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《写真俳句》蘇鉄の冬支度には訳がある。(五島美術館・3)

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五島美術館庭園内    世田谷上野毛「五島美術館」庭園である。冬支度ですっかりこもかぶりした植物があった。気になって近づけば「蘇鉄(そてつ)」とある。でも、ちょっとやり過ぎだ。枝ぶりが素晴らしい年代物の蘇鉄なんだろうけど、そんなに積雪も多くない東京でここまでやるか?なんか息苦しそうだ。「過ぎたるは及ばざるが如し」なんて言葉まで浮かんだ。  蘇鉄は、裸子(胎珠が心皮に包まれていない)植物の常緑低木である。鉄を肥料にすると樹勢が増すので、釘を打ち込むと蘇ることから、その名が付いた。 五島美術館美術館庭園内・陶器の象が可愛い。   蘇鉄と言えば、思い出すのはNHKの朝ドラ「らんまん」である。主人公万太郎の親友「波多野泰久」のモデルの植物学者「池野成一郎」が、この蘇鉄の精子を発見した。池野は前年に平瀬作五郎(ドラマでは野宮朔太郎)と顕微鏡の中で運動するイチョウの精子を発見していた。それに続く2年連続大発見だ。世界的にも高く評価される大発見で、その後の植物細胞学の飛躍的な発展に大きく貢献した。現代であればノーベル賞ものの発見だったと言われている。  朝ドラの中では、俳優・前原滉が好演していた。池野は語学の天才で、研究室の学生時代から常に大学の本流に居続けた学者であった。でも彼の凄さは、学閥意識が無く、傍流の牧野富太郎や平瀬作五郎の良き理解者だったことだ。それどころか、年下であったにもかかわず、二人の保護者でもあり続けた。池野がいなければ植物界に二人の名は残らず、結果、朝ドラ「らんまん」も成立しなかったのだ。 五島美術館庭園内・石像が皆、魅力的だ。   そんな池野も蘇鉄の研究では結構苦労する。蘇鉄の研究には東京は寒過ぎたようだ。東京より暖かい鹿児島(当時、行き来に時間的を要する)で蘇鉄を観察した。そもそも東京では十分に成長した蘇鉄を見つけるのが困難、そして温度の低いところでは、動く精子も動かないと予測していたようだ。結果、鹿児島で精子を見事発見!標本を固定し東京へ持ち帰り精子と判断、発表した。  そうだ!調べてみれば、現在も蘇鉄の自生の北限は宮崎県とある。東京で蘇鉄が冬を越えるのは大変なのだ。この全身こもかぶりの姿にも納得!オーバーだとか失礼な前言は、完全に撤回する。万全な冬支度で、この冬乗り切ってくれ!蘇鉄君。  

《写真短歌》四長、鶴ヶ城の堀割り見下ろし、「荒城の月」を口遊む。(福島吟行6)

