《写真俳句・漢詩》四長、仙台堀で蜃気楼を見る。
私には珍しく俳句である。漢詩や短歌は好きだが、俳句は苦手だ。僅か十七文字で、全ての情景・状況を切り取る世の俳人たちを心から尊敬している。その私が何故、今回は俳句なのか?答えは単純だ。余りの暑さに、短歌の上の句まで詠んで、後は頭がボーっと思考停止状態になってしまったのだ。少し休んで下の句をと捻り始めたが、そのとき、これ俳句でどうかなって考えが頭を掠めた。季語も入っているし、たまには俳句もいいかなと、、、
『逃げ水』、下位蜃気楼の一種。炎天下、水蒸気や光線の加減で砂漠や道路の先に、水溜りのようなものが見える現象。その場所に辿り着いても、水溜りは更にその先に逃げて行ってしまう。
昔、映画を観た。「砂漠で遭難した探検家が、遠くに水の溜まりを見つけ、必死にそこまで辿り着くが、そこには何も無い。それを何度も繰り返し、探検家は体力を失って行く。最後にまた水溜りを見るが、どうせまた『逃げ水』だろうと思い、そこで諦め力尽きる。でも最後に見たのは本物のオアシスだった。」という何ともやり切れない映画だった。
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公園の人面魚もバテ気味だ。 |
炎天下の仙台堀で私が見たのも、この『逃げ水』に違いないと思った。20mくらい先のアスファルトの遊歩道に水溜りが見える。でも、歩き着くと、そこには水溜りは無く、見上げれば夾竹桃が今を盛りと咲いていた。連日の日照りで水溜りなどあるはずない無いのだ。20m先と言うのは近過ぎるけど、これが『逃げ水』かと納得して家に帰った。
夕食後、家人に思い出した「映画」と昼間私の見た『逃げ水』の話をした。でも、家人は「あなたが見たのは『逃げ水』ではない。熱中症の初期症状!炎天下に歩き回らないで!」と身も蓋も無い。そう言われれば、20mは近過ぎる。私の頭の中の「逃げ水」は完全に蒸発した。
真夏に咲く「夾竹桃」、もし「夾竹桃」が居なければ、東京の夏はほぼ砂漠だ。