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《写真漢詩》ピカソの時代(5)レオナール・フジタ『夢』

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   写真は、藤田嗣治(レオナール・フジタ)のモノトーン版リトグラフ「夢」である。戦後フジタは日本を捨てた。GHQや戦後の美術界から軍部への協力の責任を追求されたのが原因と言われている。(確かに、フジタは森鴎外の後任の陸軍軍医総監であった父の関係筋から依頼され、戦時中、陸軍美術教会理事長を務めた。そして所謂「戦争画」も描いてはいた。唯、その戦争画の中でも「アッツ島玉砕」などは戦争の悲惨さ・残忍さを極限まで描いており、ピカソの人間の愚かさ不条理を描く「ゲルニカ」に通ずるものがある。軍部が期待していた戦意昂揚の対局にある絵であったことは間違いない。)   傷心を抱え渡仏したフジタを迎えたパリの美術界の反応も冷たかったようだ。エコール・ド・パリの時代をフジタと過ごした親友の画家たちの多くは既に亡くなっており、フランスのマスコミは彼のことを「亡霊」と呼んだ。そんな中、渡航前からあれこれと親身に世話をし、彼のことを温かく迎えれた人物が一人だけいた。パブロ・ピカソその人である。ピカソはフジタに先ずは経済的な安定が必要であるとして、画商スピッツァーを紹介し、リトグラフの製作を勧めた。そうして完成したのが、この1947年モノトーン版の「夢」(75部)と翌1948年のスピッツァー版の「夢」(250部)である。  その「夢」のモノトーン版リトグラフが、現在我が家のリビングにある。リトグラフであり且つモノトーン版であるので、フジタを一躍パリの寵児とした「フジタの乳白色」を味わうことは叶わない。しかし繊細なデッサンで描かれた女性は艶かしく魅力的だ。周りを取り囲む動物たちも怪しげだが、何処か可愛げもあり憎めない。気に入っている。漢詩も自然に降りてきた。   実は、この漢詩は、私が初めて作った五言律詩だ。漢詩を始めたばかりの頃で、絶句(四行詩)を作るのがやっと、律詩(八行詩)なんて永遠に無理と思っていた。それがフジタのお陰で、割とすんなり詠むことが出来た。不思議な現象が起きたのはその日の晩だ。律詩第一作の完成祝いということでに、このリトグラフの美女を眺め、一人赤ワインを傾けていたときだ。なんとモノトーンの絵の美女の肌がだんだん乳白色に変わる。そして美女は寝返りを打ち顔を私に向けた、、、、  翌朝、家人にその状況を話して聞かせても、「あなたは『夢』を見たのだ」と相手にしてくれない。

《写真漢詩》アヒルは空を飛べるか?

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   江東区は「水彩都市・江東」を標榜し、その具体的活動として「運河ルネサンス」(2月28日のブログ記事「運河ルネサンス」も見てくれると嬉しい)を展開している。その「運河ルネサンス」の中で颯爽と登場したのが、この水陸両用バスだ。   上の写真が、その水陸両用バスだが、なかなかの人気者だ。特に陸から海へ飛び込む瞬間は、エキサイティング!大いに盛り上がる。名前はバスの横面に書かれた通り「スカイダック・SKY Duck」だ!  オイオイ、ちょっと待てよ!なんでよりによってスカイなんだ。アヒルは陸の上を走るし、泳ぎも得意だ。でも空は飛べない(鳥だけど、、)。区役所に電話しようと思ったが、なんとか思い止まった。う〜ん、暫くすると私の頭の中で、色んな意見が交わされる。  A氏「これは意外と深い意味がある。禅問答(公案)だよ。『空飛ぶアヒルとは、これ然り?』ってなものだ。」  B氏「イヤイヤ、これはもっと挑戦的なネーミングなんだ。不可能を可能にする、ブレークスルーだよ。近い将来、このバス自体を空へ飛ばすのさ、既成概念をぶっ飛ばす江東区の象徴なんだ。」  C氏に至っては「二人は知らないだろうけど、アヒルは本当は飛べるんだ。僕は見たことある。数メートルだけど、、パタパタと、、本気を出せば空も飛べるかも」  最後にD氏が冷静に言った。「みんな、ちょっと考え過ぎさ。もっとシンプル!響だよ響き!スカイダック!イイ響だ。この名前が浮かんだ瞬間、担当者も上司もアヒルが空を飛べないことを忘れていただけさ、、、」  私は断然、D氏の意見に賛成だ。そんな論争を横目に、今日も「空飛ぶアヒル」は春本番の運河を屈託なくスイスイと泳いで行く。良いネーミングだったかもしれない。漢詩も降りてきた。

