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四長、パリへ行く‼️(最終章)ブルス・ドゥ・コメルス〜変わらないでいるために、変わり続けるパリ‼️

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   いよいよ、このブログ「四長、パリへ行く‼️」シリーズも最終章だ。最終章は私が最も尊敬する日本の建築家・安藤忠雄( リンク )の作品で締めたい。 「ブルス・ドゥ・コメルス」、元パリ市の商品取引所であった建物を、安藤忠雄が大改修を設計し、2020年開館した現代美術館である。   安藤忠雄と、パリとの縁は深い。市内にあるソルボンヌ大学の名誉博士号を授与され、フランス芸術文化勲章(コマンドゥール)も受賞している。  そして、今、世界の建築・現代アート界を席巻している話題は、彼の盟友で世界有数の企業家、現代アートのコレクターとしても名高いフランソワ・ピノー(※1)との協働関係(※2)である。   この「ブルス・ドゥ・コメルス」もピノーとの協働作品で、ピノーがパリ市より旧商品取引所の建物を取得し、安藤忠雄が建物の全面改修を設計・指揮、ピノーの現代アートのコレクションの展示スペースを確保した。  建物の中に一歩入れば、ピノーが何故、安藤忠雄をパートナーとして選び続けているのか?理由が分かる。  まず第一に、安藤忠雄はアート 作品の邪魔をしない のだ。建物構造は極めてシンプルで邪魔な装飾は一切排除されている。  第二に、それでいてアート作品を引き立てるための 光と影の演出は効果抜群 だ。作品のスケール感は最大限に、色彩はエッジが効き鮮明となるのだ。  そして最後には 入場者に緊張感を感じさせるのだ 、、、「 歴史(的建造物)」と「現代(アート)」の緊張感 を、、、  これこそが安藤建築の真骨頂だと思う。国内に数ある彼の作品の中でも、私は上野「国際子ども図書館」が気に入っている。  彼はルネサンス様式で代表的な明治期洋風建築であるこの図書館を、外観をはじめ残すべきは残し、削ぎ落とす部分は大胆に削ぎ落とした。そして図書館としての機能ついては、最新技術の使用を可能にしたのだ。  私は 「変わらないでいるためには、変わらなければならない(※3)」 という言葉が好きだ。そして安藤忠雄ほど、その言葉を体現した建築家はいないと思う。  彼は世に残したい建築、残さななければならない歴史的建造物が数多あることを知っている。一方で建物として何の用途も無く、何の機能も果たす事なく、生き残ることが許される建物は、極く限られることも知っている。  建物がいつまでも変わらない姿で、世の中に生き残...

四長、パリへ行く‼️(13)ギュスターブ・モロー〜「至福の時を求めて」ラ・ロシュフーコー街を彷徨う。

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  パリのラ・ロシェフーコー街にあるギュスターブ・モロー美術館で見たギュスターブ・モロー(以下モロー)の「幻影」である。  新約聖書の重要な物語「洗礼者ヨハネの処刑(※1)」を、モローは聖書には名前も出て来ない女性「サロメ」を主役に描いた。官能的に、耽美的に、そして退廃的に描いた。  「サロメ」はモローの絵心を鷲掴みにしていたようで、本作と同じ構図の絵をモローは少なくとも8枚描いている(※2)。  そしてその全てが当時のパリの美術界で評判となり、モローは一躍時代の寵児となった。後に続く作品群も好評で、パリの象徴主義、耽美主義を牽引する。後には「世紀末芸術の鍵」を開けた画家とも呼ばれた。 ギュスターブ・モロー美術館入り口   モローにとって「サロメ」は、正に運命の女!「ファム・ファタール!」だったのだろう。  「ファム・ファタール」とはフランス語で、元々は「赤い糸に結ばれた恋愛相手」という意味である。唯、多くの場合それに「男を破滅させる魔性の女」という意味が加わる。私は今まで遭遇したことも無いが、それほどまでに魅力的ということだろうか? 「人類の生」  そして、フランス人はこの「ファム・ファタール」が大好きなようだ。時々に雑誌で「ファム・ファタール・ランキング」が行われると言う。  映画女優ではブリジット・バルドー!カトリーヌ・ドヌーブ!ソフィー・マルソー!などが常連みたいだ。ある人が映画好きのフランス人に、日本の女優さんは誰か入らないかと聞いたら、中々名前が上がらない。  暫くして出て来たのは、「ルパン3世の峰不二子」と「シティ・ハンターの野上冴子」だったと言う(※3)。 美術館2階のモローの寝室、ベッドは両親をはじめ家族の写真に囲まれている。   そんな少し脱線気味の話を思い出しながら、美術館内を巡る。気が付けば館内は私たち夫婦だけだ。人の声が全くしない。  パリ初日にオルセー!二日目にルーブル!そしてその日の午前中にオランジュリー!と大混雑美術館3連荘の私たちにとっては、この静寂とそれまでの美術館の喧騒との落差は余りに大きい。入館直後少しの間、戸惑いすら感じていた。   美術館3階のアトリエ&展示スペース   しかし、静寂は有り難い。実は私、オルセーやルーブルの人混みの隙間から名画の写真を撮り、パリに来た証明のポイントを集めるような鑑賞法も、決して嫌いではない。...