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    昨日に続き、会津若松・鶴ヶ城の話だ。城の本丸の端で石碑を見つけた。土井晩翠の「荒城の月」の歌碑である。 鶴ヶ城本丸・土井晩翠「荒城の月」歌碑   「荒城の月」は、土井晩翠・作詞、瀧廉太郎・作曲の歌曲。日本で作曲された最初の西洋音楽の歌曲である。私はこの歌のモデルとなった城は、大分県竹田市の「岡城(址)」だと思い込んでいたので、此処「鶴ヶ城」でこの歌碑を見つけたとき少し驚いた。  調べてみると、全国に「荒城の月」のモデルと言われる城は幾つもある。そしてそれは大きくは二つに分類できる。「作曲者・瀧廉太郎に縁ある城(瀧派)」と「作詞者・土井晩翠に縁ある城(土井派)」だ。例えば、瀧派の城としては前述の廉太郎の郷里、大分県竹田市の「岡城」や、少年時代を過ごした富山県・富山市の「富山城」が「我こそモデルなり」と名乗りを挙げている。 富山県富山市「富山城」     モデルと言われることで、その城がその土地の観光資源となるのは結構なことだ。私は幾つの城が名乗りを挙げようと、全然ありだと思っている。お好きな様にお名乗りください派である。でも、もし、人から貴方が一つだけ選びなさいと言われると、少し違ってくる。此処に来るまでは、「岡城」と思っていたのに、少し違ってくる(変節甚だしだ)。瀧派の「岡城」「富山城」には申し訳ないが、私は土井派の城たちに軍配を挙げたい。  何故と問われれば、答えはシンプルだ。この歌曲は「詩先」なのだ。先に文部省が中学生唱歌として、土井晩翠のこの詩を示し旋律を公募した。それに瀧廉太郎が応募したのだ。廉太郎が曲を作る前に、既に城のモデル・イメージは存在していたのだ。 会津若松市「鶴ヶ城」  一方、土井派でも、複数の城が手を挙げている。土井晩翠が今でいう「城オタク」で、全国の城を旅していたからだろう。旅先でリップサービスし、「此処の城がモデルです」なんて言っていたかもしれない。でも有力なのは、晩翠の郷里・仙台の「青葉城」と、此処、 会津若松の「鶴ヶ城」だ。さあ、どっちだ!ファイナルアンサー!私は、此処「鶴ヶ城」と答え た い。(仙台堀日記だが)  もちろん「青葉城」は、晩翠の故郷の城、晩翠のイメージに入っていないはずがない。唯、より強くイメージし、モデルとしたのは此処「鶴ヶ城」だと思う。まず時代背景だ。この時代、戊辰戦争で旧幕藩体制が終焉し、廃藩置県や廃城令が

《写真短歌》四長、鶴ヶ城を見上げ涙ぐむ。(福島吟行5)

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   会津若松市の鶴ヶ城である。秋の鱗雲に天守を突き刺さすように聳えている。前にこのブログで何度も書いてきたが、私は尾張名古屋の出身。「尾張名古屋は城でもつ」と言われるくらいで「お城」との縁は格別だ。その城フェチの私でも、最近まで知らなかった話。「名古屋城と鶴ヶ城は兄弟分である」という話だ。何故なら「天守閣の最上部の屋根にある鯱鉾が兄弟分」だからだ。  名古屋城と鶴ヶ城、二つとも戦火で天守閣が燃え落ちた。名古屋城は名古屋大空襲、鶴ヶ城は戊辰戦争によって完全に消失したのだ。戦後、二つの城はコンクリートで再興される。たまたま同じゼネコンに。そのゼネコンのトップは考えた。折角、自分の会社が再興する二つの城、何か関連性を持たせたいと。そこで着目したのは名古屋城の金の鯱鉾だ。「鶴ヶ城にも鯱鉾をつけるのは如何だろう。名古屋城が金なら、鶴ヶ城は銀だ。お城の世界の『金閣』『銀閣』だ。」、でも流石に会津に費用を請求することは出来ない。ゼネコンのトップは、気前良くポケットマネーで銀鯱鉾(ダイヤモンドの目も付けた)を寄付をした。   実は名古屋(尾張藩)と会津(会津藩)、江戸時代においては兄弟分とは言えないが、間違いなく親戚だ。尾張藩は徳川御三家、藩祖は家康の九男義直。一方、会津藩は藩祖は保科正之。正之は二代将軍・秀忠の隠し子で、三代将軍家光の弟だ。藩祖同士は叔父甥の関係で、ともに徳川一門として将軍を支える立場にあった。でも、この二藩、全く気質が違った。    尾張藩の気質を一言で言えば「ドライ」。自分の中で理屈付けが出来れば、上司にも気を使わないし、時に上司とは、別の判断をしたりする。尾張藩七代目の徳川宗春は、将軍吉宗が享保の改革で緊縮財政を施く中、真逆の積極財政策を採ったりした。幕末の尾張藩の行動に至っては、「ドライ」そのものだ、戊辰戦争で将軍慶喜側が不利と判断すると、いち早く薩長側についたのだ。  一方で会津藩の気質と言えば「律儀・忠節」だ。藩祖保科正之は、 自分が隠し子にも関わらず、取り立ててくれた将軍家光の恩に報いることを、会津藩の存在意義とした。自分だけでなく子子孫孫まで、将軍家と運命をともにすることを藩是の第一としたのである。その藩是は幕末の藩主・松 平容保にもしっかり(かなりバージョンアップされて)伝わる。そしてその律儀・忠節が会津藩を戊辰の悲劇に導く。鶴ヶ城の籠城戦、飯

