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仙台堀日記・臨時増刊号《写真漢詩・短歌》四長、磯谷渚監督作品「ポーラーナイト」を語る。

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  小さい頃から映画館で予告編を見るのが好きだった。ひょっとしたら、お目当ての本編の映画を見ている時間よりも、ワクワクしながら見ていたのかもしれない。僅か1分か2分に纏められた予告編は、流石にネタバレにならないようにエピローグだけは伏せられてはいたが、その直前までのストーリーは要約され、凄いスピードで盛り上がった。出演俳優たちも、恐らく彼らが一番魅力的に映ったシーンが繋げられ矢継ぎ早に登場!皆んな圧倒的に魅力的だった。  でも、予告編ではあんなにワクワクした作品も、それに釣られて封切り館に観に行くと、残念ながら、大抵は間延びした凡作に変身、がっかりさせられた。「これは、ある種詐欺だな」と、なけなしのお小遣いを、チケット購入に注ぎ込んだ若き日の私は大いに憤慨したものだ、、、  少し前書きが長くなったが、磯谷渚監督の作品は、不思議とこの予告編のワクワク感がエピローグまで持続する。処女作の短編「わたしの赤ちゃん」などは、上映時間の15分間があっと言う間に過ぎた。そしてそのたった15分間でかなりのドロドロ家族愛憎劇が、見事に方が着いてしまった。私は一瞬「これは予告編で、本編は別に存在しているのでは、、、」と疑ってしまったくらいだ。 2010年「わたしの赤ちゃん」磯谷渚監督・脚本  二作目の「天使の欲望」は上映時間40分間の中編、流石に今度は予告編とは思わなかったが、ワクワクのスピード感は相変わらずだった。長さは体感的には20分〜30分の印象だ。そう、ちょっと長めの朝ドラを見た感じだ。ストーリー展開の物足りなさはあったものの、間延びとは無縁の映画だった。素人の私は、主要なモチーフの「痴漢狩り」の案件をもう2、3件付け加えても面白いのではと感じてしまった。でもそうはならなかったのは、それでは監督の持ち味であるスピード感が損なわれるとの判断があったのだろう。 2013年「天使の欲望」磯谷渚監督・脚本  そして最新作「ポーラーナイト」が封切られた。監督としては初めて70分超えの長編だ。私はやはり作品のスピード感(ワクワク感を伴う)の持続性に着目していた。でも正直、監督としての初長編!スピード感に過度に期待するのも少し酷だなと勝手にハードルを下げていた。するとどうだろう。予測は良い意味で完全に裏切られた。スピード感は健在だ!いや前より増している!私の体感としては45分、大河ドラマを見

《写真漢詩・俳句》四長、読者の皆様に感謝する。

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    漢詩は我が『仙台堀日記』ゆかりの 仙台藩藩祖・伊達政宗公の漢詩「馬上少年過」(※リンク) をオマージュして詠んだ五言絶句だ。現在の私の心境である。今日は、先ずは、この漢詩からはじめて、読者の皆様に私の大変我儘な報告をさせて頂く。  報告は「『仙台堀日記』を暫く休刊する。」というものだ。『仙台堀日記』、今年の1月21日にリリースして以来、毎日更新して、本日で300回目を迎えた。拙い写真、拙い詩歌、そして拙い文章にも関わらず、長く(全然長くないが、本人はそう感じている)続けてこられたのは、偏に読者の皆さんのお陰である。  何故、休刊にするのか?余り深い理由はないが、敢えて言わせて貰えば、「『達成感』とまだ他に『やりたいこと』がある。」ということに尽きる。この感覚があるうちに休刊にして、先に進みたいということである。(要は「四長は、本当に我儘な奴だ。」ということである。)  達成感については、御礼を兼ねて報告する。『①発信』『②アーカイブ』『③集中力』の3点についての達成感だ。  『①発信』については、大変大袈裟且つ生意気な言い方で恐縮至極だが、 過去に撮った写真、作った詩歌、にもう一度息吹を与え、広く世界に発信出来た と思っている。特に詩歌については昨年1年間で創作した500作を、ほぼほぼ300回のブログで発信出来た。望外の喜びとしか言いようが無い。写真は約7年間撮り溜めたものから相当の枚数を発信できた。(『仙台堀日記』は途中から始めたTwitter(現X)の力も借りて、昨日までに全世界で16万回のプレビューがあった。もし『仙台堀日記』が無ければ、詩歌も写真も完全に死蔵されたに違いないのだから嬉しい限りだ。)  次に『②アーカイブ』について、辞書で引けば「アーカイブ」とは、「消したくないデータを専用の記憶領域に整理して保存すること」とある。これも大袈裟な物言いだが、『仙台堀日記』を始めたことで、 私のこれまでの人生の「アーカイブ」が出来た と思っている。ブログ『仙台堀日記』の左上のメニュー表示をタップ頂くと、ブログの記事の分類が出てくる。「漢詩」「短歌」「俳句」といった分類があり、その下に「連作」「海外」「アート」といった項目がある。更にそれらをタップして頂ければ、幾つかのシリーズが出てくる。旅シリーズであれば、旅先ごとに整理されている。  つまり、 私にとって

