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《写真漢詩》四長、三四郎池でネーミングを考える。

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    東京大学本郷キャンパス内の「三四郎池」である。もともとは此処に加賀藩前田家の庭園(育徳園)があり、池は心字池と呼ばれていた。この池が「三四郎池」と呼ばれる様になったのは、夏目漱石の名作「三四郎」が、ここを舞台としたからと言われている。小説の冒頭、主人公の小川三四郎は憧れの人となる里見美禰子を、偶然この池の畔で目にする。  夏目漱石の作品は、主なものは学生時代に殆ど読んだ。一番好きなのが「坊っちゃん」であり、次が「こゝろ」と「行人」か。「三四郎」は小説自体は私の漱石ランキングの中でそんなに上位にはこない。でもタイトルの「三四郎」はその響きがキャッチーで大好きだ。  この「三四郎」という名前、大好きなのは私だけでは無い。昭和の柔道小説の金字塔「姿三四郎」のタイトルも、著者の富田常雄が漱石の「三四郎」を読んで、主人公のファーストネームを気に入り借用したに違いないと私は確信している。  「姿三四郎」が柔道界に及ぼした影響は絶大だ。小説「姿三四郎」の連載が始まって以降、小柄な選手が、大柄な対戦相手を投げ飛ばせば、大概、その選手は「⚪︎⚪︎三四郎」と呼ばれた。オリンピックのメダリスト、古賀稔彦選手や野村忠宏選手は「平成の三四郎」、山口香選手は「女三四郎」と言われたものだ。みんな「三四郎」の名前が大好きなのだろう。(一方で重量級の選手は「三四郎」と呼ばれない。金メダリスト・山下泰裕選手も呼ばれなかった。少し不公平だ。「重量級の三四郎」とか、本人も呼んで欲しかったんじゃないかな?と思う。)   ところで、この「三四郎」というキャチーで素敵な名前の人間!私は生まれてこのかた、この「小川三四郎」と「姿三四郎」以外出会ったことが無い。一人も知らない。最近は漱石の「三四郎」も富田常雄の「姿三四郎」も読んだことが無い人が増えているから、子供の名前に付けないのも分かる。でも私の同年代、その上の年代でも本名が「三四郎」という人を知らない。  不思議に思って「三四郎という名前」でググってみたら、理由の一つが判明した。昔、「三四郎」とは、父親が三男で、自身が四男であることを示す名前であったとのことだ。二代続けて子沢山であることが必須条件だ。少子化の現代は勿論、戦後世代には、ほぼ不可能に近いネーミングだったんだ。

《写真短歌》四長、芦ノ湖のブラックバスを褒める。

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   箱根の芦ノ湖である。2021年夏、湖畔にある芦ノ湖の守護神「九頭龍大神」を祀る「九頭龍神社本宮」に参るため、モーターボートに乗った。本宮へは陸路もあるようだが結構難路であるとのことで、モーターボートでの参拝となった。私はジェットコースターが苦手だ、基本的には乗らないようにしている。でもモーターボートは同じようなスピード感がウリだが、重力の変化を伴う急降下が無い。風を切る爽快感だけ味わえるので大層気に入っている。この日も、当時のコロナ禍での窮屈な暮らしや、時折訪れる腰痛のストレス、モヤモヤ感も完璧に吹っ飛ばしてくれた。 九頭龍神社本宮の鳥居、芦ノ湖で最高のパワースポットとか?そう言えば鳥居の下の岩が龍の様に見える。   ところで、芦ノ湖と言えば、ブラックバスが有名である。ゲームフィッシングの王様と言われ芦ノ湖の人気者だ。でもブラックバスといえば外来魚である。世界の侵略的外来種ワースト100にも、日本の侵略的外来種ワースト100にも堂々ランキング入りを果たしている。その外来種が何故?芦ノ湖では大きな顔をして棲んでいるのか?ゲームフィッシングの王様だからか?それだけではちょっと弱い、環境派が容認するはずが無い、、、 ブラックバスと並ぶ芦ノ湖名物「海賊船」(海賊が何故湖にいるのか?謎だ。)   調べてみたら、答えは直ぐに判明した。ブラックバスは1925年実業家赤星鐵馬がカリフォルニアから持ち帰り、芦ノ湖に放流した。その際、このブラックバスは、成長が早く効率的な養殖が可能、将来の人口増加による食糧危機対策にも資すると説明し、政府も認めて今に至っているとのことである。あくまでも食用として認められたのだ。  そのため、現在の芦ノ湖のゲームフィッシングには特別ルールがある。今、環境派ゲームフィッシングでは主流になっている「キャッチ・アンド・リリース」は禁止である。積極的に捕獲、食用に持ち帰る。「釣った魚は、必ず食す!」である。  モーターボートで湖を一周して戻った後、入った湖畔のレストランのメニューに「美味!絶品!芦ノ湖丼!」とあった。「芦ノ湖丼!」何かと思えば「ブラックバスの天丼」であった。  成程!ブラックバス!君はしぶといな。「芦ノ湖丼」までなれば君の勝ちだ。当分の存続は約束された。外来魚が生き残る道は、食用!そのためには美味!それしか無いかもしれない。君はそれを知って