《写真短歌》四長、白馬でメメント・モリにハマる。(白馬・秋・1)

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   今、「メメント・モリ」で検索すると、出てくるるのは、バンク・オブ・イノベーションより配信されているゲームアプリに関する記事だ。ゲームをやらない私は内容を知らない。「魔女狩り」を巡る戦いの話のようだが、あらすじを読んでも、私には上手く理解することが出来ない。従って、何故このゲームのタイトルが「メメントモリ」なのか?私には不明のままだ。しかし、公式サイトは素晴らしく綺麗な出来であり、映画や音楽等も同時並行的に発信されているみたいだ。今やゲームを起点として、様々なアートやメディアが生まれ展開されているのが、ゲーム音痴の私でも感じられる。   「メメント・モリ」は、ラテン語で「人間はいつか必ず死ぬ。そのことを忘れるなかれ」と言う、古代ローマの警句である。以来、多くの芸術作品のモチーフとなって来た。それぞれの時代を反映して、「だから、今を楽しめ!好きなものを食べ!飲もう!」となったり、逆に「だから、現世での栄達・贅沢は虚しい!徳を積み来世に備えろ!」となったり、「だから、生きていること自体に意味が無い!」とニヒリズムが語られたりした。       私は哲学的な人間では全くないので、「メメント・モリ」を深く考えることは全く無い。でも「メメント・モリ」を実感することは意外とある。それは冒頭の短歌の様に、山なり海なり圧倒的な大自然と対峙したときである。その余りの偉大さに、悠久さに対し、人間は、自分は何てちっぽけな存在なんだろう。そして人間は必ず死ぬ、人間に与えられた時間は短いと実感してしまうのだ。「実感したから何だ!どうする!」は、やっぱり非哲学的人間なので余り考えないが、謙虚になっていることだけは確かだ、、、  この白馬でのときも同様だ。いや今までで一番謙虚になっていた。何しろ、第一ケルン迄の道が、私にとっては極めて難所であったのだ。冒頭の短歌の「平伏」は山の偉大さに「平伏」しただけではない。「平伏(這う)」しないと死にそうだったのである。       蛇足ではあるが、ゲームアプリ「メメントモリ」のタイトルには「人間は必ず死ぬ。人間に与えられた時間は短い。このゲームは確かに面白い。でもゲームだけで人生終わちゃって良いの?ほどほどにね。」って意味も込められている。ってな訳ないか、、、