《写真短歌》マイボタニカルライフ(5)(再生ガジュマル)

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   ガジュマルである。非常に安定感のないガジュマルである。理由は、このガジュマルの低層部分が一度枯れたことにある。その時は、本当にダメかなと思った。諦めて棄てようかなとも。でもよく見ると、すっかり葉を落とした茎の先っちょに新芽のような緑色の部分があった。棄てるのはいつでも出来る、もう少し面倒を見てみようと思い直した。それから、我ながら根気良く、丁寧に育てた。水遣りは、遣り過ぎにならないように、適度な間隔をキープ。液肥も百円ショップで買って与えた。そして暫くすると、次々に新芽が出てきて、今のような状況まで再生させることが出来た。   再生か、どこかで聞いたことのある響き。再生といえば、故野村克也監督だ。野村監督は、南海、ヤクルト、阪神、楽天と監督としてチームを率いた。でも最初から強かったチームは一つもなく、大抵は最低の状態で引き受けたチームを優勝を争うチームに変えていった。そして野村監督の真骨頂と言えば、「野村再生工場」である。選手を再生させる手腕に長けていた。他所のチームをお払い箱になった選手や、そのチームで2軍に落とされ燻っている選手を見つけて、長所を探し、ワンポイントレッスンで再生させるのである。  似ているな。私も一度枯れそうになった植物たちを再生させるのは得意である。もっと言えば、現在の事務所のボタニカルメンバーは、皆んな一度は危機に陥っている。皆んなそこから私が立ち直らせたのだ。それも我がチームには、そんなに高価なメンバーはいない、野球で言えばドラフト外の選手ばかりである。 「そうか、ボタニカルライフ界の野村監督か、、」と一人悦に入っていたときだ。目の前のガジュマルが何か囁いたような気がした。「初めに枯らしかけたのは誰だ!」と、、、空耳に違いないがぐさりと胸に刺さった。そして瞬間、野村監督との決定的な違いを明確に認識した。もう再生自慢はしないと心に誓った。  今回、アルバムから写真を探し出した、2021年入団当時のガジュマル選手(写真左)だ。まだ背は高くないが、濃い緑の葉が密集し力強さを感じる。前途有望な選手であったことは間違いない。この姿を見ると若干胸が痛い。(因みに写真右の選手は早期引退している。)

《写真漢詩・短歌》京都吟行シリーズ(9)ダイアナと修学院離宮

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   ダイアナ妃が、此処修学院離宮を訪れたのは、1986年のことだ、写真を鮮明に覚えている。(写真は此処では掲載できないが、「ダイアナと修学院離宮」で検索すれば、当時の新聞各社の写真が沢山出てくる筈だ。)   当時は想像もしていなかったが、最近見たNetflixの「クラウン」によれば、この時は、もうチャールズ皇太子(現国王)とダイアナ妃の間は微妙どころか険悪だったようだ。そう思って当時の写真を見ると、常に二人の間に入って離宮を案内している浩宮さま(現天皇)の表情も少し複雑だ。結構難しいお役目だったんだと、今更ながらお察し申し上げた。   私も、今回何十年ぶりに修学院離宮を訪れたが、やはり感動は大きかった。年齢を重ねたせいもあるが、一つ一つ目に映る風景が心に沁みる。日本の王朝文化の粋であるし、借景を含めて離宮のスケールの大きさは、わが国に於いては他に類を見ないものであろう。(行ったことが無いので想像だが、イギリス王家の所有する別荘にも、スケール感(あくまで感)でも遜色無く、雅さに於いては此方が優っているだろうと、日本人の私は思う。)荒んでいたダイアナ妃の心にも、日本の美が沁みたのではないだろうか。   もう一度、当時の写真を見た。流行のスーツ姿の現国王と現天皇はお若い、でも現在の歳を重ねて、貫禄もついたお二人の姿もついつい頭に浮かんでしまう。一方で白地に大きな赤の水玉のワンピース(おそらく日の丸を意識)を着たダイアナ妃は、その圧倒的に優雅なお姿以外は何も浮かばない。白地に赤という派手な配色も、彼女が着れば、修学院離宮の静謐な空気の中で、一番相応しい色にも見えてくる。それが少し悲しく切ない。よく耳にする「ダイアナ妃は若くして亡くなってしまったけれど、それで世界の永遠のプリンセスになった。」という表現も、この時は理解できる気がした。

