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「四長の紐育旅日記」(3)ニューヨーク証券取引所〜「FearIess Girl(恐れを知らぬ少女)」にヨロシク⁉️

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    ニューヨーク市マンハッタンのウォール街にあるニューヨーク証券取引所である。私はほぼほぼ毎日、この建物の映像を見ている。  朝はこの建物を背景にして流れるTVテロップの「ダウ平均」、「ナスダック」、「S&P」、のニューヨーク市場の株式3 指数の前日の結果を確認する。夜も就寝前に3 指数の先物や、始まったばかりの現物指数を確認しているからだ。  今回の旅では、当初の予定に入っていなかったが、何処かで調整して、何とかこの建物の実物を見たいと思っていた。そして、この建物の前まで行くことが出来たら、もう一つ私には絶対に見ておきたいものがあった。 ウォール街の名前の由来=ニューヨークがニューアムステルダムと呼ばれた頃、オランダ人が築いた城壁に沿った道   下の写真は 「チャージング・ブル」 、ウォール街近くのボウリング・グリーンに設置された巨大な雄牛(ブル)のブロンズ像である。 (以前は証券取引所の前に設置されていたが、 ある事情 で此処に移動してきた)  頭を低く下げ、今にも突き上げる(チャージ)体勢を取っている。この体勢が、株価を突き上げる(上昇させる)との連想、願望に繋がるとされ大変な人気を博している。  また、ブルの体に触れれば、その人にも経済的なご利益もあるとされ、世界中から人が集まっている。この日も長蛇の列が出来ていたが、ご利益を得るためには相当な時間がかかるようだ。  私も経済的ご利益については目がない方だ。気になる。でも、この日の私のお目当ては他にあるので先を急ぐ、ブルの顔辺りをナデナデする人を横目に行き過ぎた。 (ご利益を得るためには直接的な接触が必須であり、写真を撮っただけではご利益は貰えないとのことだ、、、残念!後ろ髪は思い切り引かれている)   さて、証券取引所の前まで来ると、一人の少女像が立っている。この日のお目当て!私が絶対に見たいと思っていたブロンズ像 「Fearless Girl(恐れを知らぬ少女)」 !だ。  腰に手を当て、ピンと胸を張り、証券取引所を敢然と睨みつけている。身長127cm!体重110kg!一瞬、えっそんな重いのって思ったが、ブロンズの塊だから納得だ。  2017年国際女性デーに合わせて制作・設置されたと言う。企業経営陣の女性比率向上などメッセージを含んでいるそうだ。  そしてこの少女像設置のインパクトは凄...

「四長の紐育旅日記」(2)エリス島〜ヴィトー・コルレオーネが見た景色

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エリス島の船着場から見た移民入国管理所跡   ニューヨーク湾、自由の女神があるリバティ島とマンハッタン島の間に浮かぶ島、エリス島である。   前回のブログ( 「四長の紐育旅日記(1) )で、遥か大西洋の海原を越え、自由の女神に迎えられマンハッタン島に上陸した移民たちの話を書いた。  その上陸コースが1892年から少しだけ変わった。訪れる移民の数が急激に増加するのに対応するため、移民たちは自由の女神を見た後、上陸前に新しく設けられた此処・エリス島の移民入国管理所を経由することになったのだ。  私の大好きな映画、フランシス・F・コッポラ監督の「ゴッドファーザーPARTⅡ」(1974年)の中にも、その当時のエリス島を描いた名シーンがある。  ひとりシチリア島を逃れたヴィトー・コルネオーネ少年(推定年齢7、8歳)が、移民船でニューヨーク湾まで辿り着く。だが、エリス島の入国管理所で天然痘が発覚し、島の収容施設で3ヶ月収容されることになる。収容所の殺風景な個室の曇りガラスからは、自由の女神が、ぼんやりと見えるというシーンだ。 移民収容施設と自由の女神   入国審査や健康診断の間は、一言も発しなかった少年が、自分以外誰もいない部屋に入ると、椅子に腰掛け、小さな声(でも、美しいボーイ・ソプラノ)で口遊む、故郷シチリアの歌を、、、窓から見える自由の女神に向かって語り掛ける様に、、、 (今、このブログを書いている瞬間も、配信でそのシーンを視聴しているが、私はこのシーンになると、パブロフの犬のような条件反射で、胸が熱くなり、涙腺が緩む)  唯、このボーイソプラノの少年!この後成長し、同郷の仲間の絶対的信頼を得る青年になる。組織で頭角を表し、洞察力、交渉力、人心掌握力に優れたリーダー(※1)になる。但し、その組織は犯罪組織!マフィアだ!  ニューヨーク5大ファミリーの一つ!コルレオーネ・ファミリーのドンとなり、ゴッドファーザーと呼ばれるようになる。  そんな未来を、少年はそのとき少しでも想像したのだろうか?自由の女神にどんなアメリカンドリームを語っていたのだろうか?  何しろボーイソプラノ少年からマフィアのドン(そうロバート・デニーロとマーロン・ブランド)になってしまうのだ。  自由の女神(アメリカという国)が、少年に与えた自由と試練は、複雑で過酷で劇的であったことは容易に想像出来る。でも...