《写真短歌》四長、東京砂漠でスフィンクス発見!

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    この作品の名前は知らない。大変失礼な話だが、当然作者の名前も知らない。でも私はこの像が気に入っている。東京都現代美術館の正面入り口の横にある。私がこの像を気に入ったのは、この像を初めて見た(認識した)時期・季節が大いに影響している。その時期・季節とは2021年8月!東京に連日熱中症警戒注意報が出ていたときだ。この日も正に猛暑日!自宅から、その頃開催されていた「横尾忠則展」を観るため、仙台堀を歩いて美術館前まで辿り着いた私に太陽は容赦無かった。   汗がダラダラ、頭はクラクラ、意識朦朧の私の前に、突然この像が出現した。その時、私が何を思ったか?、、、今でもしっかりと思い出すことが出来る。「像が!像が!暑さで熔けていく!」、、、余りの暑さで、ブロンズ像?が、氷やアイスクリームみたいに暑さで熔けていく様に見えたのだ。  でも思った。美しい!なんて美しいんだ!と、、、この像は前と後ろに二つの頭がある。顔は女性だ。その女性の顔が、灼熱の東京砂漠の中で熔けていくのだ。しかし苦痛は見えない。逆に恍惚感さえ感じている様だ。  素晴らしい演出!さすが現代美術館!猛暑日も、観客の熱中症直前の意識朦朧まで利用したインスタレーション!これぞ現代美術!究極のアート!だ。恐れ入りました。    私は、この像に秘かに名前を勝手に付けている。「双頭のスフィンクス」だ。スフィンクスは、「エジプト神話」「ギリシア神話」「メソポタミア神話」に登場する。基本形は顔は人間(ほぼほぼ女性)、体はライオン(この像の場合は台座に隠れていると想像して下さい)だが、色々なパターンが存在するみたいだ。でも、双頭は世界初かもしれない。 参照 : 四長、MOTを自慢する。(※リンク)

《写真短歌》アマリリスの作曲家は誰だ?

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   アマリリスである。ヒガンバナ科の植物で、名前のアマリリスはギリシア神話に出て来る羊飼いアマリリスの名前から来ているとか?私はこの花が、あの歌に出てくるアマリリスと知ったとき驚いた。あの歌の印象からは、もっと小ぶりで可憐な花だとずっと思い続けていた。  あの歌!そう!「ラリラリラリラ、調べはアマリリス」!のあの歌だ。小学生のとき、私は最初NHKの「みんなのうた」で聞いた。暫くすると教科書にも載り、合奏の練習曲として、音楽の時間に特訓を受けた鮮明な記憶がある。  そして、当時はこの歌はフランス・ブルボン王朝のルイ13世の作曲だと教わった。フランスの王様が作った曲を演奏する。小学生ながら、どこか名誉で特別感もあり、特訓も止むなしと納得したものだ。  ルイ13世、高校の世界史に登場した。絶対王政を確立し息子の「太陽王」ルイ14世に比べると地味な印象であり、日本ではあまり取り上げられることも少ない。でも小学生時代に出会った人物というのは偉大に思えるもので、私の中では、ブルボン王朝と聞けば、反射的に出て来るのは、ずーっと「アマリリス」の作曲者ルイ13世だった。   なのに!それなのに!、、、最近アマリリスを聞いたときびっくりした。作曲者が違うのである。作曲ヘンリー(アンリ)=ギスとある。ヘンリー(アンリ)=ギスって誰?ギスさんには申し訳無いが、私は知らない。早速ネット検索してみた。  そうすると、ヘンリー(アンリ)=ギスは19世紀のフランスの作曲家・音楽史研究家・ピアニストで、あのボレロで有名なラベルを7歳ときから教え、彼を世界的音楽家に導いたピアノ教師としても有名とある。それで私は納得した。  私は前にこのブログで ラベルのボレロについて書いたことがある(※リンク) 。15分間同じ旋律、同じリズムの繰り返しだと。私が「みんなのうた」で聞いた「アマリリス」も9番まであったが、同じ様に、基本「ラリラリラリラ」の繰り返しである。そうか、そうか世界の「ボレロ」の原点は「アマリリス」にあったのか。作曲者からルイ13世の名前が消えたのは残念だったが、「アマリリス」と「ボレロ」が繋がる仮説を見出し、私は十分に納得した。  なのに!それなのに!、、、また新たな事実を発見してしまった。ネット検索していて。検索しなければ良かったと後悔している。なんと「みんなのうた」の9番まである「アマリリ