《写真短歌》四長、MOTで昭和の仕事の真髄に迫る。『特撮美術監督 井上泰幸展』

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   昨年、 東京都現代美術館(※リンク) で開催された「生誕100年 特撮美術監督 井上泰幸展」のメイン展示「空の大怪獣ラドン」のミニチュアセットである。この後、ラドンの壊す1956年の福岡の街、西鉄福岡駅周辺である。   何故1956年と特定できるかと言えば、答えは画像の中にある。上の写真左下の黒い映画看板に注目頂きたい。拡大すると映画のタイトル「女囚と共に」とある。1956年の東宝映画!これで特定出来た。それにしても驚きの精密さ!映画看板を更に拡大すれば、田中絹代や原節子といった出演女優の名まで確認出来る。正に「昭和の仕事、手抜き無し」である。  井上泰幸は、特撮のパイオニアと言われる円谷英二のスタッフとしてキャリアをスタートさせ、円谷の怪獣映画を始め全作品に携わった。その技は職人肌でありながら、科学的、論理的、何処までもリアルを追求した。(上の写真の福岡の街の再現に当たっては、実際に博多の街を歩き、歩幅や敷石の枚数を記録し、一つ一つ設計図を引いて再現したという。)円谷の死後も、SF、ファンタジー、歴史、戦争映画など160作品のミニチュアセットに関わり、CG技術が確立する迄の日本映画を支えた。 精巧に造られた西鉄福岡駅、驚くべきはプラットフォームのベンチ、背もたれの上の小さな看板まで再現されている。   そして、彼の残した「CGがいくら発展しても、様々な表現方法を組み合わせなければ感動を呼べない。」と言う言葉には、現代のハリウッドの気鋭の監督たちも共感。彼は「タイコウ」と呼ばれ、今も熱いリスペクトを受けている。日本でもアニメ・実写映画の第一人者・庵野秀明も彼のこの言葉の信奉者だ。庵野の設立したNGO「アニメ特撮アーカイブ機構」で、井上の残した業績・テクニックの再評価、研究が進んでいるそうだ。私も詳しい技術はわからないが、CGばかりの映画は、どこかさびしさを感じてしまう。かつて日本お家芸と言われた特撮!その魅力を、世界のクリエーターたちに発信するべきだ。こうした企画展が世界中で開催されること願ってやまない。 右手前が若き井上泰幸監督、この場所はフォトロケーションで、私も特撮監督になった気分で撮影した。    ところで、井上泰幸、「タイコウ」には、もう一つ業界内での呼び名があった。「壊しの井上」だ。苦労して苦労して造り上げたミニチュアセットを、いとも簡単に未練無く

《写真短歌》京都吟行シリーズ(17)四長の「不許葷酒入山門」論

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 写真は 京都・宇治の萬福寺の山門(※リンク) 。門の前に石柱が立っている。そして石柱には「不許葷酒入山門」とある。「門内(境内)には、匂いの強い食材とお酒を持ち込むべからず」と言う意味だ。日本国中、特に禅宗の寺では良く見かける石柱である。  仏教は、イスラム教と同じく飲酒は禁止だ。実際日本以外の仏教国では、僧侶の飲酒は禁止されている。しかし、日本では全く守られていない。それには日本仏教界独特の理由もあった。「神仏習合」だ。「神仏習合」とは、日本土着の神道と外来の仏教が融合した宗教現象で「神仏混淆」とも言われている。その中で、神道に於いて神聖で、神事に欠かせないお神酒を、寺の僧侶も嗜むようになっていった。でも、少しきまり悪さ、後ろ暗さはあったようで、お酒のことを、わざわざ「般若湯」と言って飲酒を楽しんでいたようだ。 こちらは、東京・世田谷区上野毛の「五島美術館」の庭園、創設者五島慶太が何処から移築した山門前の石柱にも「不許葷酒入山門」の文字がある。   そう言えば、私の小さなとき、法事後の宴席でお坊さんが「これは、これは般若湯ですな」とか言ってビールとか、日本酒を美味しそうにたらふく飲んでいた。子供心に「ハンニャトウってなんだ。どう言う字を書くのか?やはり坊さんは難しいことを言うな」って感心していたが、禁止されているものを飲む言い訳だったようだ。  「般若」とは、仏教用語で「智慧」のこと、「湯」をつけて「智慧の湯」だ。(熱燗だな?)よく考えたものだ。飲めば賢くなりそうだ。私も毎晩欠かさず飲んでいる。 萬福寺門前、普茶料理(精進料理)の老舗「白雲庵」   そして、ここからは蛇足だが、山門へ持ち込み禁止のもう一つの物「匂いの強い食材」についてだ。こちらの持ち込み禁止はお酒より守られているかもしれない。お寺で食される「精進料理」では「匂いの強い食材」は使用されない。ニンニクもニラもネギもだ。香辛料も使用しない。  そうか、ちょっと残念な気がする。実は私、精進料理に期待している。インバウンド観光の目玉の一つとしてだ。精進料理!中国伝来の調理法だが、日本人の工夫の中で進化して来ている。植物性の食材だけで、肉や魚に似せた外観や食感を実現するのは匠の技だ。精進料理ならベジタリアンにも、ハラル食材しか食さないイスラム教徒にも喜ばれるはずだ。でもちょっと味のインパクトに欠ける。  そ

