《写真短歌》四長、鶴ヶ城の堀割り見下ろし、「荒城の月」を口遊む。(福島吟行6)
昨日に続き、会津若松・鶴ヶ城の話だ。城の本丸の端で石碑を見つけた。土井晩翠の「荒城の月」の歌碑である。
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鶴ヶ城本丸・土井晩翠「荒城の月」歌碑 |
「荒城の月」は、土井晩翠・作詞、瀧廉太郎・作曲の歌曲。日本で作曲された最初の西洋音楽の歌曲である。私はこの歌のモデルとなった城は、大分県竹田市の「岡城(址)」だと思い込んでいたので、此処「鶴ヶ城」でこの歌碑を見つけたとき少し驚いた。
調べてみると、全国に「荒城の月」のモデルと言われる城は幾つもある。そしてそれは大きくは二つに分類できる。「作曲者・瀧廉太郎に縁ある城(瀧派)」と「作詞者・土井晩翠に縁ある城(土井派)」だ。例えば、瀧派の城としては前述の廉太郎の郷里、大分県竹田市の「岡城」や、少年時代を過ごした富山県・富山市の「富山城」が「我こそモデルなり」と名乗りを挙げている。
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富山県富山市「富山城」 |
モデルと言われることで、その城がその土地の観光資源となるのは結構なことだ。私は幾つの城が名乗りを挙げようと、全然ありだと思っている。お好きな様にお名乗りください派である。でも、もし、人から貴方が一つだけ選びなさいと言われると、少し違ってくる。此処に来るまでは、「岡城」と思っていたのに、少し違ってくる(変節甚だしだ)。瀧派の「岡城」「富山城」には申し訳ないが、私は土井派の城たちに軍配を挙げたい。
何故と問われれば、答えはシンプルだ。この歌曲は「詩先」なのだ。先に文部省が中学生唱歌として、土井晩翠のこの詩を示し旋律を公募した。それに瀧廉太郎が応募したのだ。廉太郎が曲を作る前に、既に城のモデル・イメージは存在していたのだ。
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会津若松市「鶴ヶ城」 |
一方、土井派でも、複数の城が手を挙げている。土井晩翠が今でいう「城オタク」で、全国の城を旅していたからだろう。旅先でリップサービスし、「此処の城がモデルです」なんて言っていたかもしれない。でも有力なのは、晩翠の郷里・仙台の「青葉城」と、此処、会津若松の「鶴ヶ城」だ。さあ、どっちだ!ファイナルアンサー!私は、此処「鶴ヶ城」と答えたい。(仙台堀日記だが)
もちろん「青葉城」は、晩翠の故郷の城、晩翠のイメージに入っていないはずがない。唯、より強くイメージし、モデルとしたのは此処「鶴ヶ城」だと思う。まず時代背景だ。この時代、戊辰戦争で旧幕藩体制が終焉し、廃藩置県や廃城令が出され、「荒城」が全国で出現する。
そして、その中で長期に亘る籠城戦のために、圧倒的に!完膚なきまでに!「荒城」とされたのが「鶴ヶ城」だった。私は、同じ奥羽越列藩同盟に属しながら、戊辰戦争の戦火を見ることなく解体された仙台藩「青葉城」よりも、悲劇的な最後を迎えた会津藩「鶴ヶ城」に、土井晩翠はより心を惹かれたと思う。如何?
蛇足の蛇足、「荒城の月」、私は土井晩翠は、最初この歌詞を五言絶句(押韻は無視)で考えたに違いないと思っている。
「春紅楼花宴 巡回盃差影 千代松分出 昔光今何処
秋陣営霜色 鳴征雁数見 植刀剣照添 昔光今何処」
見事な起承転結だ。