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「四長の紐育旅日記」(写真編⑤〜エンパイア・ステート・ビルディング)

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 マンハッタンの五番街、「摩天楼」の谷間に燦然と輝き聳える「エンパイア・ステート・ビルディング」!「エンパイア・ステート」とは「帝国の州」、ニューヨーク州の別称である。正にニューヨークの象徴、「摩天楼」の象徴だ。  小学生のとき、国語か社会科か、ノートにこのビルの写真が載っていた。簡単な説明も付いていて、まず「エンパイア・ステート」という名前がカッコイイ!と、必死でその名を暗記した。  そして102 階建てと知ってビックリ!、当時私の地元名古屋には10階建て未満の建物しか無く、2桁上かよ!と、ここは少し悔しい思いもした。そしてこのとき「摩天楼」って言葉を知った。  「摩天楼」!「天を摩(こ)する楼(建物)」、英語の「skyscraper」→「空をこするもの」「空を引っ掻くもの」の日本語訳として明治時代に定着した。  直訳と言えば直訳だが、「摩天楼」!何やら響きが妖しげで美しく、漢語や漢詩を日常的に嗜んだ明治の日本人の教養が滲み出ている。実に秀逸な訳語だと思う。  その「摩天楼」とは全然違う話で恐縮だが、私はNHKの「魔改造の夜」と言う番組(※)が、好きというか、大好きだ。  「魔改造」とは正に「悪魔的な改造」で、番組内でも何故か悪魔が降臨する。数えてみれば毎回最低6回は、渋い声のアナウンサーが「悪魔の降臨です!」と言う意味不明の決め台詞をキメる。その都度、私はゾクゾクする。それくらい好きなのだ。  そんな「 魔 改造」好きが講じたのか、あるとき私は「 摩 天楼」と書くつもりで、「 魔 天楼」と書いてしまった。しばらく気が付かなかったが、少しして流石に自分で気が付き、笑いながら訂正した。   そうだ!「摩天楼」にキングコングは昇るが、悪魔は降りない。 (※)NHKで、不定期に放送されている技術開発エンタメ番組。「トースター高跳び」とか「扇風機50m走」とか、日本の一流エンジニアたちが、日用家電や玩具の改造スペックを競う。クライマックスは実況アナの矢野武が「悪魔の降臨です」と決め台詞をキメるシーン。  普通「降臨」とは、神とか仏とか尊貴の対象が人間界に現れることを意味し、悪魔は「降臨」しないはずだ。しかし、最近は人気歌手も「降臨」するみたいなので、日本語に厳格なNHKも気にしていないようだ。

「四長の紐育旅日記」(11)フローンシス・ターバン〜ジョージ・ワシントン!貴方は私の恩人だ⁉️

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「フローンシス・ターバン(酒場)」、独立戦争の終結した1783年、イギリス軍撤退の後、凱旋してきた独立軍最高司令官・ワシントン(後のアメリカ合衆国初代大統領ジュージ・ワシントン)が、この酒場で兵士たちと別れの宴をはった。 酒場の壁に掛けられた別れの宴を描いた絵画  ニューヨークには、ワシントン所縁の場所が大変多い。日本にいるとワシントンと言えば、ついつい、ワシントンDCのホワイトハウスで執務しているイメージを抱く(※1)。  しかし、彼の名前を冠したワシントンDCが首都となったのは、ワシントンが死んで1年後だった。彼が初代大統領として活躍した時期は、此処・ニューヨークが合衆国の首都だったのだ。それ故、ニューヨークとワシントン!縁が深いのも当然だ。 フェデラル・ホール(アメリカ合衆国議会旧議事堂)のテラスに立つワシントンの像  ニューヨーク証券取引所の写真を撮っていたときも、振り返ると、工事中にもかかわらず、建物の2階にワシントンが現れ、私を「よく来たな」って感じで迎えてくれた。   ところで、ワシントンと私の最初の出会いは、私の幼稚園時代に遡る。私が生まれて初めて読んだ偉人の伝記がワシントンだったのだ。幼心に刻まれたのは、あの有名なくだり、「ワシントンの斧」である。  「庭の桜の木(※1)を斧で切り倒してしまったワシントンが、父親に正直に話したら、かえって褒められた」という話だ。  この「褒められた」ってのがポイントだった。単に叱られなかっただけでなく、「褒められた」ってのは凄い、マイナスがプラスになるんだと、、、 「ワシントンの斧」は、当時5歳の私の心をグッと掴んだ。  以来「三子の魂百まで」とはよく言ったもので、この歳に至るまで私の生活信条は「ワシントンの斧」だ。「失敗や不始末は、やらかしたら直ぐに白状する!」である。  簡単そうだが、これが結構難しい。人も組織もついつい、「直ぐに」ではなく「バレそうになったら」白状するか、「バレたら」白状するになる。「それでいいんじゃねえか?バレないかもしれないぜ」って悪魔が囁くのだ。(経験的には大体バレる)  私だって何度も悪魔の甘い囁きに釣られそうになった。そんなときは心の中で唱えるのだ、、、「ワシントンの斧!」「ワシントンの斧!」「ワシントンの斧!」と3回!、、、それで修羅場を乗り越えて来た。   社会人になってからは、...