四長、パリへ行く‼️(12)フランソワ・ポンポン〜オルセー美術館は「なんでも鑑定団」だった⁉️

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   オルセー美術館のフランソワ・ポンポンの代表作「白熊」である。大変失礼な話がだが、フランソワ・ポンポン!私は初めてその名を聞いたとき、頭の中の連想ゲームで 「フランスの狸」 を思い浮かべてしまった。  如何にもフランス人に多く居そうな名前の「フランソワ(※1)」と、「ポンポン」が「ポンポコ(※2)」になって合体したのだろう。  でも、この「フランスの狸」さん、狸こそ造っていないが、野生動物が得意である。大変遅咲きの作家で、60歳を超えてもロダンの工房で助手をしていた。ロダンが亡くなった後、独立し67歳にしてこの「白熊」を発表、一気にブレイクする。  独立から亡くなるまでの10年間で、多くの野生動物(鹿・フクロウ・ペリカン)をモチーフにした作品を発表し、今も世界中のファンに深く愛されている。  興味深いのが、ロダンとの関係である。助手をしていたのに、その作風が全く異なる。   ロダンの作品が、写実主義をベースにしつつも、力強く情熱的であるのに、ポンポンの作品は単純化され、流麗なラインでクールな(白熊だからではない)印象だ。モダニズム彫刻の頂点と呼ばれている。  そして自らの作品を自らの死後、どの様に管理して行くのかも、二人の考え方は全く違った。  ロダンは遺言で自らの作品の死後鋳造に積極的だ( リンク1 )。自らの死後も作品が増殖し、世界に広まって、多くの人に見て欲しいと考えたのであろう。  一方、ポンポンは違った。遺言で死後鋳造を厳禁した。そもそも、自らの死後、自分が関わることがまるで無く鋳造された作品を、自分の作品として認めることなどあり得ないと考えていたのだろう。     そんなポンポンが厳禁した死後鋳造作品が、日本で大量に発見される事件があった。  2001年に開館した群馬県立館林美術館(以下館林美術館)は、約3億5000万円かけて104点のポンポン作品を購入した。ところが、その後その104点のうち3点が制作者不明!34点が死後鋳造!であることが、 オルセー美術館の調査 で発覚したのだ。  すぐに、マスコミや群馬県議会が反応した。「税金の無駄遣い!」と館林美術館を強く非難した。当時はポンポンのことを殆ど知らなかった私も、同じ様に「公立美術館であるならば、もう少し慎重に購入すべきだろう」と感じていた。  でも、今、改めて調べてみると、少し事情が違うよ...

