《写真漢詩》ピカソの時代(5)レオナール・フジタ『夢』
写真は、藤田嗣治(レオナール・フジタ)のモノトーン版リトグラフ「夢」である。戦後フジタは日本を捨てた。GHQや戦後の美術界から軍部への協力の責任を追求されたのが原因と言われている。(確かに、フジタは森鴎外の後任の陸軍軍医総監であった父の関係筋から依頼され、戦時中、陸軍美術教会理事長を務めた。そして所謂「戦争画」も描いてはいた。唯、その戦争画の中でも「アッツ島玉砕」などは戦争の悲惨さ・残忍さを極限まで描いており、ピカソの人間の愚かさ不条理を描く「ゲルニカ」に通ずるものがある。軍部が期待していた戦意昂揚の対局にある絵であったことは間違いない。) 傷心を抱え渡仏したフジタを迎えたパリの美術界の反応も冷たかったようだ。エコール・ド・パリの時代をフジタと過ごした親友の画家たちの多くは既に亡くなっており、フランスのマスコミは彼のことを「亡霊」と呼んだ。そんな中、渡航前からあれこれと親身に世話をし、彼のことを温かく迎えれた人物が一人だけいた。パブロ・ピカソその人である。ピカソはフジタに先ずは経済的な安定が必要であるとして、画商スピッツァーを紹介し、リトグラフの製作を勧めた。そうして完成したのが、この1947年モノトーン版の「夢」(75部)と翌1948年のスピッツァー版の「夢」(250部)である。 その「夢」のモノトーン版リトグラフが、現在我が家のリビングにある。リトグラフであり且つモノトーン版であるので、フジタを一躍パリの寵児とした「フジタの乳白色」を味わうことは叶わない。しかし繊細なデッサンで描かれた女性は艶かしく魅力的だ。周りを取り囲む動物たちも怪しげだが、何処か可愛げもあり憎めない。気に入っている。漢詩も自然に降りてきた。 実は、この漢詩は、私が初めて作った五言律詩だ。漢詩を始めたばかりの頃で、絶句(四行詩)を作るのがやっと、律詩(八行詩)なんて永遠に無理と思っていた。それがフジタのお陰で、割とすんなり詠むことが出来た。不思議な現象が起きたのはその日の晩だ。律詩第一作の完成祝いということでに、このリトグラフの美女を眺め、一人赤ワインを傾けていたときだ。なんとモノトーンの絵の美女の肌がだんだん乳白色に変わる。そして美女は寝返りを打ち顔を私に向けた、、、、 翌朝、家人にその状況を話して聞かせても、「あなたは『夢』を見たのだ」と相手にしてくれない。