飛行機が北京に到着し、何としても日中国交回復の難交渉をやり遂げんと、タラップを降り、周恩来に迎えられ、毛沢東との交渉に、日本国総理大臣として臨もうとする田中角栄の昂揚・気概・覚悟が、僅か28文字の漢字から伝わってきませんか、、、
※冒頭の漢詩は、私の初期の作品(五言絶句)です。稚拙な出来ですが、老境に入り漢詩と出会った私の喜びだけでも、感じて頂くことが出来れば嬉しいです。