《写真短歌》四長、会津で蒲生氏郷に意見する。(福島吟行3)


  会津若松の鶴ヶ城、本丸内にある茶室「数寄屋『麟閣』」である。鶴ヶ城の実質的な初代城主・蒲生氏郷が建てた。会津若松、鶴ヶ城城主と言えば、新撰組との交流や戊辰戦争での籠城戦で語られることの多い松平容保が有名で人気だ。しかし、私は、どちらかと言えば、会津の基盤を築いたと言われる戦国武将・蒲生氏郷に興味がある。

 蒲生氏郷は、人質の身ながら、その才を織田信長に見出され戦国の世にデビューする。続く豊臣秀吉にも重用されるが、後年はそのあまりの器量を恐れられる。伊達政宗の見張り役を名目に遠国会津に転封されたと言われる。(最期も秀吉が主治医を派遣して毒殺したとの陰謀論さえある。)

数寄屋「麟閣」の寄り付き

 そして蒲生氏郷、当時としては、頗るユニークな人物だったみたいだ。先ず第一に、彼には側室がいない。当時の武将としては極めて珍しい。愛妻家である。秀吉も家康も少しは彼を見習うべきだ!私もこの点は高く評価している。(この点を評価しておけば、家内はまずまず安全だ。)

 第二に、彼はキリスト教を深く信仰した。洗礼名はレオナルド(レオ)。(ディカプリオと同じだ。)自身だけでなく、会津の領民に広く改宗を勧めていたようだ。彼が、もう少し長生きしていたら、東北の地にキリスト教国が誕生していたかもしれない。(戦になれば「島原の乱」より大規模だ。どうする家康も大変だったろう。)

 第三に、彼はかなり腹の座った人物であったようだ。この茶室「数寄屋『麟閣』」がそれを物語っている。1591年、豊臣秀吉は茶人・千利休に切腹を命じたが、彼は利休の子・小庵を会津に匿ったのだ。そして、小庵のためにこの茶室「数寄屋『麟閣』」を鶴ケ城内本丸・大書院の側に建て、小庵に与える。その後、彼は存命中、幾度も大きな茶会を鶴ヶ城内で開催したと言う。

 彼は「利休七哲」の一人(筆頭)に数えられる茶人。茶への造詣も千利休への思いも深い茶人であった。どうしても「千家の茶」を守りたかったのだろう。当時の政治のパワーバランスを読み切ってのことだろうが、勇気ある、他の誰にも真似の出来ない行動だった。

数寄屋「麟閣」の室内

 そんな蒲生氏郷だが、現代に於いてはそんなに有名とは言えない。むしろ知る人ぞ知る人物って感じである。彼が主人公となった著作物も幾つかあるが、ベストセラーではない。私の知る限りでは、過去、蒲生氏郷ブームは無かったと言って良いだろう。

 何故だろう?彼の器量、活躍からすれば、少し不公平な気がする、、、その理由に気が付いた。血筋が途絶えたのである。子供や孫が夭折したのである。豊臣秀吉のようなスーパースターは別にして、血筋が途絶えれば伝わる話も伝わらない。不利だ。、、、「やっぱり氏郷さん、戦国時代は側室を持った方が良かったんじゃないかな、、、」(私は変わり身が早い。でも、これは内緒の呟きだ。)




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