《写真短歌》『日傘男子』のススメ。

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仙台堀川公園、好きなビュースポットの一つから。     最近、私の中である既成概念が音を立てて崩れた。その既成概念とは「傘の歴史」に関する既成概念だ。私は恥ずかしながら、「傘は雨傘から始まり、その発展形として日傘が生まれた。」と思っていた。しかし、それは全く逆で、「人類が日傘を用いたのは4,000年前であり、雨傘を用いるようになったのはずーっと新しい。」というのが正解だ。雨の多いイギリスでも18世紀からという。(同じように雨の多い日本では、江戸時代の浮世絵に和傘が登場するところを見るともう少し早いかもしれないが、日傘の歴史の長さには遠く及ばない。)  いずれにしても、日傘は雨傘とは比べものにならない長い歴史を持っている。古より人類は雨に降られてもそれは仕方ないが、身分の高い人間を中心に直射日光を遮ることは必要なこととされてきたのだ。   その歴史ある日傘!特に男性の日傘使用!日本では江戸時代に大きな危機を迎え、ほぼ絶滅する。寛政の改革等、飢饉の後に幕府の財政が危機に陥ると、その度ごとに、男性の日傘は贅沢禁止のターゲットに挙げられた。製造も販売もそして使用も禁止されたのである。  そして、その流れは明治期にも引き継がれる。文明開化で洋傘が普及したものの、それはあくまで雨傘としてであり、日傘を男子がさすのは女々しい、軟弱とされ現在に至った。  それでも、その風潮を崩そうという動きが無かったわけでは無い。2013年に洋傘業界が仕掛けた「日傘男子キャンペーン」がそれだ。残念ながら当時は抵抗を示す男女も多く、私も含め「日傘男子」入りする男性は殆どいなかった。でも世に一石を投じたことは間違いない。  そして、コロナ禍が一気に情勢を変える。苦しいのだ!死にそうなのだ!マスクをしながら直射日光を浴びるのが!私は、2013年当時、「日傘男子?男が日傘?なんて情けない世の中になったのだ。俺は一生日傘はささない。」と言っていたのを、臆面も無く撤回した。今は娘からプレゼントされた日傘を愛用している。短歌まで詠んでしまうのだから、その変節ぶりが分かるだろう。  日傘をさせば体感温度が3〜5度下がることが証明されている。私のように完全遮光効果のある日傘を選べば10度下がるという。もはや日傘は熱中症対策の必須アイテムだ。炎天下の太陽光線!紫外線!素肌対策としても遮光するに越したことはない。そして

《写真短歌》四長、小名木四郎兵衞の偉業を讃える。

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  「小名木川」である。1590年、豊臣秀吉より北条氏の旧領に封じられた徳川家康は、自らの居城を江戸に定めた。その日から、江戸城を中心とした徳川家康の江戸(後の東京)の街の建設が始まる。神田の山を削り、日比谷の入江を埋め立て、其処に家臣や町人を住まわせていく。江戸の人口は短期間に膨れ上がる。そうなると色々問題が生じてくる。問題の中で結構切実であったのが、塩の不足である。十分と思われていた備蓄も底を突き始める。 「どうする家康 part1」 である。家康は情報をかき集め、現在の千葉県市原行徳に塩田があることを知る。家康は決断!「行徳から江戸湊(現在の日比谷)まで塩を船で大量輸送する」と。そして実行した。  ところがである。行徳から江戸湊までの江戸湾(東京湾)北部は、当時砂州(現在の南砂町辺り?)や浅瀬が広がり、塩を満載した船は次々に座礁した。大きく沖合に迂回させれば、今度は湾内の複雑で強い風波で船が沈み上手くいかない。行徳の塩大量輸送作戦は完全に頓挫してしまった。 「どうする家康 part2」 である。 小名木川と中川の合流地点、左手に 中川船番所(※リンク) が設けられた。   家康は解決策を必死に考える、、、其処に登場したのが、 小名木四郎兵衛! 彼は大川(隅田川)と中川を一直線に結ぶ運河(人工河川)の開削を家康にプレゼンする。家康もこの案を大いに気に入り、早速着工することを命じ、完成させる。これにより、行徳の塩は安全に且つ輸送時間も大幅に短縮して、江戸に届くようになった。「歴史に『もし』はない」と言われるが、『もし』 小名木四郎兵衞 がいなければ、小名木川ができなければ、その後の江戸、今日の東京の繁栄は無かったと私は確信している。  小名木川はその後開削された竪川、大横川、横十軒川、そして仙台堀川と接続、戦後、水運が自動車輸送にその役割を奪われるまで、江戸・東京の水運の中心として活躍し続けた。   今、私は小名木川両岸の遊歩道をよくウォーキングする。でも物資を輸送するなど仕事をする船舶とは一回も出くわしたことは無い。見かけるのはカヌーやボートなど水上スポーツを楽しむ人たちだ。小名木川!見事に役割を変えたが、今も現役だ!