四長、パリへ行く‼️(11)オランジュリー美術館〜モネの睡蓮❗️世界を征す⁉️

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  パリのオランジュリー美術館である。「オランジュリー」とは「オレンジの温室」の意で、元々は此処がテュイルリー宮殿の温室であったことに由来する。  朝早くから、美術館の前は長蛇の列、並ぶ人達の目的は一つ、クロード・モネの絵画「睡蓮」の連作の 部屋! (※1)を見ることだ。そう 部屋! だ。彼ら単にモネの睡蓮の絵を見るのでは無く、360度、壁の四方を巨大な睡蓮の連作が囲む楕円形の 部屋 を見るために、世界中から訪れているのだ。  私にはずっと疑問があった。「オランジュリーのこの 部屋 は、先に 部屋 があって、その壁にモネが睡蓮を描いたのか?それともモネの睡蓮の連作に合わせて、この 部屋 を造ったのか?」と言う疑問である。  何と正解は、モネの睡蓮の連作が先にあり、それに合わせてこの 部屋 を後から造ったと言うのだ。 まるで絵に合わせて額縁を作る様に、 部屋 と言う巨大な額縁を造ってしまったのだ(そしてその 部屋 には、天井から自然光まで柔らかく差し込ませた)。 時(1927年完成)の政府❗️が、フランス‼️が、、、  ちょっと、モネを特別扱いし過ぎたのでは?と、どちらと言えばマネ贔屓の私は思う。でもモネへの特別扱いはこれだけではない。  当時は死後にしか、作品が収められることが認められてはいなかったルーブル美術館に、モネだけは生前に10点もの作品が所蔵されたのだ。  確かに、モネは彼が描いた「印象・日の出」が、印象派の名の由来ともなった印象派の代表画家である。でも印象派のリーダーと言われるのは、あくまでマネだ。他にルノアールだって相当頑張っていたはずだ。私は美術界への貢献は、マネもルノアールも、モネとそんなには違わない気がする。 オルセー美術館の「バティニョールのアトリエ」(アンリ・ファンタン=ラトゥール作)、「印象派の肖像画」と言われる。中心で絵筆を持つのはマネ!モネは言えば、右端に遠慮がちに立っている。  特別扱いの理由はモネの実績・画力の他にあった。モネには贔屓してくれる大親友がいたのだ。その名はジョルジュ・クレマンソー!(※2)  フランス第三共和制の第40代・第53代と首相を2期務め、第1次世界大戦でフランスを戦勝国に導いたと言われる大政治家だ。ジャーナリストでもあり、政界・言論界に絶大な権力を持っていた。  モネとの親密さも尋常ではない。白内障になり、...

四長、パリへ行く‼️(10)ルーブルで「モナ・リザ・ディスタンス⁉️」を考えた。

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これ以上近づけなかった。   「モナ・リザ」である。イタリアの画家レオナルド・ダヴィンチが描いた油彩画、世界で最も知られた美術作品である。  現在はフランス、パリのルーブル美術館に常設展示されている。普通、常設展示されていると聞くと、簡単に鑑賞出来る様に感じるが、そんな簡単では無い。  特に日本からルーブルを訪ね「モナ・リザ」を鑑賞するハードルは、随分と高くなってしまった。  先ずは何と言っても円安だ。それとイラン紛争と重なって、燃油サーチャージも急高騰!パリに着くまでの経済的負担は大きくなった。  また、パリ迄辿り着いても、ルーブル美術館に入るのも一苦労だ。チケット購入は随分前から予約購入しなければならず、昨年10月の宝飾品盗難事件以降、セキュリティチェックは厳重を極めている。時間的負担も馬鹿にならない。  そして、「モナ・リザ」までの最後のワン・メートル!このワン・メートルを縮めるのは、もう不可能に近い。  冒頭の写真を見て欲しい。「モナ・リザ」の前はバーゲンセール並み(表現が古いか?)の大混雑!正に黒山の人集りだ。その上ほぼ全員がスマホで写真撮影(含む自撮り)するために大渋滞!だ。  ガイドさんは「遠慮したらダメです。群衆を掻き分け突っ込みましょう!」と少し無責任に私を鼓舞する。しかし、元来気の弱い私は、「写真撮影を邪魔したと外国語で文句を言われたら、どうしたらいいのだ?」「後ろから押されて転倒したら、取り返しがつかない!」と次々と心配事が脳裏を掠めてしまう。泣く泣く断念した。 冒頭の写真の距離からの撮影、ピンボケご容赦だけど、やっぱり微笑みは謎めき、魅惑的だ。   そんな「モナ・リザ」、現在は門外不出だ。もう50年以上ルーブルから出ていない。でも、それ以前には3回だけ海外で展示されたことがある。冷戦時代の米国❗️とソ連❗️、そして日本‼️だ。  時の総理大臣・田中角栄がフランス・ポンピドー大統領と会談、1974年の東京・上野、東京国立博物館での「モナ・リザ」の展示会を決めた。    世界で3カ国だけの開催!角栄の剛腕(※1)もあったろうが、やっぱりフランス側に、日本の強い経済力への大きな期待があったのだろう(円も当時世界最強通貨だった)、、、それに比べると今の日本は、、、残念ながら、これから、もう「モナ・リザ」が来日することは無いかもしれない、、、そ...