《写真漢詩・短歌》京都吟行シリーズ(8)鞍馬山ワンダーランド

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    鞍馬山はワンダーランドである。叡電の鞍馬駅に着くと、でかい天狗が迎えてくれる。山門を潜り、ケーブルカー(正式名称鞍馬山鋼索鉄道、宗教法人が運営する唯一の鉄道、且つ日本一短い鉄道、改札員が作務衣を着ている鉄道である。)牛若号に乗れば、気分はもうテーマパークである。   多宝塔駅から、急坂を登る。標高も高くなったのか、ところどころに雪も残っている。暫く行くと朱塗りの本殿が見えてきた。本殿の前には魔法陣のような不思議な図形がある。これがパワースポットだらけの鞍馬山の中でも、最高のパワースポット金剛床である。心を鎮め、五感を研ぎ澄まして其処に立てば、全宇宙のエネルギーが我が身に集まる(集まったような気がした)。もう怖いものは無い、漢詩もしっかり降りてきた。   案内書によれば、鞍馬寺の本尊は、『 尊天 』、「毘沙門天」と「千手観世音」と「魔王尊」が三身一体となった凄い奴(失礼)である。因みに「魔王尊」は650万年前、金星から降り立ったもので、人間とは違う元素(炭素ではないということか?)で出来ており、年齢は16歳から歳をとらないとのこと。でも何故16歳なのだろう?大人になりたくないのか?微妙なところで成長が止まったんだな、、と答えを探したが何処にも書いてなかった。  帰り道は、基本下り坂、足取りも軽やかだ。道脇の杉が大木になってくると、其処が由岐神社だ。その中でも一際幹が太いのがこの神社の御神木の大杉だ。仰ぎ見れば、神秘的で大迫力!天狗?牛若丸?イヤイヤ、ひょっとして16歳の「魔王尊」が飛び降りて来るかもと思っていたら、風が吹き、全く別なものが降りてきた。花粉だ!くしゃみが止まらない!宇宙エネルギーも、尊天も、魔王尊も、みんな花粉症には勝てないみたいだ。   明日は、京都吟行シリーズ(2023年3月期)の最終回として、修学院離宮吟行をお届けします。