《写真俳句》四長、新宿御苑で『新宿鮫』との対決が甦る。

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  「新宿御苑」である。昨年の秋訪れた。私が俳句が苦手なことは、このブログでも何度か書いたが、此の句は気に入っている。写真の力が殆どかもしれないが、切れ味が良いと自惚れている。(基本的に自作への評価は甘い方だ。)  「新宿御苑」は「御苑」である。「御苑」とよく混同される「恩賜公園」は、「上野恩賜公園」「浜離宮恩賜公園」「井の頭恩賜公園」とか、江東区にも「猿江恩賜公園」と幾つもある。そして所有権は天皇陛下から既に自治体等に下賜されている。  一方「御苑」は、今も宮内庁即ち天皇陛下の所有である。此処「新宿御苑」の他には「皇居東御苑」「京都御所御苑」の三つしかない。他の二つが「御所」に付属した庭園であることを思えば、「新宿御苑」が特別に有難い場所であることがよく分かる。  その有り難さ故か、「新宿御苑」は滅多に小説等に登場しない(アニメでは新海誠監督の「言の葉の庭」が有名だが)。私の知る限りでは、ハードボイルド作家・大沢在昌の人気シリーズ「新宿鮫」のみである。  「新宿鮫」は新宿署の鮫島刑事を主人公とする警察小説。映画化(滝田洋次郎監督)もされ、主演の真田広之がその年の日本アカデミー賞を受賞した。NHKのドラマでは舘ひろしが主人公・鮫島を好演し、人気シリーズとなった。  その作者・大沢在昌氏、実は私と不思議なご縁がある。先方は全く知らず、私も最近知ったご縁である。私がどうやってそのご縁を知ったのか?それは三年前の私の実家の整理のときに遡る。私の高校時代の学園祭のパンフレットを発見!その中身を読んでいると、突然、その不思議なご縁が私の目の前に現れた。  パンフレットの中に、大沢在昌氏 の名前を見つけたのだ。直ぐにググれば、彼は私と同じ名古屋の東海高校出身、学年は私の一年下とある。大沢在昌はペンネームではなく本名とある。であれば、これはもう、あの大沢在昌氏に間違いない。  名前が載っていたのは、学園祭の「演劇大会」のページ!彼は大会に脚本家として参加していたのだ。そして実は、この私も脚本家として参加!何と私は天下の大沢在昌氏とあの「新宿鮫」(ジョーズみたいな)と脚本対決していたのだ。   私は三年D組で、演目「新説古事記伝・ハチのムサシは生きている」の脚本・演出だ!。彼は二年I 組で、演目「貴方は気がつきましたね」の脚本・演出にナレーションだ!。  今、パンフレットを読むと、

《写真短歌》四長の『酒・四季物語』(旨い酒を飲むために、、、)