《写真短歌》四長、「智恵子抄」に拘る。(福島吟行4)

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   昨年秋、福島県を旅したとき詠んだ短歌だ。その日は、朝一で 福島の美術館(※リンク) を訪ね。午後は会津へ行くために、新幹線やまびこに飛び乗った。右手の車窓に美しい山並みが見える。早速、グーグルマップで確認すれば、現在地は二本松市!するとあの山は安達太良山だ!「そうか、此処が高村光太郎の「智恵子抄」の智恵子の生まれ故郷か、今、私は智恵子が見た風景の中にいる、、、」と呟いた。  「智恵子抄」は、詩人で彫刻家の高村光太郎が、1941年に龍星閣から出版した詩集である。「智恵子抄」には詩29篇・短歌6首・散文3篇が収録されている、光太郎が智恵子を知ってから、智恵子の死後も智恵子のことを思って暮らした30年の間に、智恵子に関し創作した作品が収められている。勿論「智恵子は、東京には空がないと言う、本当の空を見たいと言う、、、」で有名なあの「あどけない話」の詩も収録されている。 東北新幹線の車窓より   この「智恵子抄」、詩集として文学の世界で「金字塔」であることに誰も異論はない。でも「智恵子抄」、実は法律の世界でも有名な詩集なのだ。1965年、光太郎の没後、この詩集の編集著作権(作品の著作権は勿論光太郎にある)を出版社・龍星閣が主張、編集著作権も光太郎にあると主張する遺族(相続人)と裁判になったのである。何と28年に及ぶ長期裁判となり、1993年最高裁判決で、遺族側の勝訴となった。  争点となった編集著作権については「単に編集方針を示したり、編集に関わった程度では著作者とは認められない、詩集などの場合は、素材の選択(どの詩を詩集に入れるか)が重要。この場合、素材の選択は、最終的には高村光太郎がしているとした。」 東北新幹線の車窓より  私はこの判決が不満である。そもそもこの程度の判決で、何故28年の長期裁判になったのかが第一の不満だ。そして結果論だが、争点は「誰が素材選択したか」ではなく、別のところにあった気がするのだ。私は争点にすべきは「『智恵子抄』というタイトルを誰が決めたか」だった気がする。おそらくは高村光太郎が「智恵子抄」とつけたのだろうけれど、もし万一、龍星閣が「タイトルは智恵子抄ってのは如何でしょうか」と提案していたとしたら、、、  「智恵子抄」は、光太郎の死後、何度も舞台になり、映画になり、テレビドラマとなった。それらのタイトルは皆「智恵子抄」だ。詩集と違い自

《写真短歌・俳句》四長、上野毛で西方浄土を体験する。(五島美術館・2)