《写真漢詩》京都吟行シリーズ(7)東寺五重塔初層特別拝観

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 東寺の五重塔の初層(1階部分)内部を見ることが出来ました。東寺開祖の弘法大師空海には大変申し訳ない話ですが、今回の東寺訪問は完全に時間調整のつもりでした。そのため何の下調べも無く訪れることになりましたが、、何と「五重塔初層特別拝観」が、そのとき偶然に開催されていたのです。初層拝観は原則正月3が日と後は特別なケースだけとのこと、そうか、ラッキー!持ってるな俺!って感じで北大門から入りました。(そのときは、まだ軽いノリです。)    でも、塔の内部に入れば、その軽いノリは瞬間吹っ飛びます。そこには驚きの世界が広がっています。極彩色(勿論、だいぶ擦れてはいますが、完成当時の彩色が想像出来る色が十分残っています。)の密教の宇宙(金剛界)曼荼羅の世界です。ところが、これが宇宙曼荼羅であるとしたら、その宇宙の中心にいるはずの大日如来が居ません。塔の大黒柱である心柱を、阿弥陀如来をはじめとする錚々たる諸仏が囲んでいるだけです。説明を聞けば、「何と心柱が、大日如来、ご本尊そのもの」だそうです。  そして、その宇宙曼陀羅を、壁面に描かれた八人の高僧たちが眺めています。八人の中で日本人は弘法大師、空海だけですが、一番イケメンに描かれています、何やら誇らしい気もしました。  その密教世界を読んだのが次の七言律詩の漢詩です。(内部は撮影NGでした。理由は彩色の保護のためでしょう。代わりにはなりませんが、拙い漢詩で内部の様子を描写しました。)  塔の心柱には、もう一つ驚かせられました。今回の特別拝観、本当に特別な大サービスがありました。覗き窓から地層部分を見ることが出来たのです。覗くと心柱と礎石が見えますが、心柱は礎石の上に乗っているだけです。地中深く埋められている姿を想像しますが、本当に乗っているだけです。これが免震構造になって地震の揺れを吸収する、つまり心柱がダンパーの役割をするのだそうです。 (この免震構造は、最古の法隆寺を始め、日本中に、五百数塔あると言われる三重塔や五重塔の多重塔に共通の構造です。そして千三百年の歴史上で倒れた塔は確認されていないとのこと。東寺はその中でも、現在も木造建築物の中で最も高い55mの高さを誇っています。)  凄いぞ東寺五重塔!偉いぞ心柱ダンパー構造!大日如来に相応しい活躍!仏教(密教)のレジリエンスには脱帽です。

《写真漢詩・短歌・俳句》佐伯祐三のパリを旅する

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   今日は佐伯祐三(1898〜1928)の美術展と、彼の作品を見て詠んだ私の漢詩と短歌と俳句をご披露したい。佐伯祐三は日本の洋画界を代表する天才画家であり、残念ながら志半ばで夭折した悲運の画家である。特にパリを描いた彼の作品には今も熱烈なファンがいる。僭越ながら、私もその一人で、複製画も画集も持っている。 我が家のリビングにある複製画   そんな佐伯祐三だが、夭折した画家の宿命か、私はこれまで彼の実物の作品群に出逢う機会に恵まれなかった。でもそんな状況が一変する。22年早春のことだ。佐伯祐三の作品(60点)を中心コレクションとする「大阪中之島美術館」が、彼の地元大阪にオープンしたのだ。大好きな画家の、大好きな絵が、思い立てば見に行ける(逢いに行ける)。彼の作品のホーム(家)が出来た喜び、安心感がじんわりと湧いて来た。この感覚、アートファンにはご理解頂けると思う。コロナ禍ではあったが早速、新幹線に飛び乗り、オープン間も無い大阪中之島美術館を訪問し、佐伯祐三の描くパリを旅し堪能した。その時詠んだ作品がこれだ、   その佐伯祐三の作品群が、今東京に来ている。東京ステーションギャラリーで、4月2日まで開催されている「佐伯祐三 自画像としての風景」展だ。私は2月にこれも訪れ、作品群に約1年ぶりに再会した。美術展全体は東京ステーションギャラリー煉瓦剥き出しの壁と彼の作品群が不思議にマッチ(何故かパリって感じ)、これもアリだと思った。個々の絵の展示も、前途に希望を抱き渡欧した第1期パリと、自分の死期を知り敢えて臨んだ第2期パリの作品、その違いを意識させる工夫が感じられて素晴らしかった。   展覧会の会期はもうあと1週間しか無い。もう予定が調整出来ない!もっと早く言って欲かった!とのご批判ももっともだ。でも大丈夫、「大阪中之島へ行けば逢えます。彼の作品のホーム(家)に逢いに行けば逢えます。」お気に入りの絵、気になる絵に出逢うために、旅をすることは素敵だと思う。(かなり苦しい言い訳であることは承知だが、半分は本気だ。)  明日はまた京都吟行をお届けします。

《写真短歌》京都吟行シリーズ(6)我が人生の天王山(大山崎山荘美術館にて)

