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《写真漢詩》四長、フィレンツェのダンテ像に過去の記憶が甦る。(海外シリーズ・シーズン4・エピソード2)

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  ダンテ・アリギェーリ、13世紀、イタリアの都市国家フィレンツェ出身の哲学者、政治家、そして、英国のシェークスピア、ドイツのゲーテとともに「世界3大詩人」「世界3大文豪」と呼ばれた。日本に於いても、森鴎外や上田敏を筆頭に明治期の文学者で彼の影響を受けていないものはいない。そんなダンテであるが、私には、彼に纏わる苦い、恥ずかしい記憶がある。(偉そうに漢詩など詠んでいる場合ではない。)  ダンテには、彼の著作に登場するベアトリーチェ(実在のモデルがいた。)という永遠の心の恋人、理想の恋人がいる。9歳のときに、彼女を初めて見たダンテは、彼女が嫁いでも、彼女が亡くなっても、彼女のことをずーっと想い続ける。理想の女性として、プラトニックに、、、  私の小さな頃は、日本でもまだベアトリーチェは理想の女性として有名で、チョコレートや喫茶店とかの名前、歌謡曲の歌詞、色々なところに登場した。私も何となく彼女のことを理想の女性として認識していた。そんなベアトリーチェをである、、、、 ダンテ所縁のサン・クローチェ聖堂  私は大学生になったある日、ゼミの先輩や同級生との会話の中、話題は先輩の話がきっかけで、何故かベアトリーチェになった。そのときだ。私は何とか話題に加わろうと言ってしまったのだ。「ベアトリーチェ、ゲーテの理想の恋人ですよね。」と。一瞬の沈黙、誰かが静かに訂正して話題を替えてくれた。  13世紀と18世紀、イタリアとドイツ、混同するはずもない。でも、私の中では混同していたのだ。ダンテとゲーテを。図らずも私の知識が受験世界史の知識で、本当の教養ではないと露呈した瞬間だった。  そのことは結構長い間私の中でトラウマになっていた。でも不思議なものだ。最近は自分の中でも笑い話として思い出す。一人で笑っている。心の傷も時の流れが癒してくれる。本当だ。 フィレンチェ市内、2016年訪れた。 (「神曲」のダンテ、「ファウスト」のゲーテ、二人とも悪魔で繋っている。そして何より短い名前の末尾が「テ」だ。同じ混同した人いない? やっぱりいないか。)

《写真漢詩》四長、上高地帝国ホテルの暖炉に納得する。(上高地吟行5)

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   6月26日からスタートした「上高地吟行シリーズ」も本日で第5回を迎え最終回となる。  2021年9月初旬の旅の思い出を綴ったものだが、最初は1回か2回で完結させようと思っていた。でも、気がついたら5回、それも毎日連載となってしまった。改めて、毎日読んで感想を下さった方、twitterで👍をして励ましていただいた方にも感謝したい。  最終回は、上の写真の「上高地帝国ホテル」の話だ。「上高地帝国ホテル」、初代は1933年開業、高橋貞太郎の設計だ。2代目が77年に新築された時も、開業当初の外観を忠実に再現している。クラシックホテル好きの私としては、一生に一度は泊まりたいと思っていたホテルだ。   でも、このホテル、私にはかなりハードルが高かった。お値段も勿論だが、常連客と旅行会社で、山開き前の予約開始日に、殆どの部屋が押さえられてしまうからだ。  私は旅先の天気を結構気にする。前に このブログ(※リンク) にも書いたが雨に極端に弱いからだ。それが上高地となれば、気になるなんてレベルではない。「雨の上高地が好き」って人は、私の知る限りいない。雲や霧で穂高連峰が全く見えなくても構わないとも思わない。上高地へは直前の天気予報で、晴天の可能性を確かなものにしてから行きたいと、常々思っていた。でも、そのタイミングでは「上高地帝国ホテル」の予約は当然不可能だ。   私は悩んだ。その私の背中を押したのは新型コロナだ。2021年春、コロナは一旦小康状態となったが、この先どうなるか分からない。行けるときに行きたい所へは行くべきだ。私は決心し「上高地帝国ホテル」を予約した。でも予約した後も、穂高は見えるのだろうか?梓川の流れは美しいか?天気はずーっと気になってはいた、、、   でも行って良かった。良かったことが二つあった。一つは勿論、天候に恵まれたこと、この「上高地吟行シリーズ」の掲載写真でご覧の通り、明神池方面へ足を伸ばしたその日は素晴らしい晴天!(大正池を散策した2日目も曇り)と言う大満足の天気に恵まれた。もう一つは、「雨の上高地帝国ホテルライフの魅力」を見つけたことだ。その魅力はホテルのラウンジの中央にドーンと構えている。この巨大な暖炉だ。   上高地は夏でも雨が降れば、気温はグッと下がる。そんなときは暖炉に火が入れられる。火が燃えるのを見ながら、薪が弾ける音を聞きながら、ウイ