四長、パリへ行く‼️(9)コンシェルジュリー❗️〜マリー・アントワネットの最後の密会場所は此処だ⁉️

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 パリ・シテ島にある「コンシェルジュリー」の中庭である。低層階の窓をよく見ると、鉄柵が嵌められており、昔、此処が牢獄であったことが一目瞭然だ。  此処に収容された最も有名な囚人と言えば、日本でも繰り返し上映される伝記的映画の数々、そして何より池田理代子作の漫画!それを舞台化した宝塚歌劇の「ベルサイユのばら」!!で大人気の「マリー・アントワネット」(以下「彼女」)だ。  私は此処に来る迄、彼女は夫であるフランス国王のルイ16世と、一緒に、同じ日にギロチンに掛けられ処刑されたと思い込んでいた。  でも、事実は大きく異なった。彼女は夫より8ヶ月も長く生きたのだ。そして最後の2ヶ月半は此処「コンシェルジュリー」で暮らした。  またその時彼女には頻繁に訪れてくれる人物がいた。これも「ベルサイユのばら」で大人気!彼女の不倫相手のフェルゼンだ。  フェルゼンは彼女を此処から救い出すため、様々な外交戦(彼女の実家オーストリアのハプスブルク家の力を借りたり等々)を展開する。  最後には脱獄さえも画策する(この中庭で二人が密談した内容が、 看守(※) からロベスピエールに密告され、ロベスピエールは激怒したと言う)が、、、悉く失敗する。 コンシェルジュリーの廊下、この廊下を歩いてマリー・アントワネットは断頭台に向かった。 彼女の他にもフランス革命の旧体制派の王族・貴族たちが収容され、2700名以上が処刑されたと言われている。その為「死の廊下」「ギロチンの控えの間」と呼ばれた。    そして、フェルゼンの奮闘も虚しく、彼女は1793年10月16日、断頭台の露と消えた。  彼女は、我儘、浪費家、浮気者等々マイナスイメージの形容詞に事欠かない人だった。  しかしその日、コンシェルジュリーの廊下を歩き、断頭台へ向かった彼女は、髪を切り、簡素な衣装で身を整え、しっかりと胸を張っていた。  取り乱すこと無く堂々として、気品さえ感じさせたと言う。 今尚、世界中に彼女のファンが絶えないのは、この「最後の潔さ」にあると思う。 シテ島の「パレ・ド・ジャスティス」、コンシェルジュリーはこの敷地内にある。最高裁判所、パリ控訴院、パリ重罪院、検察局、弁護士会など主要司法機関もこの周辺にあり、今でもシテ島はフランス司法の中心である。 (※)コンシェルジュリーとは、コンシェルジュたちが居る場所の意味。この場合のコンセ...

四長、パリへ行く‼️(8)シャルル・ド・ゴールは永遠の『ル・ジェネラル』なのだ⁉️。

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  シャルルドゴール空港、搭乗手続き中のガラス越しの一枚、ガラスに屋内が反射して写っている。空港でのショットはこれのみのため、ご容赦!   シャルル・ド・ゴール空港❗️フランス・パリの空の玄関である。  空港の名に冠された「シャルル・ド・ゴール」は、言わずと知れたフランス第五共和制に於ける初代大統領である。  彼は、第2次世界大戦、ナチス・ドイツに占領された祖国を救うため、イギリスの支援を求め出国した。そしてロンドンに「自由フランス政府」を樹立!連合国軍・フランス国内のレジスタンスと共闘しパリを奪還した。  フランス救国の英雄であり、フランスで単に「ル・ジェネラル(将軍)」とだけ呼べば、彼を指すのだそうだ。  彼の大統領の任期は1959年〜69年の10年間、私の小中学校時代だが、鮮明に記憶している。この「将軍」が本当に「暴れん坊将軍」だったことを、、、    今、世界の外交シーンで「暴れん坊」と言えば、皆が米国のトランプ大統領のことを思い浮かべるだろう。しかし、ド・ゴール大統領!ある部分では暴れん坊度でトランプ大統領の上を行った。  例えばトランプ大統領が度々言及する「NATO脱退」、今のところはトランプ大統領のは脅しで止まっているが、ド・ゴール大統領は1966年、米国主導への反感から実際に脱退してしまった(勿論その後復帰している。唯、現在もNATOの本部がパリではなくブリュッセルにあるのは、その時移転を強いられたからだ)。  また、トランプ大統領のグリーンランド領有宣言に匹敵するのが、ド・ゴール大統領のカナダ・ケベック州の独立宣言だ。  これもトランプ大統領が今のところ口だけに止まっているのに比して、ド・ゴール大統領は1967年、実際にカナダのケベック州のモントリオール市に乗り込んだ。  フランス系の大群衆に向けて「自由ケベック万歳!」と声を上げ、ケベック独立運動の火に見事に油を注いでしまった。    そんなシャルル・ド・ゴール!学生運動を鎮圧した5月革命の評価など、毀誉褒貶は激しいものがある。それでもフランス国民は、基本的に彼のことが大好きだ。誇りに思っている。  長身の彼を「大きなアスパラガス」、そして「ル・ジェネラル(将軍)」と呼び深く愛している。  それ故、1974年に開港した当時フランス及びヨーロッパ最新・最大の国際空港に、彼の名を冠したときも、...