《写真漢詩》四長、仙台堀の新しい支配者白鷺に怯える。

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     このブログでも何度も書いているが、私は鳥が苦手である。夜、怖い夢で魘されるとき、大概は鳥の夢を見ている。その私が今憂いている。仙台堀の現状にだ。私はこのブログ「仙台堀日記」の主宰者であるので、仙台堀のオーナーの如く振る舞っているなと思う人もいるかもしれない。だが実態は全然違う。現代の仙台堀の影(もう表と言ってよい)のオーナー、支配者は「鳥」である。これは間違い無い!上の漢詩の通りである。  その鳥たちの間でも、最近圧倒的に勢力を伸ばしているのが白鷺である。白鷺といえば、昔よく日本画のモデルとして多くの画家たちに愛されてきた。その描かれた方から、私を含む多くの人の抱くイメージは、「孤高を好み、美しき山の渓流に一羽(多くとも二羽)で佇んでいる」だ。でも実態は大きく違う。彼らは実は帝国主義者である。 単独でいると、孤高イメージもアリだ。   仙台堀でも、つい4、5年前は、数羽が大人しく暮らしているという印象であった。でもそれは彼らのイメージ戦略!だった。彼らは隙を伺っていたのである。人間(特に江東区の行政)及び他の鳥類の隙を!。隙ありと判断してからの彼ら行動は早かった。正に電撃作戦である。先ずは得意の大量繁殖で、僅か2、3年で、仙台堀の中央部にある「鳥の王国」(私は認めていない!)という名の島を完全に占領した。今は、島全体が白く見えるほどだ。  そして、彼らの野望はこれにとどまらない。帝国主義者であるから当然だ。現在、私が把握しているだけでも仙台堀川沿いの森に2ヶ所、コロニーを形成しつつある。今に仙台堀全体を占領して、真っ白に染め上げるつもりではないかと私は憂いている。  そんな白鷺だが、どうもスタジオ・ジブリ宮崎駿監督の最新作「君たちはどう生きるか」に出演しているようだ。ネタバレ厳禁作戦をジブリが採用しているので、白鷺がどういう役回りをしているのかは不明だ。しかし声優を菅田将暉がやっているのだから、そんな悪役ではないだろうし、重要な役だろう。私は、これも白鷺のイメージ戦略に違いないと睨んでいる。  でも、私もそう偉そうなことは言えない。一昨年はこんな漢詩も詠んでいたのだ。   反省しなければならない。自分の不明を恥じるばかりだ。私も完全に白鷺の孤高イメージ戦略に引っ掛かっていた。「鷺王」である彼は、既にこのとき、仙台堀全体を見下ろし、将来の仙台堀征服作戦を練っ

《写真漢詩》四長、亀戸天神の魅力を総括する。(夏の亀戸吟行4)