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   昨日に続き、世田谷区上野毛の五島美術館の庭園である。江戸時代享保年間に彫られた石仏が、晩秋の落陽を真正面から浴び気持ち良さそうに眠っていた。(今にも頬を支える右腕が外れてカクッとしそうだ。)  美術館の創設者・五島慶太は、NHKの朝ドラ「らんまん」にも相島の名で登場していた鉄道王である。東急電鉄の事実上の創業者で、彼が社長を務めた会社名を列記するだけでも、彼が鉄道王と言われる由来が分かる。こんな感じだ。「目黒蒲田電鉄=東急目蒲線」「池上電気鉄道=東急池上線」「東京横浜電鉄=東急東横線」「玉川電気鉄道=東急玉川線」「京浜電気鉄道=京急電鉄」「小田急電鉄=小田急電鉄」等々だ。数々の競合の鉄道会社をM&Aを駆使して買収していった。その手法はときに強引で、「強盗慶太」の異名を取った。   そんな「強盗慶太」が美術館を創設する。それがこの「五島美術館」である。「五島美術館」の「五島」は勿論自らの名前であるが、創設時の1949年、五島慶太の命でこの美術館に出資した元「大東急グループ」の東急・京王・小田急・京急と東急百貨店の五社を指しているとも言われる。お陰で美術館の財務は盤石だ。「五島慶太」、自ら築いた大東急の儲けの幾許かを、末永く社会還元することに見事成功した。   「五島慶太」は、展示館の裏手に庭園も造る。庭園は展示館の裏手にあり、多摩川沿いの段丘(恐らくハケ)の高低差を最大限生かしている。散策路の彼方此方に「大日如来」や「六地蔵」など、「五島慶太」の事業拡大に伴い、引き取ることになった各地の石仏が配置されている。   そして、私はこの庭園に若い頃何度か訪れたことがあるが、そのときは全く気が付くこと出来なかったことがある。それはこの庭(段丘の斜面)は完全に西向きだということだ。従って斜面に配置された石仏たちも、多くは顔を西向きにして配されている。それ故、落陽の時間には、彼らの面差しに光がスポットライトのように当たる。まるで西方浄土(極楽浄土)の光が降り注ぐみたいだ。すると、石仏たちは表情を変える。口角を微かに上げる。西方浄土からの導きに応える様に、、、   「強盗慶太」とまで言われた辣腕の経営者「五島慶太」。しかし、彼とて人間だ。最晩年は自らの終わりのときを考えたに違いない。この庭を散策し、この光景に接し、自らの最後の瞬間は、西方浄土の光に包まれて逝きたいと思

《写真短歌》四長、上野毛で「漂泊の流儀」を語る。(五島美術館・1)

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    世田谷区上野毛の「五島美術館」の庭園である。昨年の12月、企画展「語り継がれる漂泊の歌詠み 西行」を見るために訪れた。「漂泊」、意味は「所を定めず彷徨い歩くこと」「さすらうこと」だ。この言葉に憧れて旅に出て、「漂泊の人」と呼ばれる文化人は西行だけではない。文学界では種田山頭火、松尾芭蕉、中国では杜甫もそう呼ばれている。美術界では円空、木喰上人、山下清もそうだろう。  でも、私は彼らは皆んな純粋な「漂泊の人」ではないような気がする。何故なら、彼らは行き先を定めず(芭蕉は定めていたかな?)歩いてはいるが、それぞれ目的はあった。詩や短歌や俳句を残すこと、紀行文を残すこと、木像や絵画を残すこと等々である。そして皆、素晴らしい成果物を後世に残している。 五島美術館庭園   本当に純粋な「漂泊の人」と言えば、私の中では、この人で決まり!映画「男はつらいよ」の寅さんである。寅さんは、何か成果物を残そうとしていた訳ではないだろう。マドンナに失恋した結果、「漂泊の旅」に出てしまうのである。「男はつらいよ」シリーズは48作られた。私は大ファンで恐らく全作品を観ていると思うが、このシリーズ全作品に通底するテーマと言えば「漂泊と定住」だろう。毎回、頗る愛情に溢れた葛飾柴又の人たちに囲まれて、今回はいよいよ寅さんも柴又に定住するかと思わせる。しかし、結局は寅さん「漂泊の旅」に出てしまうのである。これはもうお約束だ。本物の「漂泊の人」である、、、 五島美術館庭園   さて、此処でもう一度、冒頭の短歌に戻りたい。解説文には西行云々書いているが、やはり私の心は寅さんだ。東か南、右か左、寅さんも悩む瞬間あったに違いない。そんなとき寅さん、どうやって決断したのか?短歌では「風に聞く」としたが、どうも寅さんは違うみたいだ。「風なんて目に見えないぜ!」図書館で借りたDVDディスクの表紙の寅さん、妹さくらに聞かれて呟いた。      そうか、 寅さんは「雲」を見て決めるみたいだ。「ただ、それだけのことよ」。寅さんの「漂泊の流儀」である。カッコイイ!