「四長の紐育旅日記」(写真編④〜ニューヨーク近代美術館(MoMA))

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   ニューヨーク近代美術館(MoMA)のカフェからの一枚の写真。  このMoMAの新館を設計したのは、日本人の谷口吉生、豊田市美術館( リンク1 )、長野県信濃美術館・東山魁夷舘( リンク2 )等国内外の多くの美術館を設計し、「美術館建築の名手」と呼ばれた。  パリで安藤忠雄設計の「ブルス・ドゥ・コメルス」( リンク3 )に入ったときも感じたが、海外で日本人建築家設計の有名建物に入ると、どこか包み込まれるようにホッとする。それは恐らく私の意識過剰の所為だが、それだけとも言えない気もする。  やっぱり同じ日本人として勿論誇らしいし、その建物で働いている人たちも、入館者の私たちを館の設計者と同じ日本人と認識して、何処かフレンドリーに接してくれるのも確かだ。  でも、それだけじゃないな?やっぱり日本人建築家の設計には、細部に行き届いた日本人らしい気遣い、奥ゆかしさ、潔癖性、完全主義等々があり、それが日本人を居心地よくしているのでは、、、ってなことを考えた。  そこで少し古いが、ネットで谷口吉生のこのMoMAの国際建築コンペでの勝利コメントでもないか?と調べてみたが、なかなか出てこない。やっと探したのが「建物に芸術作品と人が入って初めて環境が完成する」の一言だ。(世界のMoMAのコンペに勝ってこの一言!)  生前、谷口吉生は自身の建築には多くを語らず、作品を見て貰う、作品に入って貰うことを優先する「作品主義」を貫いたとのこと、、、やっぱり昔気質、職人気質の日本人だ!寡黙で余分なことは喋らない語らない、高倉健のような奥ゆかしさだ。それが建物に反映し、日本人を心地よくさせるのかもしれない。  

「四長の紐育旅日記」(10)ソロモン・R・グッゲンハイム美術館〜ニューヨークからヴェネティア、ビルバオ、そして夢洲へ⁉️

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 「ソロモン・R・グッゲンハイム(※1)美術館」である。「逆カップケーキ」というあだ名でニューヨーク子に愛されるアートスポット!ニューヨークのアイコン的存在だ。  設計は旧帝国ホテルの設計で日本でもお馴染みのフランク・ロイド・ライト(以下ライト)!彼の遺作と言われたが、彼自身は1959年の美術館完成を見ること無く亡くなった。   2019年に他の彼が設計した作品群とともに、「フランク・ロイド・ライトの20世紀建築作品群」として世界遺産に登録されている。     エントランスロビーに入ると、大きな吹き抜けとトップライトが迎えてくれる。  そして、螺旋状スロープ(スパイラル・ランプ)が上方に伸び、その周りに展示室がある。最初はどうやって展示を観て行くのか?戸惑ったが、直ぐにエレベーターで最上階まで昇り、スパイラル・ランプを降りながら、観て行くのが効率的で、疲れないと気付き、実行した。   実際、実行してみて分かることがあった。外見やエントランスに入ったときの第1印象と違い展示スペースが結構広く確保されているのだ。  設計者のライトが「スパイラル・ランプ」を採用したのは、単にデザイン的に美しく独創的なだけで無く、限られた土地、空間の中で、展示スペースを最大限確保する工夫だったのだ。改めてライトに脱帽・感心した。   ところで、この「ソロモン・R・グッゲンハイム美術館」、収蔵作品としてはカンディンスキーやモディリアーニの名品が有名だが、同じニューヨークの五番街周辺に隣接するMETやMoMAやフリック・コレクションと比較すれば、残念ながら質量ともに劣後する。  それでいて此処がニューヨークのアートシーンのアイコンであり続けているのは、このキャッチーな世界遺産の器と、その器の展示スペースを生かした現代アートのイベントを発信し続ける企画力の賜物だろう。今や「グッゲンハイム」は現代アート界に於けるトップ・ブランドになった。   そして、「グッゲンハイム美術館」を運営している「グッゲンハイム財団」、ニューヨークの他の美術館の運営財団と大きく異なる点がる。「グッゲンハイム財団」!積極的に世界の他の地域へ、「グッゲンハイムブランド」の拡大戦略を展開しているのだ。  現在、「グッゲンハイム財団」は、このニューヨークの他に、イタリアのヴェネティアの「ペギー・グッゲンハイム(※2)・コレクショ...