「四長の紐育旅日記」(1)自由の女神〜君はニューヨークを見たか⁉️

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  「君はニューヨークを見たか?」 、それは若いときから、私の頭の中で何度も繰り返された問いかけだ。  私たちにとって、映画でも小説でも音楽シーンでもニューヨークの街はとても身近な存在だ。そして、私たちが世界の経済動向や社会情勢等、情報として得ているものの多くは、この街を経由して日本に伝えられる。 なのに、私はニューヨークを知らない。   私には現役の金融マンであった頃から、20年間続いた朝のルーティンがある。テレビ東京の経済番組「モーニング・サテライト」を視ることだ。  この番組ではCMに変わるときにセントラルパークの映像が流されている、、、秋、紅葉で色づく公園!冬、一面真っ白な雪に覆われる公園!ほぼほぼリアルタイムで日常的に、私はニューヨークの街の四季を感じている。 なのに、私はニューヨークへ行ったことがない。  「君にとってそんな身近な、思い入れのある存在のニューヨーク!なのに、君は未だ行っていないのか?」「実際にその目で見なくて良いのか?」私の頭の中の問いかけ趣旨は、そんなところにあっただろう、、、  結構しつこい問いかけだった。でも「そのうち行くさ」と、ずーっと先送りしてきた。しかし、もう先送りは限界だ。これ以上先に延ばせば、一生行けないまま終わる、、遂に私は今回のニューヨーク行きを決断した。 リバティー島からマンハッタン島のダウンタウンを臨む。  今回ニューヨークへは、勿論飛行機で行った。深夜に「ジョン・F・ケネディ空港」に降り立ち、バスで市内に入る。ごく当たり前の行き方だ。  でも、何かもの足りなさが残る。実は私、船でニューヨーク入りしたかったのだ。  ニューヨークは北米大西洋側きっての良港を持つ海の街だ。そしてその良港に世界中から夢を求めて移民たちが殺到した。  そんな この国の歴史をかたち造った移民たちの様に、大西洋を越えて、ニューヨーク湾に入る。そして 自由の女神に温かく迎えられ、マンハッタン島に上陸する。 そんな入り方をしたかったのだ。何しろこの街で一番先に出逢うランドマークは自由の女神であって欲しかったのだ。(私は形から入りたい人だ)  でも流石に、それは無理だなと思っていたら、良い作戦を思いついた。名付けて「自由の女神に温かく迎えられてマンハッタン上陸大作戦!(少し長い)」だ。 バッテリーパークの遊覧船の桟橋から、遠く小さい自由の女神が見え...