《写真漢詩》京都吟行シリーズ(16)「嵐電」は「嵯峨野序曲」だ。

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    漢詩は京都の嵐山・嵯峨野を詠んだ。彼の地は、漢詩の通り平安貴族の別荘地として始まり、現在では外国人観光客や修学旅行の国内有数の人気スポットだ。従っていつ行っても大変な人混みを掻き分け歩くことになる。かく言う私も、人混みは大嫌いと言いながら、京都ステイとなれば、結構な頻度で訪れている。魅力的な地であることは間違いない。  でも本日は、その嵐山・嵯峨野の話ではない。その地へ私を運んでくれる小さな電車、「嵐電」についてである。  私は嵐山・嵯峨野へはできる限り「嵐電」で行くことにしている。「嵐電」は、正式には「京福電気鉄道嵐山線」。四条大宮と嵐山を結んでいる。私はこの「嵐電」に乗るのが好きだ。先ず沿線の駅名が謎めいている。「蚕の社」「帷子ノ辻」「有栖川」「鹿王院」とか、どこも途中下車して路地を歩けば、怪しげなものが急に目の前に飛び出してきそうだ。  そして沿線の太秦周辺には、今も東映と松竹の撮影所があるが、昔は、大映や東宝や日活の撮影所もあった。世界の映画祭で受賞して日本映画の評価を高めた名作「羅生門(黒澤明監督)」「雨月物語(溝口健二監督)」「山椒大夫(溝口健二監督)」「地獄門(衣笠貞之助監督)」もみんなこの嵐電沿線で誕生した。そんなことをつらつら考えて妄想に浸っていると、あっという間(あっという間ではあるが気分は盛り上げられている。)に終着駅「嵐山」に到着する。「嵐電」は私にとって、嵐山・嵯峨野滞在を盛り上げる「序曲」のような存在だ。 お気に入りの蕎麦店「よしむら」から、嵐山、渡月橋、大堰川を眺める。   ところで、この「嵐電」の雰囲気を上手く醸し出した映画が2018年封切られた。鈴木卓爾監督の「嵐電」だ。「嵐電」を舞台に交錯する3つの恋を幻想的に描いたラブ・ストーリーだ。「幻想的に描いたラブ・ストーリー」と映画サイトの解説をそのまま引用させて頂き書いたが、鈴木卓爾監督作品!そんなに簡単ではない。時系列でなかったり、キャストの年齢設定に違和感があったり、劇中劇を入れたり、突然宮沢賢治の童話に出てくるような不思議キャラクターが登場したり、もう大変である。難解というのとは少し違うが、訳が分からないと言えば、訳が分からない。  でもでも、映画を観た後の気分はそんなに悪くない。「嵐電」沿線ってこんなこんな感じあるよねって思えるのだ。嵐山・嵯峨野は今や世界的な観光地だが

《写真短歌》四長、オリエンタルホテルで「六甲颪」に酔う。(神戸吟行シリーズ2)

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   阪神タイガースファンの皆様、お許し頂きたい。そして安心頂きたい。上の短歌は今年の1月に詠んだものだ。まだタイガースがキャンプインする前だ。そして、私は己れの不明を恥じている。キャンプ前とはいえ、私は今年のタイガースがまさか優勝するとは思っていなかった。それがぶっちぎりの優勝!正に常勝!阪神タイガース!おめでとうございます。  今年のタイガースの優勝、最大の勝因は勿論選手たちの頑張りであろうけれど、岡田監督の監督力も見事だった。選手たちがプレッシャーを感じないよう、優勝のことを「A .R.E」と言い換えたと言う。最初は意識せず「A .R.E」と言ったに違いない。しかし、メディアで「A .R.E」が評判になっていると知ると、完全に優勝の二文字を封印して「A .R.E」で徹底した。岡田監督、良いセンスをしている。選手も上手く乗せられた。 神戸オリエンタルホテルより六甲山系を望む。    ところで私は、予々阪神ファンを羨ましく思ってきた。そして阪神ファンは幸せだと思ってきた。それは「六甲颪」と言う日本一の応援歌を持っているからだ。テレビの野球中継で甲子園球場で「六甲颪」が大合唱されているのを見ていると、合唱は地響きのように聞こえ、唱っているファンたちの顔ときたら陶酔状態だ。中には涙ぐんで歌っている人もいる。例えは適切ではないが、米国国歌を聞き口ずさんでいる米国国民のようだ。東京ドームや名古屋ドームでは見ない光景だ。羨ましい。  では何故、阪神ファンは、あんなにも「六甲颪」に陶酔できるのか?勿論、阪神タイガース愛が一番だ。でも「六甲颪」と言う楽曲そのものの魔力も確実にあると思う。ではその魔力とは?作曲者・古関裕而のゆったりと滔々としたメロディーライン!これも流石だ。でも私は作詞者・佐藤惣之助の歌詞に着目したい。例によって私の独善的の分析だ。「六甲颪」の歌詞から、仮名(ひらがな&カタカナ)を除いて漢字だけを残してみた。 『六甲颪颯爽 蒼天翔日輪 青春覇気美 輝我名阪神』 『闘志溌剌起 熱血既敵衝 獣王意気高 無敵我阪神』 『鉄腕強打度 鍛処甲子園 勝利燃栄冠 輝我等阪神』   するとどうだ。押韻こそしていないものの、見事に五言絶句の三連詩だ。起承転結も決まっている。漢詩大好きの私には堪らない。そして 前にこのブログで書いたように(※リンク) 日本人は、実は漢文の書き下し文