「四長の紐育旅日記」(9)セント・パトリック大聖堂〜「ヒューズの愚行」が、ジョン・F・ケネディ大統領を生む奇跡とは⁉️

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  「セント・パトリック大聖堂」である。現在、マンハッタンの中心、ロックフェラーセンターの向かい側、五番街の一等地にある。しかし、この大聖堂が建築が始まった1850年代と言えば、この辺りは、人気の無い辺鄙な場所だった。  それ故、この地に大聖堂を建築することを決めたアイルランド人の大司教ジョン・ジョセフ・ヒューズの決断は、「ヒューズの愚行」と呼ばれた。  19世紀の半ば、ニューヨークでは、アイルランド系カトリック移民への差別が激しく、反カトリック運動も盛んだった。  ヒューズ大司教は考えた。それに抗うために何が必要かを。そして、ある構想に辿り着く。   それは、「私たちアイルランド系カトリック移民は、絶対にこの国に根を下ろす」という強い意思を示すランドマークを、此処マンハッタンに創ることだった、、、アイルランドの守護聖人の名を冠したこの壮大なゴシック風大聖堂の建築が始まった。   そんなアイルランド系カトリック移民であるが、20世紀に入ると、徐々に警察・労働組合・消防そして政治の世界で大きな力を持つことになる。   そして、大聖堂完成から約100年後、遂にアイルランド系カトリックの家系からアメリカ大統領が誕生する。ジョン・F・ケネディ(以下JFK)だ。  ケネディ家も、JFKの曽祖父が、当時まだ英国の植民地であったアイルランドから逃れてきた移民ファミリーだ。母国の宗教差別とジャガイモ飢饉を逃れ、ちょうどこの大聖堂建築が始まった頃、ニューヨークに移ってきた。  それ故、この大聖堂との関係は格別だ。JFKも幼い頃からこの大聖堂に通い、教会行事にも参加していた。 (彼の弟で選挙運動を仕切り、大統領になってからも右腕であり続けたロバート・ケネディ(※1)が、暗殺された時も、この大聖堂で追悼ミサが行われた。)  ケネディ大統領(※2)の誕生は、アイルランド系カトリック移民にとって、ニューヨークのコミュニティの中心となる決定的な大転換点だった。   そんなアイルランド系カトリック移民の苦しみ、悲しみ、怒り、喜び、そして成功の歴史を、大聖堂は、この場所で眺め励まし続けてきた。今は摩天楼の谷間となった「ヒューズの愚行」の地で、、、(※3)   毎年3月17日、ニューヨーク、マンハッタンは緑(※4)の人波に埋め尽くされる。  この「セント・パトリック大聖堂」を中心としたニュー...