《写真短歌》四長、涸沢カールに井上靖「氷壁」を想う。(上高地吟行4)

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   上高地で一番有名な写真といえば、穂高連峰と「涸沢カール」をバックに、梓川に掛かる河童橋を撮った写真だろう。なのにこの写真には河童橋が写っていない。何故か?答えは簡単だ。河童橋の上から撮っているからである。今日のテーマである「涸沢カール」をより大きくお見せしたいからだ。9月初めの「涸沢カール」、緑の絨毯に覆われているが、まだ所々に雪渓も残っている。 「涸沢カール」、日本有数の氷河圏谷である。直径は約2kmで標高差は900mあり、穂高連峰の最高峰奥穂高岳と前穂高岳を結ぶ吊尾根といわれる稜線が、屏風のようにカールを守っている。 河童橋が入る一番有名スポットから涸沢カールを撮影、奥穂高岳からの吊尾根(稜線)もクッキリと見える。   私は、インドア派であり、「涸沢カール」は此処から眺めるのが精一杯だ。行ったことは一度も無い。それなのに親しく感じる。それには理由がある。その理由とは、「涸沢カール」が私の大好きな作家・ 井上靖(前出※リンク) の小説「氷壁」の舞台だからだ  「氷壁」は井上靖のベストセラー作家としての地位を揺るぎないものにした1956年の朝日新聞の連載小説だ。その年の秋、たまたま涸沢カールへ月見登山に訪れた井上靖は、前年に前穂高岳東壁(当時は厳冬期は未登頂)で起きた「ナイロンザイル切断遭難事故」の話を同伴者から聞く。そして強く惹きつけられる。その事故をモデルにして長編小説を僅か2ヶ月で書き上げる。冬には朝日新聞に連載、翌年のベストセラー小説をものにするという逸話が残る。  小説家・井上靖の流行作家としての一面、嗅覚や勝負勘を感じさせる話だ。井上靖の創作小説だけでなく、自伝的小説やエッセイを通して、彼の生き方・生き様も敬愛する私には興味深く感慨深い。  後日談もある。彼はそれ以来、大の「涸沢ファン」になったようだ。それから亡くなるまでに20回近く此処に通ったという。彼のそんなところにも私は親近感が湧く。  河童橋から見える「涸沢カール」は、私にそんな話を思い出させてくれた。短歌も一首詠みました。   河童橋から見える、涸沢カールの雪渓が無くなるのは、もうちょっと後、山が色づき出す頃だ。夏の間は雪を残し、紅葉が始まる頃は雪を消す。本当にサービス精神に溢れた山である。

《写真漢詩》四長、明神池で神の化身に遭う。(上高地吟行3)

