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《写真漢詩・俳句》四長、読者の皆様に感謝する。

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    漢詩は我が『仙台堀日記』ゆかりの 仙台藩藩祖・伊達政宗公の漢詩「馬上少年過」(※リンク) をオマージュして詠んだ五言絶句だ。現在の私の心境である。今日は、先ずは、この漢詩からはじめて、読者の皆様に私の大変我儘な報告をさせて頂く。  報告は「『仙台堀日記』を暫く休刊する。」というものだ。『仙台堀日記』、今年の1月21日にリリースして以来、毎日更新して、本日で300回目を迎えた。拙い写真、拙い詩歌、そして拙い文章にも関わらず、長く(全然長くないが、本人はそう感じている)続けてこられたのは、偏に読者の皆さんのお陰である。  何故、休刊にするのか?余り深い理由はないが、敢えて言わせて貰えば、「『達成感』とまだ他に『やりたいこと』がある。」ということに尽きる。この感覚があるうちに休刊にして、先に進みたいということである。(要は「四長は、本当に我儘な奴だ。」ということである。)  達成感については、御礼を兼ねて報告する。『①発信』『②アーカイブ』『③集中力』の3点についての達成感だ。  『①発信』については、大変大袈裟且つ生意気な言い方で恐縮至極だが、 過去に撮った写真、作った詩歌、にもう一度息吹を与え、広く世界に発信出来た と思っている。特に詩歌については昨年1年間で創作した500作を、ほぼほぼ300回のブログで発信出来た。望外の喜びとしか言いようが無い。写真は約7年間撮り溜めたものから相当の枚数を発信できた。(『仙台堀日記』は途中から始めたTwitter(現X)の力も借りて、昨日までに全世界で16万回のプレビューがあった。もし『仙台堀日記』が無ければ、詩歌も写真も完全に死蔵されたに違いないのだから嬉しい限りだ。)  次に『②アーカイブ』について、辞書で引けば「アーカイブ」とは、「消したくないデータを専用の記憶領域に整理して保存すること」とある。これも大袈裟な物言いだが、『仙台堀日記』を始めたことで、 私のこれまでの人生の「アーカイブ」が出来た と思っている。ブログ『仙台堀日記』の左上のメニュー表示をタップ頂くと、ブログの記事の分類が出てくる。「漢詩」「短歌」「俳句」といった分類があり、その下に「連作」「海外」「アート」といった項目がある。更にそれらをタップして頂ければ、幾つかのシリーズが出てくる。旅シリーズであれば、旅先ごとに整理されている。  つまり、 私にとって

《写真俳句》四長、新宿御苑で『新宿鮫』との対決が甦る。

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  「新宿御苑」である。昨年の秋訪れた。私が俳句が苦手なことは、このブログでも何度か書いたが、此の句は気に入っている。写真の力が殆どかもしれないが、切れ味が良いと自惚れている。(基本的に自作への評価は甘い方だ。)  「新宿御苑」は「御苑」である。「御苑」とよく混同される「恩賜公園」は、「上野恩賜公園」「浜離宮恩賜公園」「井の頭恩賜公園」とか、江東区にも「猿江恩賜公園」と幾つもある。そして所有権は天皇陛下から既に自治体等に下賜されている。  一方「御苑」は、今も宮内庁即ち天皇陛下の所有である。此処「新宿御苑」の他には「皇居東御苑」「京都御所御苑」の三つしかない。他の二つが「御所」に付属した庭園であることを思えば、「新宿御苑」が特別に有難い場所であることがよく分かる。  その有り難さ故か、「新宿御苑」は滅多に小説等に登場しない(アニメでは新海誠監督の「言の葉の庭」が有名だが)。私の知る限りでは、ハードボイルド作家・大沢在昌の人気シリーズ「新宿鮫」のみである。  「新宿鮫」は新宿署の鮫島刑事を主人公とする警察小説。映画化(滝田洋次郎監督)もされ、主演の真田広之がその年の日本アカデミー賞を受賞した。NHKのドラマでは舘ひろしが主人公・鮫島を好演し、人気シリーズとなった。  その作者・大沢在昌氏、実は私と不思議なご縁がある。先方は全く知らず、私も最近知ったご縁である。私がどうやってそのご縁を知ったのか?それは三年前の私の実家の整理のときに遡る。私の高校時代の学園祭のパンフレットを発見!その中身を読んでいると、突然、その不思議なご縁が私の目の前に現れた。  パンフレットの中に、大沢在昌氏 の名前を見つけたのだ。直ぐにググれば、彼は私と同じ名古屋の東海高校出身、学年は私の一年下とある。大沢在昌はペンネームではなく本名とある。であれば、これはもう、あの大沢在昌氏に間違いない。  名前が載っていたのは、学園祭の「演劇大会」のページ!彼は大会に脚本家として参加していたのだ。そして実は、この私も脚本家として参加!何と私は天下の大沢在昌氏とあの「新宿鮫」(ジョーズみたいな)と脚本対決していたのだ。   私は三年D組で、演目「新説古事記伝・ハチのムサシは生きている」の脚本・演出だ!。彼は二年I 組で、演目「貴方は気がつきましたね」の脚本・演出にナレーションだ!。  今、パンフレットを読むと、

《写真短歌》四長の『酒・四季物語』(旨い酒を飲むために、、、)