四長、パリへ行く‼️(7)パリ・オペラ座(ガルニエ宮)〜怪人(ファントム)は何処だ⁉️

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  パリの百貨店・ギャラリーラファイエットの屋上から見たオペラ座(ガルニエ宮)である。結構な雨足の中のショットだが、周囲の建物を圧するオペラ座の迫力・存在感は感じて頂けると思う。  今回のパリ行き、決定して真っ先に申し込んだのが、このオペラ座の内部見学ツアーだった。特に劇場の客席部分のシャガールの描いた天井画を見ること楽しみにしていた。    でも予約段階で、今回の見学ツアーでは客席部分には入ることは出来ないと分かり、少なからずテンションを落としていた、、、そして見学ツアー当日を迎えた。 大階段     しかし、オペラ座に一歩足を踏み入れると、一挙にテンションは上がる。正にシーズン・ベスト・テンション!である。  館内は豪華絢爛!の一言である。金ピカ!金の装飾が眩しいくらいである。でも、金ピカと言っても、何処かの国の「金の茶室」とかとは違い、エレガントさは全く失われていない。  落ち着いた大理石の色調とのコントラストで、バロックの壮麗さを演出!芸術の殿堂として格式を存分に伝えている。これからオペラを!バレエを!観るために此処を訪れた人たちは、心地良い高揚感に包まれること間違いない。   ゆっくり館内を回って見て行く、、、小さな照明とかにも全く手抜きが無い、それぞれが魅力的で個性的だ。天井画を見るのと相俟って、ずっと上を見続けていたので、些か首が疲れた。   そして、大休憩室だ。高さが18m、幅13m、長さは何と154m!ある。パリ社交界の応接間と言われる。好き嫌いはあるかもしれないが、ベルサイユ宮殿のガラスの間より、壮麗さではこちらに軍配を上げると言う人も多いようだ。  パリ・オペラ座は、別名・ガルニエ宮と呼ばれる。ガルニエ宮のガルニエは、このオペラ座の建築設計コンペを勝ち抜いた建築家シャルル・ガルニエの名から付けられた。  シャルル・ガルニエは王族ではないが、パリ市民はガルニエ宮と名前の後に「宮」を付けて呼んだ。それはこのオペラ座が単に劇場ではなく、世界中の賓客を応接するに相応しい宮殿であると、フランス革命後のパリ市民たちも、抵抗感無く認識していたからであろう。 大休憩室   さて、此処まで当ブログを読み進めて頂いた皆さん‼️もう一度、このブログのタイトルを確認して欲しい。「パリ・オペラ座(ガルニエ宮)〜怪人(ファントム)は何処だ⁉️」である。  そう怪人!私はこ...