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    上高地の明神池である。池は穂高神社奥宮の神域にある。神社の御祭神は「穂高見命(ほたかみのみのみこと)」で、北アルプスの総鎮守、穂高連峰の最高点・奥穂高岳の頂上には嶺宮が造営されている。つまり山岳信仰の神で、山自体が神様と言う訳だ。  成程、確かに梓川沿いの散策路を河童橋から歩き、明神池の方へ左折したあたりから、もう神聖な感じが漂う。神様のエリアに入ったことを感じる。でも、「山自体が神様か、、、何かイメージが掴みにくいな、、、」と私は罰当たりなことを考える。「基本、山は動かない。退屈じゃないかな?神様も」と考えたとき、ある考えが浮かんだ。山の神様も自分の化身を創って、自分エリアをパトロールしたりして、それなりに楽しくやっているのではと、、、   私が考えた化身候補のイメージは2つある(いる)。一つは宮崎駿監督のアニメ「もののけ姫」のシシ神だ。シシ神の森を太古からずーっと守り続けている。神と名前がついているのだから、神様なのだろう。光る鹿のような美しいフォルムは、正に神の化身、この明神池にもよく似合う。  もう一つは、東山魁夷画伯の「白い馬シリーズ」の白馬だ。彼が1972年描いた18点の風景画全てに小さく遠慮がちに登場する。深い森の中にあるこの明神池に似た湖、その湖畔を白馬は自由に歩き、佇み、緩やかに走る。登場当時は東山魁夷ファンも唐突感を覚えただろう。しかし不思議に風景に溶け合い、今では東山魁夷の代表的なシリーズとなっている。 この鳥居は有名な縁結びスポット、みんな真剣だ。   でも、あの白馬はあくまでも馬で神様ではないなっと思ったとき、私は昔、伊勢神宮や熱田神宮にいた白馬を思い出した。神馬と書かれた札も思い出した。まさに白い馬は神の化身だったのだ。そして東山魁夷本人のインタビュー記事も思い出した。魁夷曰く「白い馬は何を表しているのかと、時々、人から聞かれますが、私は『白い馬は私の心の祈りです。』とだけ答えることにしている。」と。  私の「山の神には化身がいる論」、そんなに外れていない気がしてきた。   上の記事を書いたあと、宮崎駿「もののけ姫」と東山魁夷「白い馬シリーズ」にはモチーフとなった場所があったことを知った。「もののけ姫」は世界遺産の島「屋久島」の「白谷雲水峡」、「白い馬シリーズ」は長野県蓼科の「御射鹿池」とのこと。二人がその場所に何度もデッサンに通

《写真短歌》四長、上高地・梓川で「青」を噛み締める。(上高地吟行2)

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  上高地の梓川である。飛騨山脈(北アルプス)・槍ヶ岳に源を発する。此処上高地で大正池を形成し、その後は、奈良井川と合流し川中島の合戦で有名な犀川となる。そしてその犀川が、長野市辺りで千曲川と合流し信濃川となり、日本海へ注ぐ。流路延長日本一の信濃川水系の源流の一つである。  川の名の梓は、流域が梓の木の産地であったことに由来する。その梓は古来武具や神事で使われた梓弓の材料として珍重されたと言う。そう聞くと写真の川のカーブも弓の弧に見えて来るから不思議だ。   この梓川と私が最初に出会ったのは、私がまだ小学生の頃、今から60年も前のことだ。その頃は日本の都会の川は皆公害で汚染されて濁り、灰色をしていた。そんな私がこの今と変わらぬ清冽な梓川の流れと出会ったのだ。本当に驚いた。思わず私は「此処はスイスか?」と口走り、一緒にいた姉や年上の従兄弟たちに大笑いされた。稚拙な表現だが、子供らしい正直なインパクトある言葉だったと今でも思う。  あれから時は流れ、私も大人になった。最近は生意気にも短歌や漢詩も嗜んでいる。(正確には齧っている。)梓川の美しさをもっと素敵に表現したいと考えた。まず色に着目だ。この色「青い」が「青」ではない気がした。辞書と色彩の本を捲って調べてみると「蒼」と「碧」の中間か?いや、印象派の絵画のように「蒼」と「碧」の点が互い違いに入れ替わりを繰り返しているようにも見える。  光の3原色のうちの2つ、「青」と「緑」、その中間に「蒼」と「碧」がある。昔(いやつい最近までかもしれない)の人は、同じ「青」でも微妙な色の違いを別の漢字を使うことで、豊かな自然現象を表現していた。そんなことを改めて実感。短歌を詠んだ。   うーん、我ながら平凡で捻りもない。これではインパクトだけは十分にあった「此処はスイスか?」に負ける。完敗かもしれない。