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   アサヒビール大山崎山荘美術館である。関西の実業家、加賀正太郎氏が自ら設計した「大山崎山荘」、安藤忠雄設計、クロード・モネの「睡蓮」の連作が納められた地中館「地中の宝石箱」、同じく安藤忠雄設計の新しく竣工した山手館「夢の箱」と魅力満載の美術館であるが、今回で3回目の訪問となる私には明確な目標があった。それは山荘のカフェテラスからの眺望を楽しみながら、ビールを飲むことである。そのビールを美味しく頂くために、美術館のリムジンやタクシーには乗らず、天王山の坂道を徒歩で登った。  カフェテラスからの眺望、それは特別なものである。山荘があるのは豊臣秀吉が明智光秀を破った山崎の戦いで有名な天王山の中腹にあり、目の前には、桂川、宇治川、木津川の三つの川が合流して淀川となる大パノラマが広がる。この大パノラマを見て、アサヒビールのスーパードライを飲み干せば、気分はすっかり秀吉になる。秀吉になれば、我が人生の天下分け目の戦い、天王山は何処なんて、分不相応なことも考えてしまうのである。   自らの平凡なサラリーマン生活に天王山などあるはずは無いが、一応、短歌の如くざっと人生を振り返ってみる。うーん、うーん、やっぱり天下分け目の戦いで、英雄たちの決断が求められるときなど私の人生に無かったなと、気分が急速に萎んだときに、横で悠然とコーヒーを飲んでいる家内の存在に気が付いた。そうか、我が天王山は此処にあったのか。あの40年前のあの決断が人生の最大の選択だったと気が付いた。その瞬間、不思議な納得感と安心感に包まれた。   明日は、一日京都吟行はお休みして、緊急アート編をお届けします。京都吟行は明後日再開の予定です。

《写真漢詩》京都吟行シリーズ(5)萬福寺で精進する。

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   京都府宇治、黄檗山萬福寺に行って来ました。萬福寺は日本の三禅宗の一つ黄檗宗の大本山です。黄檗宗は江戸時代、明の高僧隠元(インゲン豆の名の由来)が、来日して伝えた日本の仏教宗派の中では比較的新しい宗派です。そのためか、大本山である萬福寺は、境内・建物が中国明朝様式の伽藍配置で、禅宗の質実剛健さと、何処か中華街の建物のような設えが同居する不思議な空間でした。 三門、門前に「不許葷酒入山門」の石柱あり。 欄干は中国風の卍崩しのデザイン   今回の萬福寺訪問の目的の一つに、普茶料理(隠元が中国から伝えた「精進」料理)を頂くことがありました。黄檗の駅に着くと早速、萬福寺門前の普茶料理の名店「白雲庵」を訪ね、頂きました。  禅宗では「五観の偈(げ)」という「偈(仏の教え)文」を食前に唱えて頂きます、食事も修行の一つということです。店の解説書を私流に要約すると、「五観の偈」とは、「食事を①感謝して頂く②反省して頂く③残さず頂く④心身の薬と思って頂く⑤目標や責務を成し遂げるために頂く」ということようです。これを読んで、私の中にある考えが浮かびました。それは、この私が日常的に使っている「精進」という言葉が、この「五観の偈」から来ているのではないかということです。(私の勝手な解釈ですが、、)サラリーマンであった私は、色々なビジネスシーンで「精進します」というフレーズを乱発してきましたが、ここで初めて、その「精進」の言葉の意味を語源的なものを含めて腹落ちさせることできました。  その時 、 詠んだ漢詩が、これです。   いずれにしても「食事」を頂きながら「修行」が出来るのは、有り難い話です。一番上の写真にあるように萬福寺の門前には、他の禅宗のお寺と同様に「不許葷酒入山門」(匂いの強い野菜と酒は山門から入るべからず)と書いてあったので、恐る恐る聞いたところ、お酒もOKとのこと。しっかり食べて、しっかり飲んで、しっかり「修行」させて頂きました。  漢詩の最後の「精進」は何に「精進」するつもりだとお思いでしょうが、作者としては、「心身の健康に留意し、日々感謝し反省し、休むことなくブログを更新することに「精進」します。」と隠元禅師にお誓いしたつもりです。

《号外・青春ショートショート付き》祝WBC優勝!