「四長の紐育旅日記」(8)ダコタハウス〜オノ・ヨーコ!貴方こそが「ザ・ニューヨーカー」だ⁉️

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セントラルパークを走る輪タクたち、背景のパークを見下ろすように聳え立つのがダコタハウス  ダコタハウスである。1980年12月8日、このニューヨークきっての高級アパートメントに住むジョン・レノンが、エントランス近くの歩道で、凶弾に倒れた。  ほぼほぼビートルズ世代である私は、その現場を訪れたくて、セントラルパークのペダブ(輪タク)ツアーを日本で予約しておいた。  正確にはダコタハウスはセントラルパークの外になる。現地のドライバーにリクエストすると、「ガッテン承知!」って感じで、結構なスピードでダコタハウスへ向ってくれた。  日本に居ると「ダコタハウス」イコール「ジョン・レノンの棲家」って感じだ。しかし、此処ニューヨークでは、少し受け止めが違う。勿論、ジョン・レノンの偉大さは不変だが、そこにもう1つジョンの妻、オノ・ヨーコの存在が、大きくプラスされる。  「オノ・ヨーコが最近まで棲んでいた家」と言う要素が加わるのだ。ドライバーもダコタハウス周辺やセントラルパークを散歩するオノ・ヨーコをよく見かけたと、嬉しそうに話してくれた。   ジョン・レノンの銃撃現場    オノ・ヨーコは、ニューヨークでは結構人気がある(※1)。それは彼女が生粋のニューヨーカーだからだろう。彼女はニューヨークのパブリックスクール(公立小学校)に通い、大学もニューヨーク郊外にあるサラ・ローレンス大学に入学している。それ以降、本拠地はずっとニューヨークだ。  ここダコタハウスには1973年、ジョンと2人で入居した。でも、ジョンは直ぐにロサンゼルスへ行ってしまい、彼女は1人で此処に暮らし続けた。  その後エルトン・ジョンの取り持ちで、1975年にジョンと復縁、子供も生まれ幸せな5年間(※2)を、親子3人で過ごすことが出来た。しかし、僅か5年後、1980年、運命のあの日を迎えてしまう。   そして、それからだ。彼女は2023年まで、何と43年間!彼女はジョンのいないダコタハウスの生活(※3)を送ったのだ。 セントラルパーク内のストロベリーフィールド  43年間、彼女は毎年12月8日になると、ダコタハウスの隣りセントラルパークに、ジョンを追悼するために設けられた「ストロベリー・フィールド」に通った。そしてそこで、「イマジン(※4)」を多くのファンと一緒に合唱した。  このセントラルパークで続く行事が...

「四長の紐育旅日記」(7)フリック・コレクション〜コレクションを最高に楽しむ方法は、フリックさんになることだ⁉️

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  「フリック・コレクション」の中庭である。マンハッタン島の五番街に位置し、セントラルパークを見下ろすロケーションに建っている。  「レンブラント」「ベラスケス」「エル・グレコ」「フェルメール」等々超一級品の名画が、長さ30メートルの巨大な部屋に隙間なく掛けられた『ウェスト・ギャラリー』は、「世界中探しても、一つの部屋にこれほどの名画が詰め込まれた場所は無い」と多くの美術史家に評されている。  でも、その光景をこのブログで、皆さんお見せすることは叶わない。何故ならば、フリック・コレクションは、館内の写真撮影を、この中庭エリアを除いては厳に禁じているからだ(※1)。  日本では写真撮影禁止の美術館も未だ多いが、欧米では極めて珍しい。旅行中、撮影OKに慣切ってしまった私は、「フリックさんも意外とケチだな?大富豪がケチな訳無いか?しかし、金持ちほどケチとも言うしな?」とこれまた失礼なことを考えていた。   でも、彼『ウエスト・ギャラリー』の中央に設けられたソファー(今は誰でも座ることが許されている)に身を沈め、ギャラリーの壁に並ぶ世紀の名画群を眺めていると、何故写真撮影が禁止なのかが、理解出来るような気がした。 (「写真撮影による入場者の渋滞回避」とか「作品保護」等日本の美術館が禁止の理由以外の何かがある筈だ)  このソファーの背後、オーク材のパネルには、召使を呼ぶためのボタンが5つ並んでいる。此処がこの館の主人ヘンリー・クレイ・フリック(※2)の定位置だ。彼は毎晩ここに座り、葉巻を、ブランデーを、嗜みながら名画を楽しみ、至福の時間を過ごしていたに違いない。  恐らくフリック氏は、客にも自分と同じようなゆったりとした感覚で視線で、自らの世紀のコレクションを眺めて、至福の時間にして欲しかったのだろう。 「そうだ!至福の時間に、自分のコレクションを、忙しく自分で写真撮影することなんてこと、普通しない からな」と納得した。 (「イヤイヤ、フリックの時代にはスマホは無かったぜ」と天の声も聞こえたが、「イヤイヤ、凄腕経営者のフリック、100年後の世界なんてお見通しさ」とかなり強引に抑え込んだ。) アッパー・イースト・サイドの五番街、ニューヨークでも屈指の高級アパートメントが並ぶストリートにフリック・コレクションはある。 (※1)フリック・コレクションが禁じているのは、「写真...