《写真漢詩》頑張れ大正池!四長も負けないぞ!(上高地吟行1)

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    上高地の大正池は、国の特別名勝・特別天然記念物に指定されている。特別名勝は分かる。でも天然記念物っていうのは少し違和感がある。天然記念物と言えば、カモシカとかコウノトリとかの動物、摩周湖のマリモとか屋久杉とかの植物がイメージされる。山とか湖とかの自然がなるの?って思って調べてみたら、ありました。日本全国で4カ所。 「北海道の大雪山」「福島・群馬・新潟県の尾瀬」「富山県の黒部渓谷」そして「長野県の上高地・大正池」だ。 確かに、土砂の堆積により、前回訪問時より池は小さくなっている。   そして、よく考えてみると、 大正池はその4ヶ所の中でも一番動植物に近いかもしれない。大正池の一生を人間に例えればこんな感じだ。「1915年(大正4年)、母である焼岳が噴火、泥流で梓川が堰き止められて誕生した。青・壮年期は水を満々と湛え、人々をボートで遊ばせた。その後歳を取るに従い、池底に土砂が堆積し、年々底が浅くなっている。今は東京電力の冬場の浚渫工事という延命措置で生き長らえている、、、」  その延命措置の浚渫工事も、浚渫した土砂の建築資材としての価格が毎年下落しており、いつまで続けられるか?という状況のようだ。まるで治療費が払えないので延命措置が中止に追い込まれる人間みたいだ。ちょっと可哀想な気もする。もし、東京電力の浚渫工事が中止になれば、大正池の余命は7、8年というところみたいだ。 雲間から穂高連峰が顔を出してくれた。   余命7、8年か?、、少し変なことを考える。私と同じくらいの余命かもと。そう想うと俄然大正池への感情移入が始まるのが私だ。「頑張れ大正池!どんな手を使っても生き延びろ!天然記念物の意地を見せろ!(意味不明だが、応援しているつもり)」  私も頑張る。大正池と長生き勝負だ。

《写真短歌》{ 号外 } 天皇陛下仙台堀行幸!