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  日本が3大会ぶりにWBCで優勝した。それも初の日米の決勝戦を制しての優勝だ!大会MVPは、大谷翔平!投げて打って、正にリアル二刀流全開の大活躍だ。そして日本チームの精神的支柱として、終始チームを鼓舞し続けた。当然の受賞で誰も異論は無い。これこそ「神の領域」だ。     一方で、日本球界最年少三冠王村上宗隆、「村神さま」は結構苦戦した。ニックネーム「村神さま」からはほど遠い、極めて人間臭い苦戦ぶりだった。彼は、人間らしく(責任感のなせる技か)少しプレッシャーがかかる局面には弱いみたいだ。でも、普通の人間とは違うところは、「 途轍もないプレッシャーには、途轍もなく強い」 ところだ。  準決勝の最終回、最終打席に入った彼には、皆んな期待していなかったはずだ、(今になると、皆んな自分は彼が打つと信じていたとカッコ良くいうが、それは本当か?私は世界中で彼が打つと信じていたのは、栗山監督一人だったと思う。)それまで3連続三振とファールフライ、バントのサインでも良いし、場合代打を出しても誰も文句は無かったはずだ。だけど彼は打った。劇的な逆転サヨナラ2塁打を!コーチ経由で聞いた監督の「お前が決めろ、お前を信頼している」の一言に腹が括れたと言う。  その腹の括りが出来るのが、人間村上宗隆の真骨頂だと思う。その腹の括りが日本を準決勝敗退の危機から救い、日米決戦へ日本のファンを連れて行ってくれた。「劇的」とは彼のためにある言葉だった。  そんな村上選手を、私が好きになったのも彼の人間らしいところだ。昨年の夏から秋の出来事、彼が、シーズン日本人タイ記録の55号本塁打を早々に達成し、その後、最終試合、最終打席に56号本塁打を放つまでの、ちょっと長く感じる日々をファンとして見てきたからだ。あまりに好きになって、「青春ショートショート」まで降りてきてしまった。  それを本日、いつも漢詩や短歌の代わりに発表したい。拙い話だが、WBC優勝に免じて最後まで読んで頂けると嬉しい。ショートショートの題名は「揺れる秋」(季節外れで恐縮)だ。 「揺れる秋」   彼女は野球ファン、それも筋金入 りのヤクルトファンだ。 一方、僕といえば、もともと野球には、あまり興味がなく、昨年バイト先で知り合った彼女をデートに誘うために、必死でヤクルトの選手の名前と背番号を暗記したと言う、不純な動機の俄かヤクルトファンだった

《写真短歌》京都吟行シリーズ(4)駒井卓・静江記念館

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   「駒井家住宅」、正式名称は「駒井卓・静江記念館」(奥様の名前が入っているのがイイね)の話です。京都市左京区の白川疏水沿い、昭和初期に建てられ洋風住宅である。名建築家ヴォーリズの円熟期の作品とされ、「日本のダーウィン」と言われた京都大学の遺伝学の教授駒井卓博士が、奥様の意見を十分に取り入れて設計を依頼したと言われている。私もヴォーリズの作品は、今までに幾つか見てきたが、細やかな配慮が隅々まで行き届いているという点ではここが一番ではないかと思う。   この住宅の中でどこが気に入ったかと問われれば、サンルームである。写真の左側、一階と二階両方に造られているが、私の好きなのは二階のサンルームだ。その日も穏やかな春の陽射しの中で、博士のお気に入りであったロッキングチェアが揺れていた。(揺れているように見えた。)博士はきっとこの椅子に揺られながら、遺伝学上の貴重な発見のキッカケを思いついたに違いない。   博士の最大の遺伝学上の発見の一つに「三毛猫のオスは非常に少ない」という発見がある。「三毛猫のオスの確率は、3,000〜30,000の1」というものだ。(四葉のクローバーと同じくらいか?)その稀少さ故に、商店の看板猫にすれば、その店が大繁盛すると珍重されたみたいだ。  ところで、私はオスの三毛猫に遭遇したことがあるのだろうかと思ったとき、一つ疑問が湧いた。「博士は、どうやってオスの三毛猫を探して、確率を実証したのだろうか?」という疑問だ。博士の椅子に尋ねてみたが、椅子はピクリとも動いてくれなかった。

《写真漢詩・短歌》サラリーマンと桜(2)

