《写真短歌》四長、小名木四郎兵衞の偉業を讃える。


 「小名木川」である。1590年、豊臣秀吉より北条氏の旧領に封じられた徳川家康は、自らの居城を江戸に定めた。その日から、江戸城を中心とした徳川家康の江戸(後の東京)の街の建設が始まる。神田の山を削り、日比谷の入江を埋め立て、其処に家臣や町人を住まわせていく。江戸の人口は短期間に膨れ上がる。そうなると色々問題が生じてくる。問題の中で結構切実であったのが、塩の不足である。十分と思われていた備蓄も底を突き始める。「どうする家康 part1」である。家康は情報をかき集め、現在の千葉県市原行徳に塩田があることを知る。家康は決断!「行徳から江戸湊(現在の日比谷)まで塩を船で大量輸送する」と。そして実行した。

 ところがである。行徳から江戸湊までの江戸湾(東京湾)北部は、当時砂州(現在の南砂町辺り?)や浅瀬が広がり、塩を満載した船は次々に座礁した。大きく沖合に迂回させれば、今度は湾内の複雑で強い風波で船が沈み上手くいかない。行徳の塩大量輸送作戦は完全に頓挫してしまった。「どうする家康 part2」である。

小名木川と中川の合流地点、左手に中川船番所(※リンク)が設けられた。

 家康は解決策を必死に考える、、、其処に登場したのが、小名木四郎兵衛!彼は大川(隅田川)と中川を一直線に結ぶ運河(人工河川)の開削を家康にプレゼンする。家康もこの案を大いに気に入り、早速着工することを命じ、完成させる。これにより、行徳の塩は安全に且つ輸送時間も大幅に短縮して、江戸に届くようになった。「歴史に『もし』はない」と言われるが、『もし』小名木四郎兵衞がいなければ、小名木川ができなければ、その後の江戸、今日の東京の繁栄は無かったと私は確信している。

 小名木川はその後開削された竪川、大横川、横十軒川、そして仙台堀川と接続、戦後、水運が自動車輸送にその役割を奪われるまで、江戸・東京の水運の中心として活躍し続けた。


 今、私は小名木川両岸の遊歩道をよくウォーキングする。でも物資を輸送するなど仕事をする船舶とは一回も出くわしたことは無い。見かけるのはカヌーやボートなど水上スポーツを楽しむ人たちだ。小名木川!見事に役割を変えたが、今も現役だ!



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