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中川船番所資料館内の番所のジオラマ    突然だが、私は現天皇陛下のファンである。ファンという言い方が畏れ多いのであれば、リスペクトしている。一人の男として。天皇陛下は外務省のキャリア官僚であった現皇后陛下と婚約されるとき、「一生、貴方をお守りします。」と言われたと聞く。その言葉をお守りになり、皇后が病気になられたときも、周囲の雑音に耳を貸さず、一人で公務を黙々と行われた。そして婚約時のお約束通り、今日まで皇后をお守り抜かれた。その姿勢は立派だ。男として称賛に値すると思う。 「区報」によれば、その天皇陛下が江東区に行幸された。中川船番所資料館を御視察されたのだ。行幸は後付けで「区報」で広報されたが、完全なお忍び行幸である。   中川船番所と言えば「仙台堀の入り口」である。 江戸時代、仙台藩の米は、この中川の船番所で検められ、小名木川に入り、すぐに左折、仙台堀を通り、清澄の仙台藩の蔵屋敷に納められた。従って「 天皇陛下が、中川船番所を御視察されたということは、仙台堀を行幸されたと言っても過言ではない。 」(少し過言か?)   では何故、天皇陛下は中川船番所を御視察されることになったのか?公務のお忙しい中?それもお忍びで?  私は大変気になり、早速、中川船番所資料館の取材を敢行した。資料館の受付の女性にインタビューすると、平日で私以外の入場者がいなかったので、「区報」を手に取り、気楽に取材に応じてくれた。彼女曰く「そう、お忍びでした。天皇陛下ご自身が中川船番所に大変興味を持たれているということで、熱心に質問されていた。大変有り難いことです。」と。 中川船番所近くの公園にある旧小松川閘門、天皇陛下は資料館の後、此処も視察された。   そうか、天皇陛下はご自身の意思で希望で、中川船番所(仙台堀入り口)を視察されたのだ。そういえば、天皇陛下は水に大変興味を持たれていると聞いたことがある。それも飲料水としての水というよりも、水運、舟運に利用される水だ。英国のオックスフォード大学に留学された際も主たる研究テーマは「テムズ川の交通史」であったそうだ。   ロンドンと東京、テムズ川と仙台堀川、確かに結びつく。 現場主義であられる天皇陛下は、ご自身の目で江戸の水運の要であったこの場所、仙台堀や船番所を確認したかったに違いない。  天皇陛下、コロナ禍の前は、年に何度も海外で水運に係る講演

《写真漢詩》四長、フィレンツェのベッキオ橋で「異人たちとの夏」を想う。(海外シリーズ・シーズン4・エピソード1)

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    昨日の記事(※リンク) の愛知県清須市西枇杷島から、イタリア、トスカーナ州フィレンツェへと場所は一気に変わるが、話は続いている。上の1枚目の写真は、フィレンチェ観光で必ず訪れるフィレンツェ市内が一望出来る丘からのショット。写真の中央に大聖堂(ドゥオモ)がみえ、左中央に小さくベッキオ橋が見える。2枚目の写真はそのベッキオ橋を近くで撮影したものだ。(橋と言っても、どちらかというと建物の下を川が流れているって感じだ。)  昨日の話と何処が繋がるか?この橋「ポンテ・ベッキオ」で繋がっている!昨日取り上げた映画「異人たちとの夏」の全編に、この「ポンテ・ベッキオ」が歌詞に出てくる「私のお父さん(プッチーニ作曲)」が流れるのだ。特にラストの名取裕子演じる異人の女性の形相が激しく変貌していくシーンでは大音響で流れる。今思い出しても恐ろしく、不気味且つ凄絶なシーンを思い切り盛り上げるのだ。  唯、この曲自体はメロディもプッチーニ作曲のオペラの中でも一番美しいと言われている。歌詞も娘が、彼との交際に反対する父親に「もし、彼との恋が成就出来ないなら、私はポンテ・ベッキオから身投げする。」と切々と訴える可憐な乙女心を書いたものだ。不気味な要素は全くない、、、普通に聞けば、ソプラノ歌手の美しい歌声にピッタリ!うっとり聞き入るって感じだ、、、それなのに、、、  世紀の歌姫マリア・カラスの十八番でもあるこの名曲「私のお父さん」!、そして封切り当時、邦画史上最も凄絶と言われたあのラストシーン!、この誰もがミスマッチとしか思わない組み合わせを考えつき、ラストに持って来る大林宣彦監督のセンス‼️やはり尋常ではない。今、思い出してもこれこそが「大林マジック」の真骨頂だと思う。 ポンテ・ベッキオの上のプッチーニの胸像。とても橋の上という感じではない、どちらかといえば商店街だ。そして2階部分は、なんとウフッツィ美術館の回廊だ。     私は『異人たちとの夏』を見て以来、死ぬまでにポンテ・ベッキオを訪れたいと思っていたが、2016年それが叶った。でも、橋の上の商店街で思い出したのは、名取裕子の恐ろしい形相ではなく(名取さん🙏)、マリア・カラスの素晴らしいソプラノだった。 アルノ川畔の画廊で購入したリトグラフ。

