《写真短歌》四長、西域を語る(6)「大谷光瑞・大谷探検隊(後編)」

  昨日の前編(リンク)の最後に、大谷探検隊の西域大探検の資金調達に私「四長」の祖先が、少し(ほんの少し)関連しているのではと書いた。何をバカなことをと皆さん思うだろう。その通りバカな話、私の頭の中で作り上げた妄想の類いの話だが、一応、順序立てをして整理したので、下の説明を読んでくれると嬉しい。こんなストーリーだ。

1. 私の雅号「四長」は、「長学・長遊・長楽・長生」の「四長」の他に、私の曽祖父である「初代、長左衛門」から数えて、私が四代目に当たるので「四代目、長左衛門」、略して「四長」の意があると前(リンク)に書いた。その初代長左衛門は「尾張名古屋の台所」と言われた「枇杷島市」で広く青果商を営み、明治期〜昭和初期の経済人・文化人と交遊した。

2. その文化人の中で、最も親しく接したのが、大口鯛二(周魚)だ。周魚は同時期の代表的な歌人であり、宮内省御歌所寄人(明治天皇の和歌の先生)。また書家で、日本の書道史研究の第一人者であった。周魚は枇杷島市の近くの生まれであり、上京前、後に「初代長左衛門」が支援・後援をしていたことが、残された書簡から窺える。(その為か、我が家には周魚からの様々な御礼の品が残されている。現在、それらの品々は「成田山書道美術館」に預託してある。)

大口周魚から初代長左衛門に贈られた菓子器

3.  周魚の数ある業績の中で、最も華やかなものに「西本願寺本三十六人家集」(三十六歌仙の和歌を集めた日本最古の装飾写本・国宝に指定)の発見がある。この世紀の発見は1896年、浄土真宗本願寺派第21代法主大谷光尊から依頼を受け、周魚が寺の庫裡を調査する中で起きたものだが、その後、周魚の学界・書道界への一大功績と呼ばれるものになり、今も語り継がれている。

4.   時、正に日本仏教史上最大の逆風、廃仏毀釈運動の嵐が吹き荒れていた時期である。大谷光尊法主は、この世紀の発見を日本仏教再興に繋げるプロジェクトの企画策定を、ロンドン留学中の息子、後に第22代法主となる大谷光瑞に命じた。

5   命を受けた大谷光瑞が、ロンドンで企画したプロジェクトは概略、次の通り。①「西本願寺本三十六人家集」の一部を財界人(これも周魚が当時財界大立者にして大茶人益田鈍翁に周旋を依頼)に売却、資金化する。②その資金を持って「大谷探検隊」を編成して、当時まだ国際的にもブラックボックスであった西域(シルクロード)を徹底的に踏破・調査する。③その中で、仏教がインドから中国・朝鮮・日本へと伝わった道を明らかにし、学術研究として国際的な評価を受ける。④その評価を持って日本政府に仏教の宗教的価値を知らしめる。と言う壮大なものであった。

6.  大谷光瑞は、この計画を見事実行に移した。大谷探検隊の西域遠征は3次に及び、第1次遠征には弱冠25歳の光瑞が自ら隊長として参加した。探検隊の赫赫たる成果は昨日ブログ掲載の前編に記した通りである。

 今我が家に、一通の封筒が伝わる。

現在は「成田山書道美術館」に預託

 大谷壽子、大谷光瑞夫人(皇后の姉君)から大口周魚への手紙の封書(朱書きは周魚による)である。上の1で書いた通り、大口周魚は多くの掛け軸や色紙を、支援への礼として我が家に残してくれた。その中には、彼が当時、交流していた文化人・財界人からの封筒(中には便箋が入ったものも)もある。

 想像だが、周魚は帰名時、そうした封筒などを手に、自分の活躍を初代長左衛門に、報告・説明していたのだろう。そして、この大谷光瑞夫人の封筒の時は、自分の世紀の大発見のお陰で実現した大谷探検隊の話を、私の曽祖父・初代長左衛門に聞かせていたのではないかと思う。そして曽祖父もそれを聞いて、たいそう興奮していたのではないかと、、、そう想像するだけで、私も興奮する。私の西域フェチは、きっとDNAも影響している。

※参照

 四長、西域を語る(1)「井上靖・敦煌」(リンク)

 四長、西域を語る(2)「田村能里子・風河燦燦・三三自在」(リンク)

 四長、西域を語る(3)「NHK特集・シルクロード・楼蘭を掘る」(リンク)

 四長、西域を語る(4)「久保田早紀・異邦人」(リンク)

 四長、西域を語る(5)「大谷光瑞・大谷探検隊(前編)」(リンク)


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