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真夏の亀戸天神、快晴!暑い!雲も無いが人影も無い。    「 ①菅公(菅原道真) 」→「 ②亀 」→「 ③くず餅(船橋屋) 」と書いて来た「夏の亀戸天神」シリーズも、今日が第4回、最終回(一応)である。此処まで書き進めて来て改めて思うのは、「亀戸天神」は、やっぱり下町の象徴!下町の天神様だ!ということである。下町らしく色々「てんこ盛り」である。  例えば「花」にしても天神様の総本社、京都の北野天満宮が、「梅」に特化しているのに対して、亀戸天神は欲張りだ。「梅」だけでなく、「藤」も「菊」も名所として有名だ。「生き物」だって 「亀 」が外来種の問題(※リンク) を抱えてはいるが、大繁殖して人気者になりつつある。門前の船橋屋の「くず餅」だって、 店主が大スキャンダル(※リンク) を起こしたが、粘り腰で人気を回復しつつある。   そして亀戸天神、敷地も下町らしく決して広くない。むしろ狭い。でも其処は下町らしく、「てんこ盛り」精神で広く見せる工夫をしている。立体化している。2層構造にしているのだ。下の写真で説明しよう。 藤棚が天井の役割、夏は日陰を形成し、下の池と相俟って涼しさを演出。 藤棚は額縁効果の額縁の役割もこなす。額縁から本殿を見る。   写真の通り、藤棚や梅の木が、天井や壁の役割をして一階部分を形成し、屋内にいる錯覚さえ覚える。   それに比べると、2階部分はアウトドアだ。太鼓橋を登れば段々視野が広がってくる。頂点まで登れば、瞬間、突き抜け感がある。足元に一面の藤棚!まるで草原に立っているかの如く、気分爽快だ。そして近時、この風景にスカイツリーが加わった。最高の借景、スカイツリーは天を突き刺すように、すっくと立っている。  先ほど「てんこ盛り」という言葉を使ったが、てんこ盛りの語源は「天まで盛り上げる」だそうだ、そうとすれば、亀戸天神の「てんこ盛り」!このスカイツリーの登場を以て完成だ。漢詩も出来た。   「てんこ盛り」の亀戸天神、年中結構忙しく賑わう。春は「梅まつり」に始まり「藤まつり」、そして秋は「菊まつり」と「七五三」、冬は「初詣」と「鷽替の神事」、それが過ぎれは天神様のクライマックス「受験祈願・お礼参りのシーズン」だ。人が途絶えることが無い。唯一、人が少なくなるのが、今、夏である。鬱蒼とした緑の中に、太鼓橋の赤が映える。私はそんな真夏の亀戸天神!嫌いじゃない

《写真漢詩》四長、亀戸天神門前「船橋屋」を応援する。(夏の亀戸吟行3)

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    船橋屋である。亀戸天神の門前、くず餅の名店である。  くず餅と言っても、京都の鍵善のような葛を使用したものではない。船橋屋のくず餅は乳酸菌入り(健康に良い)の小麦澱粉だ。厳選された大豆を焙煎したきな粉と沖縄産の黒蜜、これらが相俟って「秘伝の味」として、芥川龍之介・永井荷風・吉川英治などの文豪に深く愛された。  その船橋屋が、2022年創業以来の危機に陥る。八代目店主の不祥事だ。新聞などによれば八代目店主は自らの過失により、交通事故を起こしながら、非を認めず相手に対して暴言や乱暴を働いた。そして、その映像がネットのインフルエンサーによって投稿され全国に拡散されたのだ。  更に同じタイミングで、八代目店主がパワハラ体質で、ベテランの職人たちの多くが退職を余儀なくされていたことも露見した。SNS上で大炎上だ。店主の交通事故不詳事もさることながら、ベテラン職人たちの退職というのは不味い。秘伝の味への直接的影響を想像してしまう。私はネットやマスコミの記事をそのまま信じることはしないが、くず餅を目当てに亀戸天神へ通うモチベーションが著しく低下してしまったことは確かだ。  唯、この大スキャンダルにも救いはあった。船橋屋の大炎上後の対応が極めて早かったのだ。炎上翌日には八代目店主は社長を退き、創業以来初めて創業家出身ではない41歳の女性社長が誕生した。私は船橋屋の内部事情は知らないし、新社長の実力も人となりも全く知らない。でも、此処までのスキャンダルから老舗を立ち直らせるためには、このレベルの荒療治・大手術は必要だ。  新社長は、就任以来、積極的にビジネス雑誌のインタビューに応じている。私も2、3誌くらい拝見した。社内改革を衆人環視のもとに透明性高くやろうとしている姿勢には覚悟を感じる。そして慌てずに、先ずは社員のモチベーションの回復を優先的に考えている様子は好感が持てた。   頑張ってくれ新社長!責任は重大だ。私だけなく江東区民にとって、船橋屋のくず餅は、ただのくず餅ではない。亀戸天神と一体化した重要アイテム、下町文化そのものだ。亀戸天神にお参りした後、船橋屋本店のカフェ一で寛ぎ、くず餅に舌鼓を打つ。(夏にはかき氷もアリだ。)そんな日々が一日も早く帰って来ることを祈っている。   漢詩は事件の一ヶ月前に詠んだ、スキャダルなどまだ知る由も無い頃だ。写真中央の暖簾、白地に書か