《写真漢詩》祭囃子が聞こえると、、、(後編)

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   突然だが、「異人たちとの夏」の話だ。「岸辺のアルバム」や「ふぞろいの林檎たち」の山田太一の原作を、市川森一が脚本化し、大林宣彦がメガホンを取った1988年の松竹映画だ。   「大林流家族映画」と言われ、「不自然な設定」にも関わらず、観客は自然にその世界に引きこまれていく。私の大好きな映画だ。ストーリーはネタバレになるから詳しくは書かないが、私が強く惹かれる「不自然な設定」とはこんな感じだ。「主人公の人気シナリオライター(風間杜夫)が、ふとしたキッカケで、自分が12歳のときに交通事故で死んだ両親(片岡鶴太郎&秋吉久美子)と出逢い、ひと夏を過ごす。」「 両親は当時のまま若く、自分は現在の年齢、 従って大人同士で話も弾み楽しいときを過ごすが、主人公は両親との逢瀬を重ねるごとに痩せて衰弱していく、、、」  実は、私もそんな経験がある。と言っても私のは夢の中での経験だ。私はその夢を毎年この時期になると見る。夢の設定は常に故郷の祭り( 前編参照・リンク )の夜だ。実家の座敷を俯瞰しているシーンから始まる。「異人たちとの夏」と同じように 両親は若い 。父は座敷で祭りに招待した会社の同僚たちと酒宴で盛り上がっている。母は訪問客たちの料理を運ぶのに忙しそうだ。  唯、気が付けば、当時なら近くで遊んでいるはずの幼い私の姿が無い。一方で、父母を見ている 私はと言えば、どう見てもその時の父母よりもずっと歳を取っている 。不思議だなと思って、母に聞こうと声を掛けようとするが、、、声が出ない、、、必死で声を出そうとするが、どうしても声は出ない。そして母も気付こうとしない、、、いつも夢はそこで終わってしまう。  「異人たちとの夏」の「異人」とは、既に亡くなってもうこの世には存在しないはずの人だ。最近、私は気付いた。私の夢の中で、両親に声を掛けようとしても、私の声が出ないのには理由があると。  私の両親も「異人」ではあるが、「異人たちとの夏」の両親とは違い、絶対に嫌だったのだ。ひょっとして万が一にも私の声が出て、「異人」の両親と私が話すことになるのが、、、結果、私が衰えていくことが、、、両親が、私が「異人たちとの夏」の世界に入っていくことを阻止してくれているのだと。  祭りの夜に聞く祭囃子は、昼に聞くそれとは違い少し寂しげだ。私には時に妖しげに聞こえることもある。笛の音に釣られ、亡き父母の若

《写真漢詩》祭囃子が聞こえると、、、(前編)