四長、パリへ行く‼️(最終章)ブルス・ドゥ・コメルス〜変わらないでいるために、変わり続けるパリ‼️

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   いよいよ、このブログ「四長、パリへ行く‼️」シリーズも最終章だ。最終章は私が最も尊敬する日本の建築家・安藤忠雄( リンク )の作品で締めたい。 「ブルス・ドゥ・コメルス」、元パリ市の商品取引所であった建物を、安藤忠雄が大改修を設計し、2020年開館した現代美術館である。   安藤忠雄と、パリとの縁は深い。市内にあるソルボンヌ大学の名誉博士号を授与され、フランス芸術文化勲章(コマンドゥール)も受賞している。  そして、今、世界の建築・現代アート界を席巻している話題は、彼の盟友で世界有数の企業家、現代アートのコレクターとしても名高いフランソワ・ピノー(※1)との協働関係(※2)である。   この「ブルス・ドゥ・コメルス」もピノーとの協働作品で、ピノーがパリ市より旧商品取引所の建物を取得し、安藤忠雄が建物の全面改修を設計・指揮、ピノーの現代アートのコレクションの展示スペースを確保した。  建物の中に一歩入れば、ピノーが何故、安藤忠雄をパートナーとして選び続けているのか?理由が分かる。  まず第一に、安藤忠雄はアート 作品の邪魔をしない のだ。建物構造は極めてシンプルで邪魔な装飾は一切排除されている。  第二に、それでいてアート作品を引き立てるための 光と影の演出は効果抜群 だ。作品のスケール感は最大限に、色彩はエッジが効き鮮明となるのだ。  そして最後には 入場者に緊張感を感じさせるのだ 、、、「 歴史(的建造物)」と「現代(アート)」の緊張感 を、、、  これこそが安藤建築の真骨頂だと思う。国内に数ある彼の作品の中でも、私は上野「国際子ども図書館」が気に入っている。  彼はルネサンス様式で代表的な明治期洋風建築であるこの図書館を、外観をはじめ残すべきは残し、削ぎ落とす部分は大胆に削ぎ落とした。そして図書館としての機能ついては、最新技術の使用を可能にしたのだ。  私は 「変わらないでいるためには、変わらなければならない(※3)」 という言葉が好きだ。そして安藤忠雄ほど、その言葉を体現した建築家はいないと思う。  彼は世に残したい建築、残さななければならない歴史的建造物が数多あることを知っている。一方で建物として何の用途も無く、何の機能も果たす事なく、生き残ることが許される建物は、極く限られることも知っている。  建物がいつまでも変わらない姿で、世の中に生き残...

四長、パリへ行く‼️(13)ギュスターブ・モロー〜「至福の時を求めて」ラ・ロシュフーコー街を彷徨う。

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  パリのラ・ロシェフーコー街にあるギュスターブ・モロー美術館で見たギュスターブ・モロー(以下モロー)の「幻影」である。  新約聖書の重要な物語「洗礼者ヨハネの処刑(※1)」を、モローは聖書には名前も出て来ない女性「サロメ」を主役に描いた。官能的に、耽美的に、そして退廃的に描いた。  「サロメ」はモローの絵心を鷲掴みにしていたようで、本作と同じ構図の絵をモローは少なくとも8枚描いている(※2)。  そしてその全てが当時のパリの美術界で評判となり、モローは一躍時代の寵児となった。後に続く作品群も好評で、パリの象徴主義、耽美主義を牽引する。後には「世紀末芸術の鍵」を開けた画家とも呼ばれた。 ギュスターブ・モロー美術館入り口   モローにとって「サロメ」は、正に運命の女!「ファム・ファタール!」だったのだろう。  「ファム・ファタール」とはフランス語で、元々は「赤い糸に結ばれた恋愛相手」という意味である。唯、多くの場合それに「男を破滅させる魔性の女」という意味が加わる。私は今まで遭遇したことも無いが、それほどまでに魅力的ということだろうか? 「人類の生」  そして、フランス人はこの「ファム・ファタール」が大好きなようだ。時々に雑誌で「ファム・ファタール・ランキング」が行われると言う。  映画女優ではブリジット・バルドー!カトリーヌ・ドヌーブ!ソフィー・マルソー!などが常連みたいだ。ある人が映画好きのフランス人に、日本の女優さんは誰か入らないかと聞いたら、中々名前が上がらない。  暫くして出て来たのは、「ルパン3世の峰不二子」と「シティ・ハンターの野上冴子」だったと言う(※3)。 美術館2階のモローの寝室、ベッドは両親をはじめ家族の写真に囲まれている。   そんな少し脱線気味の話を思い出しながら、美術館内を巡る。気が付けば館内は私たち夫婦だけだ。人の声が全くしない。  パリ初日にオルセー!二日目にルーブル!そしてその日の午前中にオランジュリー!と大混雑美術館3連荘の私たちにとっては、この静寂とそれまでの美術館の喧騒との落差は余りに大きい。入館直後少しの間、戸惑いすら感じていた。   美術館3階のアトリエ&展示スペース   しかし、静寂は有り難い。実は私、オルセーやルーブルの人混みの隙間から名画の写真を撮り、パリに来た証明のポイントを集めるような鑑賞法も、決して嫌いではない。...