《写真短歌》四長、亀戸天神の池の亀に諸々考える。(夏の亀戸吟行2)

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  「亀戸天神」の亀である。神社名に亀がついているので、亀がこの神社の御神体か御神体の化身と間違えて拝む人もあり、結構大事にされている。亀自身もそれを意識して「オレは神聖だぜ。」と、少し大きな顔をしている様に見える。夏の暑いとき、プールのような池で、ゆったりと泳いだり、甲羅干しをしている姿にはセレブ感さえ漂っている。  ところで「亀戸天神」のある「亀戸」の名の由来は、昔、この辺りが湿地帯で、その中に「亀島」という亀に似た島があったことにあるようだ。昔から亀の棲息地だったからという訳ではない。でも、でも現在では、池に一杯棲んでいる。(昔は、そんなに見なかった。確実に数が増えている。)   何故増えたのか?何処から来たのか?答えを知って驚いた。何と「神社に合格祈願をし、見事合格したら、お礼に亀を池に放流しなければいけない」という神社側が全く関知しない都市伝説が、近年一部受験生の間に広がり、実際に放流する人が後を絶たないからだそうだ。  そして、放流される亀は、ペットショップで安価に手に入る「ミシシッピアカミミガメ(幼体は別名ミドリガメ)」が大半であるそうだ。この種は繁殖力が強く、日本全国で在来種を駆逐している。このため在来種亀の代表であるニホンイシガメなどは準絶滅危惧種に指定されたようだ。(「ミシシッピアカミミガメ」はIUCN(国際自然保護連合)の世界の侵略的外来種ワースト100に指定されている。)   「ミシシッピアカミミガメ」、その名の通り米国産の亀が、最も日本的な場所、日本人にとって神聖な場所である神社の池を占領している。それも神社に祈願し、大願成就した人たちの御礼によって、、、、  この罪な都市伝説、もう放置してはいけないと私は思う。そして、私は外来種イコール悪とは単純には思わないが、此処は一度、テレビ局の力を借りて、池の水を全部抜き、「ミシシッピアカミミガメ」を集め、故郷アメリカのミシシッピ川に帰してあげるのもアリかなと思う。

《写真漢詩・短歌》四長、亀戸天神で5歳の菅公に漢詩を捧ぐ。(夏の亀戸吟行1)

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    炎天下の亀戸天神である。亀戸天神には、私の自宅から仙台堀川公園を西に行き右折、横十軒川親水公園を北に行けば、ほぼほぼ公園伝いに辿り着ける。私の気に入りの散歩コースの一つだ。亀戸天神、勿論菅原道真公を祀る神社であり、全国の天神社と同じ様に、受験には絶大なご利益があるとされている。  この亀戸天神では、5歳の菅原道真公の像が人気である。亀戸天神が、菅公の5歳像を此処に祀っている理由、それは「七五三」である。亀戸天神は「春の受験」と「秋の七五三」という2大シーズン・イベントを軸に置くビジネスモデルを確立しているのだ。更にそのイベントを梅・藤・菊で盛り上げる。なかなかの商売上手である。5歳の菅公もこのビジネスモデルの重要キャラクターだ。  その菅公像、やはりとても賢そうだ。でもあどけなさもある。勿論、自分が将来九州・太宰府へ左遷となり、失意の中亡くなることなど知る由もない。少し不憫に思えて、5歳の彼のために漢詩と短歌を詠んだ。こんな感じだ。 「深い事情は知らない私がお節介だとは思うけど、将来そんなことが起こっても、そんな気に病んではいけないよ(死後も怨霊となって暴れるなんていけないよ)。宮仕え(サラリーマン)に転勤や左遷は付き物だ。なにも流罪になったわけでもない。太宰権帥(だざいごんのそち)といえば、太宰府の副長官、サラリーマンでいえば福岡支店の副支店長や九州本部の副本部長みたいなものだろう。太宰府で地元の人たちと仲良く、元気にやっていれば、そのうち都の情勢も変わる。貴方ほどの実力があれば、いつか必ず戻れるよ。」と伝えたかった。   5歳の彼に私の想いが伝わったのか?それは分からない。でも、そのとき、像の前を光が走り、不思議な虹が掛かった。