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   6月の門前仲町は、8月に向け祭り(江戸三大祭りの一つ、深川八幡祭り)の準備に余念が無い。町内の彼方此方からお神輿や祭囃子の練習をする音が聞こえてくる。  この深川八幡祭り、3年に一度の本祭りが、前回はコロナ禍で休止となった。そのため今年は実に6年振りの本祭り開催となる。否が応でも門仲の街は盛り上がる。  でも、私の中でこの時期(麦秋の頃)の祭りと言えば、生まれ故郷、愛知県の美濃路の「尾張西枇杷島まつり」だ。東京江東区に在住30年超、深川八幡の本祭りをもう何回も経験していると言うのに、、、  やはり幼い頃見た風景(原風景)、幼い頃の経験(原体験)は強烈だ。今も夢に出て来る。   西枇杷島は、江戸時代は名古屋城下の台所として知られ、青果問屋が軒を並べ繁栄していた。毎年5、6月には、美濃路で5台の山車を曳く「尾張西枇杷島祭り」が盛大に(且つ結構優雅に)開催されていた。私の実家も嘗ては青果問屋を営んでおり、祭りの主催者側の一員だった。  私の小さい頃はまだその栄華の影が少しは残っており、祭りになれば、我が家もそれなりにご祝儀を弾んでいたと思う。そして、私にはその頃の思い出、今も時々夢に出てくる思い出がある。   こんな思い出だ。上の写真には山車の上部左側に少年が写っている。でも、私の小さい頃は上部に子供が乗るのは御法度!子供は山車が停車しているときに、下部に腰掛けることぐらいしか許されていなかった。私も子供心に上部に登って景色を眺めたくて仕方なかったが、それは大きくなるまでお預けだろうと諦めていた。  ところが、祭りが始まって間もない頃(恐らく午後の曳き回し本番に向けて練習していたとき)だ。山車が美濃路の我が家の前に差し掛かったとき、私と一緒に山車を見ていた祖母が急に、山車の引き手衆の親方らしき人を呼び止めて、何かご祝儀袋を渡した。すると親方が近づいて来て私を抱き上げ山車に乗せ、写真の少年のように上部に座らせてくれた。短い時間だったが、私は山車に揺られながら、山車の上部から祭り賑わう美濃路の街並みを眺めることが出来た。   始めは、休み明け学校に行ったとき、一人だけズルをしたと、同級生たちに咎められるのが心配で嫌な思いもあった。でも、直ぐに山車の上部からの非日常的な眺めに夢中になり、そんな心配は吹っ飛んだ。   祖母は、祖父の後妻で、父とも私とも血が繋がらない人だった

《写真漢詩》四長、「京都議定書」採択の現場で温暖化を憂う。

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   この ブログの100回記念(※リンク) に地球環境を憂うる漢詩を掲載したが、相変わらず私は地球環境を憂いている。テレビで、温暖化の影響により激甚化した自然災害の報道を見ない日は無い。私はその都度、落ち込む。その中でも、特に山火事の報道を見た日、私は酷く落ち込む。勿論、洪水や旱魃の報道も心痛むが、山火事はCO2を吸収する森林を大量に失うのが辛い。温暖化が更に加速する恐怖感さえ覚える。(コアラの火傷も可哀想で見ていられない。)  そして私は少し不満だ。そんな大変な状況なのに、マスコミ報道や学校教育でも環境問題の扱いが、行き当たりばったりの感じがすることに。  環境問題について、①これまで世界や日本でどう取り組んで来たのか?②現在の取り組みの進捗状況(目標のどの辺りなのか)は?③これからどう取り組んで行かなければならないのか?  この①②③を「全体を俯瞰して」、「時系列に」、「同じ指標で」、「統一感を持って」、「定期的に」報道し、教育して欲しいと切に願う。 COP3、「京都議定書」が採択された国立京都国際会館、日本人建築家大谷幸夫の代表作   「 素人は簡単に言う」とのご批判は尤もだ。しかし私は出来ると思う。「温暖化防止の取り組みの成果を上げることは至難の業だが、 進捗状況を分かりやすく説明し、共有することは出来る 」と思う。  では、どうすれば出来るのか?私は、毎年11〜12月に開催される『COP(Conference of Parties)、国連気候変動枠組条約における締結国会議』の議事・議決内容を、キチンと毎年上書きし、分かりやすい解説を報道し教育すれば、かなりの部分は改善できると思う。  『COP』!その締結国は既に200カ国を超え、毎年その場で、地球環境問題のこれまでの進捗が確認され、今後の取り組み方針が確認されている。様々な利害対立はあるにしろ、この問題が地球規模で論議される唯一無二の会議体だ。  確かに毎年、『COP』の時期になれば、TVや新聞で一応放送されてはいる。でも報道はなんかお座なりで細切れだ。一方で報道を見る視聴者の側も、 理解する知識の土壌が形成されていない ので、上で述べた①②③を正しく理解出来る人は、残念ながら殆どいない。関係者の工夫を期待したい。  その『COP』、今年は11月に『COP28』が中東ドバイで開催される。『COP1』は1