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   サラリーマン時代、私は「酒が強い」と呼ばれた。その時代、まだまだ昭和の名残りが色濃く、「酒が強い」というのは、男の勲章だった。(健康診断のγ-GTPの高さを自慢し合っているような時代だった。)  当時は、会社で飲みに行けば、一次会では終わらない。二次会は当たり前、三次会もそんな珍しい話ではなかった。必然、終電はもう無く、皆んなタクシーに分乗して帰還したものだ。  三次会まで行けば、ドラマも生まれる。今考えれば、信じられないような事件も、、、酒に強いと言われた私は大概起きた事件は記憶していた。今も時々思い出す。幸い懐かしい思い出が殆どだ(勿論、時間が美化してくれた)。  唯、そのときの「酒の味」を思い出せない。二次会、三次会に至ってはどんな種類の酒を飲んでいたのかすら全く覚えていない。「酒に強い」という勲章の意味は、恐らくは「酔わないように、酒を殺して飲んでいた」ということかもしれない。少し勿体無かったかな、、、   でも、リタイア後の今は違う。飲んだ「酒の味」はしっかり覚えている。どんなワインを、どんな日本酒を飲んだのか、何杯目に何を飲んだか迄覚えている。過去半年分くらい、書き出せと言われれば、正確に書き出せると思う。  そして私は、遂に「究極の酒を旨く飲む極意」を習得した。酒の旨さを左右する変数は色々ある。「飲む酒の種類」、「飲む酒の値段」、「酒を飲む場所」、「酒を入れる容器」、「酒を飲む相手」etc、etc、、  例に挙げたどの変数が、一番「酒の味」に影響するか?と問われれば、どれも一票入れたくなる変数だ。しかし、正解は別にある。一番「酒の味」に影響する変数は「酒を飲むときの健康状態」だ。体調の悪いとき、無理矢理飲む酒ほどまずい酒は無い。二日酔いの日の迎え酒なんて、私は旨いなんて思わない。   それ故、私の極意は「酒を旨く飲むために、健康に留意する。」だ。充分な睡眠、適度な運動、その日の旨い酒には欠かせない。私はそのための努力を厭わない。精神状態の安定も絶対必要だ。飲む前に誰かと言い争うなんて愚の骨頂だ。私は旨い酒を飲むためなら、大概のことは我慢出来る。私は大人だ。  そして私は、飲酒については、長期的視野も持っている。γ-GTPも、血圧も、血糖値も、長いこと旨い酒を飲むためには重要な指標だ。私は、それら数値改善のため人間ドックの 直前だけは 、 禁酒する

《写真漢詩》『三都物語』の復活はアリだ。(神戸吟行シリーズ3)

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   神戸のオリエンタル・ホテルのカフェからの眺めだ。神戸の街は、海と山が迫り自然も身近だ。古くからの港街で異国情緒も漂い、その お洒落な風情は誰もが憧れた。一生のうち一度は神戸に住みたいと思ったのは、私だけではない筈だ。  そんな神戸について、最近、少し淋しい残念なニュースを聞いた。2023年10月1日時点の推計人口が150万人を下回ったというものだ。  オマケに久元喜造市長が「人口が今後増加に転じる可能性は殆ど無い。」と述べたという。大変正直な市長ではある。神戸市については「市営地下鉄海岸線」や「神戸空港」の利用者数が予想を大きく下回り、「神戸ハーバーランド」の核テナントの撤退、「新長田駅前再開発」の失敗など、暗いニュースが確かに多い。悲観的になるのも無理もないが、政令指定都市のトップとしては、些か淋しい発言だと私は思う。 居留地       実は大都市の人口減少は、何も神戸市だけの話では無い。同じ関西の京都市も1970年の142万人が、2023年は138万人に減少している。大阪市も70年の298万人が、23年には274万人に減少している。  唯、京都も大阪も、現在ではインバウンドの外国人観光客で溢れ、人口減少を感じさせない賑やかさがある。それに比べると同じ関西圏の大都市として、神戸の元気の無さは少し気になるところだ。 神戸・中華街     私は、こうなったら「アレ」を復活させるしか無いと思っている。(いつもの独善的意見だ。)私が考える「アレ」とは、1990年に開始されたJR西日本の観光キャンペーン「三都物語」!この復活である。  関西圏の京都・大阪・神戸の三都市をセットにして、今度は自治体主導のキャンペーンとして展開させるのである。「千年の古都・京都」「食い倒れの街・大阪」「異国情緒溢れる港街・神戸」、それぞれ異なる個性を持った三つの大都市!バラ売りでも十分行けるかもしれない。でも、セットとなれば最強だ。相乗効果は相当なものがあると思う(特に神戸はメリットが大きいのでは)。  この「三都物語」キャンペーン、90年代は国内向け企画だけだったが、かなり盛り上がったのを記憶している。5年続いたが、1995年に終わった。阪神・淡路大震災である。その後は震災復興キャンペーンが優先する。当然だ。  でも、あれから28年!もう復活させても良いのでは。今度はインバウンド向け「

《写真漢詩》京都吟行シリーズ(21)徳川慶喜のリベンジ(二条城&小御所)

