《写真短歌》四長、鶴ヶ城を見上げ涙ぐむ。(福島吟行5)


  会津若松市の鶴ヶ城である。秋の鱗雲に天守を突き刺さすように聳えている。前にこのブログで何度も書いてきたが、私は尾張名古屋の出身。「尾張名古屋は城でもつ」と言われるくらいで「お城」との縁は格別だ。その城フェチの私でも、最近まで知らなかった話。「名古屋城と鶴ヶ城は兄弟分である」という話だ。何故なら「天守閣の最上部の屋根にある鯱鉾が兄弟分」だからだ。

 名古屋城と鶴ヶ城、二つとも戦火で天守閣が燃え落ちた。名古屋城は名古屋大空襲、鶴ヶ城は戊辰戦争によって完全に消失したのだ。戦後、二つの城はコンクリートで再興される。たまたま同じゼネコンに。そのゼネコンのトップは考えた。折角、自分の会社が再興する二つの城、何か関連性を持たせたいと。そこで着目したのは名古屋城の金の鯱鉾だ。「鶴ヶ城にも鯱鉾をつけるのは如何だろう。名古屋城が金なら、鶴ヶ城は銀だ。お城の世界の『金閣』『銀閣』だ。」、でも流石に会津に費用を請求することは出来ない。ゼネコンのトップは、気前良くポケットマネーで銀鯱鉾(ダイヤモンドの目も付けた)を寄付をした。

 実は名古屋(尾張藩)と会津(会津藩)、江戸時代においては兄弟分とは言えないが、間違いなく親戚だ。尾張藩は徳川御三家、藩祖は家康の九男義直。一方、会津藩は藩祖は保科正之。正之は二代将軍・秀忠の隠し子で、三代将軍家光の弟だ。藩祖同士は叔父甥の関係で、ともに徳川一門として将軍を支える立場にあった。でも、この二藩、全く気質が違った。

  尾張藩の気質を一言で言えば「ドライ」。自分の中で理屈付けが出来れば、上司にも気を使わないし、時に上司とは、別の判断をしたりする。尾張藩七代目の徳川宗春は、将軍吉宗が享保の改革で緊縮財政を施く中、真逆の積極財政策を採ったりした。幕末の尾張藩の行動に至っては、「ドライ」そのものだ、戊辰戦争で将軍慶喜側が不利と判断すると、いち早く薩長側についたのだ。

 一方で会津藩の気質と言えば「律儀・忠節」だ。藩祖保科正之は、自分が隠し子にも関わらず、取り立ててくれた将軍家光の恩に報いることを、会津藩の存在意義とした。自分だけでなく子子孫孫まで、将軍家と運命をともにすることを藩是の第一としたのである。その藩是は幕末の藩主・松平容保にもしっかり(かなりバージョンアップされて)伝わる。そしてその律儀・忠節が会津藩を戊辰の悲劇に導く。鶴ヶ城の籠城戦、飯盛山の白虎隊の集団自刃等々だ。

 ドライで典型的な名古屋人である私は思う。歴史にイフは無いが、幕末の色々な局面で、会津藩も、「ドライ」は無理でもせめて「要領良く」立ち回ることが出来たのではと、、、でも、それも無かったな、、、会津藩主松平容保に、会津藩士に、「要領良く」も似合わない。

東京から来ると会津の空は本当にデッカイ、そのデッカイ空を突き抜く鶴ヶ城の天守を見上げれば、旅人の私でさえ、何か涙ぐましい気持ちになる。地元会津の人たちの矜持は、幼い頃からこの光景を眺めることにより育まれたに違いない。



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