《写真短歌》四長、エロイーズで吉村順三を語る。

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    軽井沢の「エロイーズ・カフェ」である。まだコロナ禍にあった昨年の9月に訪れ、屋内も撮影させて貰った。今年もまた訪れようと予約を試みたが休業中だ。少し心配している。「エロイーズ・カフェ」の建物は名建築家吉村順三の設計。数ある彼の作品の中でも、私が一番好きな作品だ。   吉村順三は、同時代の前川國男や坂倉準三と比較されることも多い。(三人で共同設計したこともある→「国際文化会館」)前川と坂倉は東大出身で、ル・コルビジェの弟子、日本のモダニズム建築を牽引した。一方、吉村は東京芸大出身で、アントニン・レーモンドの弟子、モダニズム建築と日本の伝統建築の融合を目指した。そして前の二人がコン クリートの公的なビル建築を主に手掛けたのと違い、個人邸、特に木造の別荘・山荘が彼の真骨頂だった。   吉村はその著書の中で「設計の心構え」を語っている。曰く「建築ははじめに造形があるのではなく、人間の生活があり、心の豊かさを創り出すものでなければならない。」「建築は建築材料を正直に使って、構造に必要なものだけで構成しなければならない。」等々、、、、   「エロイーズ・カフェ」、吉村順三が米国人女性エロイーズ・カニンガムに依頼され、彼女のために設計した小さなコンサートホール付き別荘を、カフェに改装したものだ。建物のそこかしこに彼の「設計の心構え」を感じることが出来る。建物はだいぶ年老いて傷んではいるが、今も十分に機能的でお洒落で心地良い。そして不思議に懐かしさが溢れる。(初めての訪問なのに)   テラスでワインを傾ければ、昔、避暑地で過ごした色々な記憶も蘇る。建物が呼び覚ます過去は、どこか亡き母の昔語りに似て優しい。

《写真漢詩》今年も桜桃忌がやって来た。

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  「太宰治」の原風景、上の漢詩にある通りそれは彼の生まれ故郷「津軽」の風景である。  先日、NHKの特集で、司馬遼太郎のエッセイ「街道を行く」の「北のまほろば」を取り上げていた。生前の司馬氏は少し意外に感じられるかもしれないが、日本の昭和の作家の中で太宰治を一番評価していた。また熱心な愛読者であり、全集を何度も読破していたそうだ。そんな太宰ファンと言って良い司馬氏が津軽を訪れた特集「北のまほろば」は、ある意味太宰の原風景を辿る旅でもあった。私も「北のまほろば」は複数回読んではいたが、それは新しい気付きであり面白かった。  また、これも最近、新聞で司馬氏がある講演の中で、太宰について「彼は破滅型でも自堕落でもない。「聖書」の文体が好きで、小説の中で引用したように、聖なるものへの憧れが、彼を文学への道に突き動かした。」と断じているという記事を読んだ。これも面白い。太宰好きの私は大いに共感する。興味深かった。  そんな中、今年も「桜桃忌」がやって来た。6月19日は、太宰治の命日として知られている。でも、正確には玉川上水で入水自殺した太宰治の遺体が発見された日(図らずも彼の誕生日でもある)であり命日ではない。それ故、私は「桜桃忌」は太宰ファンもアンチ太宰も、それぞれ太宰治を考察しながら太宰治を偲ぶ日だと勝手に考えている。今年、私は先述の司馬氏からのサジェスチョンをベースに「太宰の原風景と聖なるもの」を自分なり考察する日にしたいと思っている。  長くなったが、私が漢詩で言いたかったのは、そんなことだ。