《写真漢詩》四長、松江をニューヨークタイムズに推薦す。(前編・松平不昧公)

松江城天守閣から宍道湖を望む。姫ヶ島も見える。

 松江の話である。島根県の県庁所在地松江市。少し気が早いかも知れないが、私は来年か再来年、松江市が「ニューヨークタイムズの今年訪れるべき街」に選出されるのではないかという大胆な予測を立てている。今年、岩手県盛岡市が選出されたが、盛岡市と松江市、私は同じ雰囲気を感じる。2市とも、県庁所在地としては人口も少なく、一般的には、地味な(失礼)印象の街ではあるが、私は2つの街に共通な質実で洗練された高い文化を感じる。(「ニューヨークタイムズと盛岡」については2月20日から当ブログで6回連載)

 唯、違いもある。全くの私見で恐縮だが、文化の形成された過程が違うのではないかと思う。盛岡市の文化は、旧制盛岡中学、盛岡第一高等学校のOBである、宮澤賢治、石川啄木、舟越保武、松本竣介、金田一京助、、、といった錚々たるメンバーたちにより、明治期から昭和期にかけて形成された。一方で松江市のそれは江戸後期から明治中期にかけての二人の傑出した文化人、「松平治郷(以下不昧公)」と「小泉八雲」によって創られたと思う。

松江城天守閣

 小泉八雲については明日後編でお話しするので、前編の今日は不昧公についてお話ししたい。不昧公は地元の松江で今も人気絶大だ。その理由は二つある。一つは、彼が先代達の浪費によって藩の財政がボロボロになったときに藩主となり、様々な産業振興策によって藩の財政を見事に立て直したこと。消極的な倹約策に頼ることなく、積極的に改革派の人材を登用、任せるべきは任せて、現代まで繋がる地元産業を育成したことだ。

 もう一つの理由は、茶人としての不昧公の功績である。彼は江戸時代を代表する茶人の一人だ。それも単なる茶人ではなく、彼は茶事に関するあらゆる物(茶道具、茶室などの建築、銘菓等々)に精通し、松江の茶道を体系化、そして産業化し、それらについての著書も多く残した。

 但し、晩年の不昧公には茶道に打ち込むあまり、全国的な茶道の銘器を蒐集、折角立て直した財政を自ら大散財してまた悪化させたとの批判が付き纏う。でも、不昧公贔屓の私は、そうした批判を良しとしない。彼には戦略があったのだ。

 「江戸から遠く離れた小さな松江の街が生き残っていくためには、産業振興だけでは限界がある。何か他の地方には無く、他の地域からリスペクトされる「ブランド」が必要だ。それは茶道に代表されるような「文化」かもしれない。そのためには多少の散財は必要経費だ、、、」と。そしてその戦略は成功した。「不昧流」「不昧公好み」と言う言葉に代表されるように、松江の茶道は「全国的なブランド」になり、松江の街は「文化の街」として生き残っている。

 従ってもし来年、ニューヨークタイムズが「訪れるべき街」に松江を選出したら、それは不昧公の功績に他ならない。(松江は、近所に出雲大社(昨日のブラグに掲載)という頼もしい味方もいる。選出は有力だと本気で私は考えている。)

 最後にそんな松江の朝の光景を詠んだ私の漢詩(五言絶句)をお届けする。松江の朝と言えば宍道湖の蜆漁!不昧公も毎朝松江城の天守閣の上から(冒頭の写真のアングルで)宍道湖を眺め、「今日の漁獲量は如何?」とチェックしていたような気がする。






 

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