《写真漢詩・短歌》四長、蝉時雨に降られながら「八日目の蝉」を読む。

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   蝉である。かなりの音量で鳴いている。唯、私は「蝉時雨」という表現を思い出す。連想するのは藤沢周平の小説「蝉しぐれ」であり、松尾芭蕉が山形・山寺で詠んだ「岩に染み入る蝉の声」の俳句だったりする。読書の邪魔にはならない。寧ろ自然のBGMだ。  蝉の一生を小学校低学年に聞いたときは泣いた。7年間地中で暮らし、地上に出たら7日間で死ぬという。あまりにも悲しい一生だと思った。「僕が蝉なら、ずっと地中で暮らし続ける。絶対に地上になんかに出るものか!」と、意味もなく宣言した。(でも、友だちと蝉採りには出かけた。矛盾している。)  中学生になって蝉に関する知識は少し増えた。蝉は地上に出た7日間の間に、オス・メスが交尾し子孫を残す。そして蝉で鳴くのはオスだけ。オスはメスに自分を選択して貰うために、必死に自らをアピールするために鳴くのだと知った。そうなると微妙だ。「交尾し子孫を残すためなら、地上に出るしかないのか、、、」と究極の選択を迫られた蝉のオスの身になって考え、悩んだ。   そして、老年を迎えた最近、角田光代の原作の小説を映画化した「八日目の蝉」を観た。観る前は、三島由紀夫の戯曲「十日の菊」と同じように、「八日目の蝉」というタイトルの意味も「期日を過ぎたら、何にもならない、どうにもならない。」ということかと勝手に思っていた。  しかし、映画を見ると、どうも違う様だ。もっと深い意味があるみたいだ。でも、映画を観ただけではズバリは分からない。気になる。ネット検索してみたが、ズバリ判明ということにはならない。どうも、原作者・角田光代は「小説では『母性』を描きたかった。」ということ以外、「八日目の蝉」の意味するところを話していないようだ(私の検索能力の問題かもしれないが)。そこは読者・視聴者に委ねているのかもしれない。  でもネット検索の中で、私にとって新たな発見があった。どうも、蝉のオスは地上に出て7日間で死ぬが、メスは8日以降も生きるようだ。成程!少なくとも「八日目の蝉」はオスではない。メスのことだ。だから角田光代は「描きたかったのは『母性』」と言ったのだ。少し答えに近づいた気がした。  しかし、もっと深いところは、小説を読み込むしかない。私は文庫本を持って、蝉時雨降る夏の仙台堀の森へ出かけた。読んでもきっと 分からないだろうなという予感もあった。でも、それはそれで良い気がした

《写真俳句・漢詩》四長、仙台堀で蜃気楼を見る。

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   私には珍しく俳句である。漢詩や短歌は好きだが、俳句は苦手だ。僅か十七文字で、全ての情景・状況を切り取る世の俳人たちを心から尊敬している。その私が何故、今回は俳句なのか?答えは単純だ。余りの暑さに、短歌の上の句まで詠んで、後は頭がボーっと思考停止状態になってしまったのだ。少し休んで下の句をと捻り始めたが、そのとき、これ俳句でどうかなって考えが頭を掠めた。季語も入っているし、たまには俳句もいいかなと、、、  『逃げ水』、下位蜃気楼の一種。 炎天下、水蒸気や光線の加減で砂漠や道路の先に、水溜りのようなものが見える現象。その場所に辿り着いても、水溜りは更にその先に逃げて行ってしまう。  昔、映画を観た。「砂漠で遭難した探検家が、遠くに水の溜まりを見つけ、必死にそこまで辿り着くが、そこには何も無い。それを何度も繰り返し、探検家は体力を失って行く。最後にまた水溜りを見るが、どうせまた『逃げ水』だろうと思い、そこで諦め力尽きる。でも最後に見たのは本物のオアシスだった。」という何ともやり切れない映画だった。 公園の人面魚もバテ気味だ。    炎天下の仙台堀で私が見たのも、この『逃げ水』に違いないと思った。20mくらい先のアスファルトの遊歩道に水溜りが見える。でも、歩き着くと、そこには水溜りは無く、見上げれば夾竹桃が今を盛りと咲いていた。連日の日照りで水溜りなどあるはずない無いのだ。20m先と言うのは近過ぎるけど、これが『逃げ水』かと納得して家に帰った。  夕食後、家人に思い出した「映画」と昼間私の見た『逃げ水』の話をした。でも、家人は「あなたが見たのは『逃げ水』ではない。熱中症の初期症状!炎天下に歩き回らないで!」と身も蓋も無い 。 そう言われれば、20mは近過ぎる。私の頭の中の「逃げ水」は完全に蒸発した。  真夏に咲く「夾竹桃」、もし「夾竹桃」が居なければ、東京の夏はほぼ砂漠だ。

《写真短歌》マイボタニカルライフ(12)(屋外編・立葵、木槿に嫉妬する。)