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    京都吟行シリーズの最終回(一応)にあたり、京都の幕末・維新の現場を詠んだ二つの七言絶句を載せる。写真は「大政奉還」の二条城と「王政復古」の京都御所内の小御所である。この後、京都は東京に日本の首都の座を譲った。  慶應3年(1867年)10月の「大政奉還」と12月の「王政復古」、改めて確認すると、その間は、僅か2ヶ月しか無い。しかしその2ヶ月で歴史の舞台は大きく動いた。主役は、勿論、徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜だ。  慶喜は「大政奉還」と言う大方の予想を裏切る奇策で、倒幕派の機先を制し優位に立った。しかし、それも束の間、慶喜不在の小御所会議で、岩倉具視・西郷隆盛・大久保利通などの画策により、「王政復古の大号令」を出されてしまう。慶喜は政権から突然排除されてしまった。 二条城   この時代を描いた多くの書物では、その後も慶喜は諦めず巻き返し策を試みたとされる。でも、どうだろう。私は慶喜は、起死回生の大政奉還が功を奏せず、王政復古の大号令となった段階で、すっかり方針転換していたと思う。  もう徳川幕府への執着は捨て、幕府解体はやむを得ないと考えたに違いない。あとは自ら考えた三つの方針だけ守ろうとしたと思う。その三つとは「①徳川家の都・江戸を戦火から守る。②未来永劫、徳川家が朝敵になることは避ける。③徳川の家の血筋を絶やさない。」だ。そのためには多少の屈辱は受け入れることにした。  屈辱は仕方ない。でも名誉の討ち死にや自刃なんてとんでもない。長生きして維新政府、岩倉や西郷や大久保や木戸が、そして朝廷が本当に徳川無しでやって行けるか、お手並み拝見だ。  三方針のうち、先ず①が勝海舟の頑張りで早々に解決!江戸は燃えなかった。②も早くも明治5年、慶喜の官位は復活、永遠の朝敵になることは免れた。③に至っては、もう大成功!維新後、慶喜は子作り(側室(30名いた)たちとだが)に励み、何と10男11女をもうけた。  これは正式に認知された数で隠し子も入れれば、相当な数の子孫を残したと想像する。徳川の血筋は絶えるどころか、大繁栄(血脈は、皇族、華族、財閥、政界、宗教界等々に拡がる)した。(十一代将軍徳川家斉の子供53人の徳川ギネス記録に迫る。実は超えていたかも知れない。) 京都御所内・小御所  明治の世、慶喜は趣味(狩猟・ビリヤード・写真、最後はドライブ等々)と子作りに明け暮れ、予

《写真漢詩》京都吟行シリーズ(20)四長、京のラビリンスを彷徨う。

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    京都の街は、平安京の大路小路による区割りが今も残り、「碁盤の目」と呼ばれている。したがって、通りの名称さえ覚えれば、観光客でも道に迷うことは無いとされている。でも、通りの名前を覚えるのは大変だ。殆どの通りが固有の名称を持ち、その数はかなりのものだ。  京都通の友人は簡単に言う。「童歌で覚えれば簡単ですよ。歌は色々ありますが『丸竹夷』がお勧めです。」 その『丸竹夷』は、こんな感じだ。 上は「京都子ども情報館」の栞より、まだまだ続きがあるみたいだ。     冗談じゃない。落語の「寿限無寿限無」ほどではないが、難しい。脳が柔軟な子供ならともかく、前頭葉が萎縮しつつある70歳目前の老人には、記憶するのは不可能に近い。今は童歌は参考情報として、地図とGPSを頼りにして歩いている。    ところで、冒頭の漢詩だが、私が「京都の街は迷宮(ラビリンス)だ」としているのは、通りの話ではない。もっと狭く、地割の内部にアクセスする「路地(「ろーじ」と発音)」や「図子(ずし)」のことだ。  「路地」の殆どは「袋小路」で通り抜け出来ない、一方で「図子」は通り抜けが可能、名前が付けられ地図に載っているのもある。道幅は人の擦れ違いが出来ないものから、車が本当にギリギリ入れるものまで様々だ。恐らくは私有地が殆どであり、通行人も自然と無言で通り抜ける。(声が聞こえるとドキッとする。)  その「路地」や「図子」が何故「迷宮(ラビリンス)」なのか?私の答えは明快だ。 消える のである。「前は此処に「路地」があったのに、、、」その「路地」が見つからないなんてことはしょっちゅうだ。  逆に、「こんな「路地」前から此処にあったっけ」てなことも、私にはよくある。そして素敵な隠れ家のような店に限って、そんな「路地」にあったりするから厄介だ。      こんなこともあった。会社の仕事で2泊3日の出張、京都に泊まった夜の出来事だ。最初の夜、同僚と別れた後、ひとり迷い込んだ「路地」の突き当たりに素敵なバーを発見!入店するとカウンターの向こうに京美人のママがいた。赤いドレスがお似合いだ。私を見て妖艶に微笑む、、、勧められるままに赤い色のカクテルを2、3杯、気持ち良く飲む。そして千鳥足でホテルに帰還、、、  翌日、もう一度その店へ行こうと捜すが、どうしてもその店が見つからない。散々歩いて、漸く此処だと見当をつけて、