四長、パリへ行く‼️(6)ロダン美術館で、「考える人」の市場原理を考える。

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    パリのロダン美術館の庭にあるオーギュスト・ロダンの代表作「考える人」である。正に本物である。  恥ずかしい話だが、私は昔「考える人」は世界で1体しか無いと思い込んでいた。東京上野の国立美術館の前庭にある「考える人」が、世界で唯一無二の本物だと、、、  それを初めて見たときは感動した。作品の素晴らしさは当然だが、日本の経済力に感動した。だってロダンの最高傑作と言われろ「考える人」は勿論、そこには「カレーの市民」!も「地獄の門」!もあったのだ。  彫刻界の巨人のロダンの主要作品を日本は買い占め、独り占めしている。日本の経済力(円高でもあった)は世界一だと、、、 庭側から見たロダン美術館本館、貴族の館風である。   だが、時が過ぎるとその感動は脆くも崩れてくる。何か「考える人」!京都にも名古屋にもあるのだ。そして静岡にも、一体どうなっているんだ!(パンダが日本には上野しかいないと思っていたのに、和歌山(白浜)にも数頭いると知ったときの驚きに似ている)  そのうち、日本だけではなく、アメリカにもメキシコにもロシアにも、そして台湾にもいることを知った。何と世界中に「考える人」は、26体!(日本には6体)もあったのだ。 庭から見えるアンヴァリッド、最高の借景である。   冷静に理屈で考えればはわかる話だ。「考える人」はブロンズ像(銅像)だ。大理石像(「ミロのヴィーナス」や「サモトラケのニケ」)や木彫(日本の運慶・快慶の作品群)ではない。型に高温で溶かした銅を流し込めば、何体でも出来てしまうのだ。  でも極めて世俗的な私は考える。何体造るのかってのは、経済的には結構難しい判断だ。沢山造れば、それだけお金が入ると言う単純なものではない。沢山造れば、作品の希少価値が損なわれ、作品の値段が、どんどん安くなってしまうのでは、、、  サザビーのようなオークションの仕組みは知らないが(ヤフー・オークションの仕組みは知っている)、当然市場原理が働くだろう。私の少し齧っている株式市場に置き換えればよくわかる。普通増資(株数増)すれば、株式は希薄化し株価は下がる。自社株買い(※1)などで株式数を減らせば、市場は好感して株価は上がるのだ。 庭には「カレーの市民」も鎮座している。   ここは創作者(ロダン)も専属の鋳造職人(ファウンドリ・リュディエ(※2))も真剣に考えただろうと思う。...

四長、パリへ行く‼️(5)パリは燃えているか?

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  早朝のパリ、ホテル「プルマン・パリ・モンパルナス」の部屋の窓ガラス越しに撮った写真だ。  パリは高層ビルが少ない。ホテルの東側の窓からは、遮るもの無くパリの街を一望出来る。よく見るとドーム型の建物が二つ見える。左端がパンテオン、中央がサルベトリエール病院だ。  でもこのショットの一番の主役は、何といっても朝焼けだ。見事に空一面を朱色に染めている!燃えている!少し不気味なくらいだ。「 パリは燃えているか? 」そんなフレーズも頭に浮かんだ。  「 パリは燃えているか? 」1966年の米仏の合作映画だ。米国からはカーク・ダグラス、オーソン・ウェルズ、グレン・フォード、仏国からはジャンポール・ベルモンド、アラン・ドロン、イヴ・モンタン等々出演していた。正にオールスターキャストの映画だ。その上監督はルネ・クレマン、脚本はフランシス・コッポラと豪華版だ。 上の写真の五分くらい前、時差とサマータイムで時刻が定かではない。   映画は、第二次世界大戦終盤、既に敗色濃厚のナチス・ドイツ、パリ占領軍司令官のコルティッツにヒトラーから、「撤退する時は、パリのありとあらゆる工場・橋梁・地下水道、そして歴史的建造物に爆弾を敷設して、パリの街を焼き尽くせ!」と命令が下るところから始まる。  最終的にコルティッツはその命令を拒絶し、連合国側に無条件降伏するのだが、それに至るまでの軍事・外交・政治・心理の攻防が凄まじい。それを丁寧に描いていた。今見たら結構興味深い内容だと思うが、如何せん当時は12歳!中学生の私には少し難し過ぎた。   でも、最後のシーンだけは今でも鮮明に記憶している。ドイツ軍のパリ占領司令部内で、打ち捨てられた電話受話器から声が聞こえていた。ヒトラーの声が、、、「パリは燃えているか?」と、、、 同じ窓から、午後4時くらいのショット。   しかしながら、改めて思う。ドイツの司令官がコルティッツで良かったなと、、、コルティッツはヒトラーの命令を実行して、パリを破壊し歴史に汚名を残すことを拒否したのだ。  これがもし、ヒトラーの絶対的なイエスマンだとしたらどうだっただろう。80年後の今、目の前の美しいパリの街並みが、フランスの文化が文明が、全く別のものになっていたかもしれない。 北向きのショット、ビルの谷間から、パリで一番標高が高いモンマルトルの丘が見える。   そんなちょっぴり感...