四長、パリへ行く‼️(12)フランソワ・ポンポン〜オルセー美術館は「なんでも鑑定団」だった⁉️

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   オルセー美術館のフランソワ・ポンポンの代表作「白熊」である。大変失礼な話がだが、フランソワ・ポンポン!私は初めてその名を聞いたとき、頭の中の連想ゲームで 「フランスの狸」 を思い浮かべてしまった。  如何にもフランス人に多く居そうな名前の「フランソワ(※1)」と、「ポンポン」が「ポンポコ(※2)」になって合体したのだろう。  でも、この「フランスの狸」さん、狸こそ造っていないが、野生動物が得意である。大変遅咲きの作家で、60歳を超えてもロダンの工房で助手をしていた。ロダンが亡くなった後、独立し67歳にしてこの「白熊」を発表、一気にブレイクする。  独立から亡くなるまでの10年間で、多くの野生動物(鹿・フクロウ・ペリカン)をモチーフにした作品を発表し、今も世界中のファンに深く愛されている。  興味深いのが、ロダンとの関係である。助手をしていたのに、その作風が全く異なる。   ロダンの作品が、写実主義をベースにしつつも、力強く情熱的であるのに、ポンポンの作品は単純化され、流麗なラインでクールな(白熊だからではない)印象だ。モダニズム彫刻の頂点と呼ばれている。  そして自らの作品を自らの死後、どの様に管理して行くのかも、二人の考え方は全く違った。  ロダンは遺言で自らの作品の死後鋳造に積極的だ( リンク1 )。自らの死後も作品が増殖し、世界に広まって、多くの人に見て欲しいと考えたのであろう。  一方、ポンポンは違った。遺言で死後鋳造を厳禁した。そもそも、自らの死後、自分が関わることがまるで無く鋳造された作品を、自分の作品として認めることなどあり得ないと考えていたのだろう。     そんなポンポンが厳禁した死後鋳造作品が、日本で大量に発見される事件があった。  2001年に開館した群馬県立館林美術館(以下館林美術館)は、約3億5000万円かけて104点のポンポン作品を購入した。ところが、その後その104点のうち3点が制作者不明!34点が死後鋳造!であることが、 オルセー美術館の調査 で発覚したのだ。  すぐに、マスコミや群馬県議会が反応した。「税金の無駄遣い!」と館林美術館を強く非難した。当時はポンポンのことを殆ど知らなかった私も、同じ様に「公立美術館であるならば、もう少し慎重に購入すべきだろう」と感じていた。  でも、今、改めて調べてみると、少し事情が違うよ...

四長、パリへ行く‼️(11)オランジュリー美術館〜モネの睡蓮❗️世界を征す⁉️

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  パリのオランジュリー美術館である。「オランジュリー」とは「オレンジの温室」の意で、元々は此処がテュイルリー宮殿の温室であったことに由来する。  朝早くから、美術館の前は長蛇の列、並ぶ人達の目的は一つ、クロード・モネの絵画「睡蓮」の連作の 部屋! (※1)を見ることだ。そう 部屋! だ。彼ら単にモネの睡蓮の絵を見るのでは無く、360度、壁の四方を巨大な睡蓮の連作が囲む楕円形の 部屋 を見るために、世界中から訪れているのだ。  私にはずっと疑問があった。「オランジュリーのこの 部屋 は、先に 部屋 があって、その壁にモネが睡蓮を描いたのか?それともモネの睡蓮の連作に合わせて、この 部屋 を造ったのか?」と言う疑問である。  何と正解は、モネの睡蓮の連作が先にあり、それに合わせてこの 部屋 を後から造ったと言うのだ。 まるで絵に合わせて額縁を作る様に、 部屋 と言う巨大な額縁を造ってしまったのだ(そしてその 部屋 には、天井から自然光まで柔らかく差し込ませた)。 時(1927年完成)の政府❗️が、フランス‼️が、、、  ちょっと、モネを特別扱いし過ぎたのでは?と、どちらと言えばマネ贔屓の私は思う。でもモネへの特別扱いはこれだけではない。  当時は死後にしか、作品が収められることが認められてはいなかったルーブル美術館に、モネだけは生前に10点もの作品が所蔵されたのだ。  確かに、モネは彼が描いた「印象・日の出」が、印象派の名の由来ともなった印象派の代表画家である。でも印象派のリーダーと言われるのは、あくまでマネだ。他にルノアールだって相当頑張っていたはずだ。私は美術界への貢献は、マネもルノアールも、モネとそんなには違わない気がする。 オルセー美術館の「バティニョールのアトリエ」(アンリ・ファンタン=ラトゥール作)、「印象派の肖像画」と言われる。中心で絵筆を持つのはマネ!モネは言えば、右端に遠慮がちに立っている。  特別扱いの理由はモネの実績・画力の他にあった。モネには贔屓してくれる大親友がいたのだ。その名はジョルジュ・クレマンソー!(※2)  フランス第三共和制の第40代・第53代と首相を2期務め、第1次世界大戦でフランスを戦勝国に導いたと言われる大政治家だ。ジャーナリストでもあり、政界・言論界に絶大な権力を持っていた。  モネとの親密さも尋常ではない。白内障になり、...