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   このブログの左上のメニューにあるご挨拶(口上)の中で、詳しく書きましたが、私が漢詩や短歌を始めたのは、2021年11月で、ごく最近のことです。それ以来、基本リアルに、または自分が撮った写真を見て、写真を撮ったときの心情を思い出して詩歌を詠んでいます。でも例外もあります。それはサラリーマン現役時代の出来事です。40年サラリーマン生活を送れば、様々なことを経験し、色んな思いをしてきました。それを最近撮った写真を添えて詩歌を詠むことは時々あります。そして今回気付いたことですが、それは殆ど「転勤」に纏わる話でした。改めてですが、サラリーマンにとって、「転勤」が如何に重大なイベントであるか、思い至りました。   最初は「転勤」の中でも辛い「左遷」を詠んだ漢詩・五言律詩です。(「左遷」は平安時代の菅原道真も、中国唐代の詩人、詩仙と言われた「李白」も詠んでいます。時代も洋の東西を問わず詩作の大きなテーマだったんですね。)   次に、新任地に「赴任」して、引越し荷物を解いたくらいのタイミングを詠んだ短歌です。   次は、転勤して、上司や先輩に連れられて、新しい取引先に新任のご挨拶で回っている頃を詠んだ漢詩、これは七言絶句(珍しく「ク」で押韻の詩)です。桜は満開ですが、緊張感で桜どころじゃないやと必死に駆け回っています。でもふとした瞬間、桜を見上げて現実から心が離れることがありました。  以上3作品ですが、如何でしたか?3つとも桜が作品の背景にあり、モチーフになっています。桜がサラリーマンの心を慰め、励ましていることが分かります。昨日のブログにも書きましたが、サラリーマン→転勤→桜、これは三位一体です。 4月1日の葉桜は何としても回避して欲しいものです。 明日は、また京都吟行シリーズに戻る予定です。

《写真短歌》サラリーマンと桜(1)

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  2023年、東京で桜の開花が確認された。3月14日のことだ。例年より10日早いみたいだが、私の記憶では、ここ何年かはこんなタイミングで開花しているのでは、、、温暖化の影響で明らかに開花時期が前倒しになっている。桜は入学式の花だったのに、最近は卒業式の花として定着しつつあるのではないか、、、 2023年3月19日、仙台堀川公園   長い冬が終わって桜が咲けば、何か心が弾む。でも、あまりに早くなると、それはそれで如何なものかと思う。特にサラリーマンの世界に与える影響は深刻だ。サラリーマン劇場に於いては、4月1日の新年度のスタートに向けて、年度替わりの行事、入社式、そして転勤という大イベントが展開される。その際、桜は重要な大道具であり、背景画だ。  私がサラリーマン現役時代には、桜はちゃんと年度を跨いて咲いてくれたように思う。3月末頃、前任地で開花を確認し、4月1日、新任地で満開、新しい仲間と、歓迎会を兼ねてお花見なんてのもよくあった。転勤に纏わる悲喜交々を桜が華やかに、時に切なく彩ってくれた  そんな、桜と4月1日を詠んだ写真短歌だ。実は私は桜の写真が苦手で、ブログに使える写真はあまり残っていない。でもこの写真は結構気に入っている。東京の飯田橋で撮った写真だが、ビルの谷間から、満開の桜が見える。四月の朝の光が神田川に反射し、岸の桜を輝かせてくれた。新しい職場へ向かうところで、この光景が不安を心地良い緊張感に変えてくれたことを今もしっかり覚えている。   2023年の東京は、このままでは、24日が満開の予想という。そうなると4月1日には、すっかり葉桜になっているとういうことにならないか?心配だ。その事態を回避するためには、東京のソメイヨシノの粘り腰に期待するしかない。頑張れ!ソメイヨシノ! 明日もサラリーマンと桜の関係を詠った作品をお届けしたい。