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  「立葵(タチアオイ)」である。日本列島では丁度梅雨入りの頃から咲き始め、梅雨明けの頃まで花が開花するため、「梅雨葵」とも呼ばれる。花の色は、赤、白、ピンク、紫と大変多彩である。古来、中国から薬用として渡来し、平安時代の源氏物語の柏木にも、この花を詠んだ和歌が登場する。  そんな「立葵」、名前の如く直立している。地面から茎が真っ直ぐと空に向かって伸び、1〜3mの背丈となる。丁度2mくらいの背丈であれば、茎の先の花弁の部分が顔のように感じられる。眼は無いのに眼が合う感じがする。   そう、私はよく「立葵」と眼が合う。昨年の夏には特に目が合った。そして、その頃の「立葵」は私に何か話したげ?であった。いや、話したげというよりも、何か私に文句がある、訴えたいことがあるといった感じがした。ある時は、背中に何か気配を感じ、振り向いたら、「立葵」がじっとこちらを恨めしげに睨んでいた。少し怖かった。 振り向いたら、「立葵」が恨めしげに睨んでいた。   しかし、 私には立葵の恨みを買う理由は無い。イジメたことも無いし、悪口を言った記憶も無い。何故だ!と少し真剣に考え出したとき、立葵の横の「木槿」が目に入り、あることに気が付いた。 木槿(ムクゲ)   そうか!ヤキモチか!昨夏、私は漢詩と短歌にすっかりハマっていた。そして「木槿」や「アマリリス」を題材にし、詩歌を詠んでいた。特に 「木槿」はお気に入りで沢山詠んだ。(※リンク)  「立葵」は「木槿」に嫉妬していたのか!早速、翌朝「立葵」のために一首詠んだ。   実は、まだ秘密がある。それまで「立葵」を詠まなかったのには理由があった。知らなかったのだ。「立葵」という名前を!。 でも、言えない。とても「立葵」には言えない。「実は君のこと、名前も知らなかったんだ。」とは、、、

《写真漢詩》四長、「カルガモを軽く見るな!」と怒る。

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   昨年の今頃、仙台堀の入り口、中川船番所辺りで撮影した。当時、江東区にも雷雨注意報が出ていた。カルガモの親子も、それを察知したのか、緊急避難を試みているようだ。仙台堀の何処から何処へ避難するつもりなのか?よく分からないが非常に急いでいる。雷鳴が聞こえる度に、先頭の母カルガモが方向を変えるので、後続の子カルガモたちは付いて行くのに大変だ。私は鳥類が苦手で、あまりじっくりと見ていることは出来ないが、流石にカルガモ親子は可愛いと思うし、心配になる。安全なところへ早く避難して欲しいと願ったことを覚えている。   そのカルガモだが、最近、本来の鳥類・カルガモとは全く違うところで、名前を使われている。「カルガモ走行」である。私が最初に「カルガモ走行」の話を聞いたときは、こんな説明だった「カルガモ走行」とは、「トラックの隊列走行、大型トラックが電子的に連結し、一つの移動体となって走行する。先頭の車両以外は完全な無人運転、海外では『プラトゥーニング』と呼ばれ、実証実験の段階まで来ている」と。  そうか、ドライバー不足による物流の停滞を発生させないための最新技術なんだと私も納得した。カルガモのように可愛くはないが、社会のために必要な技術なら、そのネーミングもアリだなと。  ところが!そう、ところがである。最近のマスコミ報道の「カルガモ走行」は、先程の説明とも、全然意味が違って来ている。ネットでも、現在「カルガモ走行」で検索すると、全く別の内容の方が沢山出てくる。その新しく使われている「カルガモ走行」と言うのは、「大型トラック(子カルガモ)が、高速道路の出口付近で待機、適当な別のトラック(母カルガモ)を見つけ、車間距離を取らず、ピッタリくっつき走行し、ETCレーンを突破し、料金を踏み倒す。」というものだ。   完全な違法行為、犯罪であるだけでなく、極めて危険な行為だ。ヘタをすれば、子カルガモが親カルガモに衝突し、死傷させるという悲惨な事故を招くものだ。決して許されるものではない。私にはこの危険極まりない行為を安易に「カルガモ走行」と呼ぶマスコミのセンスが分からない。恐らく最初は、ある記者が誤用したのを、他のマスコミも追随して使い続けているのだろう。  私は即刻、この使用はやめて欲しいと思う。非常に危険な行為が、カルガモの名を冠することにより、かなり危険度が薄まる。やってみようかなと