《写真短歌》四長、会津で蒲生氏郷に意見する。(福島吟行3)

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   会津若松の鶴ヶ城、本丸内にある茶室「数寄屋『麟閣』」である。鶴ヶ城の実質的な初代城主・蒲生氏郷が建てた。会津若松、鶴ヶ城城主と言えば、新撰組との交流や戊辰戦争での籠城戦で語られることの多い松平容保が有名で人気だ。しかし、私は、どちらかと言えば、会津の基盤を築いたと言われる戦国武将・蒲生氏郷に興味がある。  蒲生氏郷は、人質の身ながら、その才を織田信長に見出され戦国の世にデビューする。続く豊臣秀吉にも重用されるが、後年はそのあまりの器量を恐れられる。伊達政宗の見張り役を名目に遠国会津に転封されたと言われる。(最期も秀吉が主治医を派遣して毒殺したとの陰謀論さえある。) 数寄屋「麟閣」の寄り付き   そして蒲生氏郷、当時としては、頗るユニークな人物だったみたいだ。先ず第一に、彼には側室がいない。当時の武将としては極めて珍しい。愛妻家である。秀吉も家康も少しは彼を見習うべきだ!私もこの点は高く評価している。(この点を評価しておけば、家内はまずまず安全だ。)  第二に、彼はキリスト教を深く信仰した。洗礼名はレオナルド(レオ)。(ディカプリオと同じだ。)自身だけでなく、会津の領民に広く改宗を勧めていたようだ。彼が、もう少し長生きしていたら、東北の地にキリスト教国が誕生していたかもしれない。(戦になれば「島原の乱」より大規模だ。どうする家康も大変だったろう。)  第三に、彼はかなり腹の座った人物であったようだ。この茶室「数寄屋『麟閣』」がそれを物語っている。1591年、豊臣秀吉は茶人・千利休に切腹を命じたが、彼は利休の子・小庵を会津に匿ったのだ。そして、小庵のためにこの茶室「数寄屋『麟閣』」を鶴ケ城内本丸・大書院の側に建て、小庵に与える。その後、彼は存命中、幾度も大きな茶会を鶴ヶ城内で開催したと言う。  彼は「利休七哲」の一人(筆頭)に数えられる茶人。茶への造詣も千利休への思いも深い茶人であった。どうしても「千家の茶」を守りたかったのだろう。当時の政治のパワーバランスを読み切ってのことだろうが、勇気ある、他の誰にも真似の出来ない行動だった。 数寄屋「麟閣」の室内   そんな蒲生氏郷だが、現代に於いてはそんなに有名とは言えない。むしろ知る人ぞ知る人物って感じである。彼が主人公となった著作物も幾つかあるが、ベストセラーではない。私の知る限りでは、過去、蒲生氏郷ブームは無かったと