《写真短歌》京都吟行シリーズ(3)伏見稲荷ナウ

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   「ナウ」はもう若者の間では死語だそうだ。でも、70年代の夕方の人気TV番組「銀座ナウ」を見ていた私にとっては、現在地や現状の意味で使えるこの言葉は、馴染みがあり、便利、且つ微妙なニュアンスも含んでいるようで、今もアリだと思っている。そして短歌にも使っている。   京都からJR 奈良線の「稲荷駅」で降りた瞬間、一番に浮かんだのはこの言葉だ。「伏見ナウ」である。私自身の認識不足と何十年ぶりのご無沙汰のせいではあるが、本当に驚いた。インバウンドが徐々に帰って来ている3月の京都であるが、此処伏見稲荷は特別だった。まるで日本ではないくらい、外国人観光客、外国語で溢れている。   もともと伏見稲荷は全国初詣ランキングの常連であることは承知していた。その昔、私が小学生で訪れたのも初詣で、その時は外国語ではなく関西弁で溢れていた。でも「伏見のナウ」はまるで違う。まさにインバウンドのメッカになっていたんだ。その理由は、流石に私でもピンときた。「映え」るのだ!朱い鳥居の連なりが!   とすると、なんとコスパが良いことか。伏見の神様には畏れ多い話ではあるが、朱い鳥居にはそんなにお金は掛かっていないだろう。メンテナンスも容易だろう。賢いな伏見稲荷!狡いな(畏れ多いが)伏見稲荷!そんなことを考えていたら、上から私のことを見下ろしていた「鍵の狐」がほくそ笑んだように見えた。

《写真短歌》京都吟行シリーズ(2)伏見酒蔵小路

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   幕末の寺田屋騒動で有名な「寺田屋」の脇の道が「竜馬通り商店街」です。そして商店街を北に歩き、路地を右に折れると「伏見酒蔵小路」があります。この店では名前の通り、伏見酒造組合に属する18の酒蔵の日本酒120を超える銘柄を飲めます。日本酒好きには正に「聖地」の一つです。  カウンターに座り、早速、今回の吟行の主たる目的である「18蔵のきき酒セット」をオーダー、頂きました。写真の通りなかなかの迫力です。店員さんからの説明では、全部一人で飲み干しても2合強とのことですが、2合徳利1本が出てくるより、数倍の喜びがあります。唯、きき酒の方は、4、5杯目くらいから怪しくなり、最後の方は、ひたすら酔いを求めて杯を干す感じになります。18回杯を干す行為を行なうせいか、普段飲む2合の酒よりも酔いが気持ち良く、早く回ります。短歌も降りてきました。   店を出て歩く竜馬通りは、春の陽光に包まれ、爽やかな風も吹き抜けて行きました。若干、肩で風を切る感じになっていたのは、 坂本龍馬が憑 依していたのかもしれません。

《写真短歌》京都吟行シリーズ(1)伏見寺田屋

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  3月5日から11日まで、京都吟行と称して、京都に住んで?きました。その日々のレポートです。先ずは伏見方面からお届けします。(まだまだ固まってはいませんが、これから出来るだけ京都で過ごしたいと考えています。仙台堀と京都、10対1位に出来たらというのが理想ですが、、、)   伏見の寺田屋と言えば、幕末、坂本龍馬が遭難した「寺田屋騒動」の現場だ。現在の建物自体は跡地に再建されたもののようだが、土地の記憶が為せる技か、再現された現場は想像していた以上に生々しい。龍馬が高杉晋作から貰ったピストルの弾痕も柱にしっかりあり、刀痕もあちこちにある。そして龍馬の恋人お龍(りょう)が、風呂に入っていて幕府の役人が寺田屋を取り囲んでいるのを察し、裸で階段を駆け上がり龍馬に危機を知らせたというあの「風呂」も「階段」も此処にはある。リアルな歴史、あの日の龍馬の闘争・青春・恋愛がごちゃ混ぜになって此処では感じられる。幕末ファン・龍馬ファンには堪らないテーマパークだ。不思議な興奮に胸がざわつき短歌も降りて来た。   下の写真が、その風呂と階段、階段を上がってすぐ左が龍馬の部屋、(NHK大河「竜馬がゆく」で浅丘るり子が、「龍馬伝」では、真木ようこがお龍(りょう)を演じていたのを思い出す。)何の変哲も無い普通の風呂と階段だが、「寺田屋」の中で見ると輝いて見える。「歴史の現場」というパワーを実感した。