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   サラリーマン時代、私は「酒が強い」と呼ばれた。その時代、まだまだ昭和の名残りが色濃く、「酒が強い」というのは、男の勲章だった。(健康診断のγ-GTPの高さを自慢し合っているような時代だった。)  当時は、会社で飲みに行けば、一次会では終わらない。二次会は当たり前、三次会もそんな珍しい話ではなかった。必然、終電はもう無く、皆んなタクシーに分乗して帰還したものだ。  三次会まで行けば、ドラマも生まれる。今考えれば、信じられないような事件も、、、酒に強いと言われた私は大概起きた事件は記憶していた。今も時々思い出す。幸い懐かしい思い出が殆どだ(勿論、時間が美化してくれた)。  唯、そのときの「酒の味」を思い出せない。二次会、三次会に至ってはどんな種類の酒を飲んでいたのかすら全く覚えていない。「酒に強い」という勲章の意味は、恐らくは「酔わないように、酒を殺して飲んでいた」ということかもしれない。少し勿体無かったかな、、、   でも、リタイア後の今は違う。飲んだ「酒の味」はしっかり覚えている。どんなワインを、どんな日本酒を飲んだのか、何杯目に何を飲んだか迄覚えている。過去半年分くらい、書き出せと言われれば、正確に書き出せると思う。  そして私は、遂に「究極の酒を旨く飲む極意」を習得した。酒の旨さを左右する変数は色々ある。「飲む酒の種類」、「飲む酒の値段」、「酒を飲む場所」、「酒を入れる容器」、「酒を飲む相手」etc、etc、、  例に挙げたどの変数が、一番「酒の味」に影響するか?と問われれば、どれも一票入れたくなる変数だ。しかし、正解は別にある。一番「酒の味」に影響する変数は「酒を飲むときの健康状態」だ。体調の悪いとき、無理矢理飲む酒ほどまずい酒は無い。二日酔いの日の迎え酒なんて、私は旨いなんて思わない。   それ故、私の極意は「酒を旨く飲むために、健康に留意する。」だ。充分な睡眠、適度な運動、その日の旨い酒には欠かせない。私はそのための努力を厭わない。精神状態の安定も絶対必要だ。飲む前に誰かと言い争うなんて愚の骨頂だ。私は旨い酒を飲むためなら、大概のことは我慢出来る。私は大人だ。  そして私は、飲酒については、長期的視野も持っている。γ-GTPも、血圧も、血糖値も、長いこと旨い酒を飲むためには重要な指標だ。私は、それら数値改善のため人間ドックの 直前だけは 、 禁酒する

《写真漢詩》『三都物語』の復活はアリだ。(神戸吟行シリーズ3)

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   神戸のオリエンタル・ホテルのカフェからの眺めだ。神戸の街は、海と山が迫り自然も身近だ。古くからの港街で異国情緒も漂い、その お洒落な風情は誰もが憧れた。一生のうち一度は神戸に住みたいと思ったのは、私だけではない筈だ。  そんな神戸について、最近、少し淋しい残念なニュースを聞いた。2023年10月1日時点の推計人口が150万人を下回ったというものだ。  オマケに久元喜造市長が「人口が今後増加に転じる可能性は殆ど無い。」と述べたという。大変正直な市長ではある。神戸市については「市営地下鉄海岸線」や「神戸空港」の利用者数が予想を大きく下回り、「神戸ハーバーランド」の核テナントの撤退、「新長田駅前再開発」の失敗など、暗いニュースが確かに多い。悲観的になるのも無理もないが、政令指定都市のトップとしては、些か淋しい発言だと私は思う。 居留地       実は大都市の人口減少は、何も神戸市だけの話では無い。同じ関西の京都市も1970年の142万人が、2023年は138万人に減少している。大阪市も70年の298万人が、23年には274万人に減少している。  唯、京都も大阪も、現在ではインバウンドの外国人観光客で溢れ、人口減少を感じさせない賑やかさがある。それに比べると同じ関西圏の大都市として、神戸の元気の無さは少し気になるところだ。 神戸・中華街     私は、こうなったら「アレ」を復活させるしか無いと思っている。(いつもの独善的意見だ。)私が考える「アレ」とは、1990年に開始されたJR西日本の観光キャンペーン「三都物語」!この復活である。  関西圏の京都・大阪・神戸の三都市をセットにして、今度は自治体主導のキャンペーンとして展開させるのである。「千年の古都・京都」「食い倒れの街・大阪」「異国情緒溢れる港街・神戸」、それぞれ異なる個性を持った三つの大都市!バラ売りでも十分行けるかもしれない。でも、セットとなれば最強だ。相乗効果は相当なものがあると思う(特に神戸はメリットが大きいのでは)。  この「三都物語」キャンペーン、90年代は国内向け企画だけだったが、かなり盛り上がったのを記憶している。5年続いたが、1995年に終わった。阪神・淡路大震災である。その後は震災復興キャンペーンが優先する。当然だ。  でも、あれから28年!もう復活させても良いのでは。今度はインバウンド向け「

《写真漢詩》京都吟行シリーズ(21)徳川慶喜のリベンジ(二条城&小御所)

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    京都吟行シリーズの最終回(一応)にあたり、京都の幕末・維新の現場を詠んだ二つの七言絶句を載せる。写真は「大政奉還」の二条城と「王政復古」の京都御所内の小御所である。この後、京都は東京に日本の首都の座を譲った。  慶應3年(1867年)10月の「大政奉還」と12月の「王政復古」、改めて確認すると、その間は、僅か2ヶ月しか無い。しかしその2ヶ月で歴史の舞台は大きく動いた。主役は、勿論、徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜だ。  慶喜は「大政奉還」と言う大方の予想を裏切る奇策で、倒幕派の機先を制し優位に立った。しかし、それも束の間、慶喜不在の小御所会議で、岩倉具視・西郷隆盛・大久保利通などの画策により、「王政復古の大号令」を出されてしまう。慶喜は政権から突然排除されてしまった。 二条城   この時代を描いた多くの書物では、その後も慶喜は諦めず巻き返し策を試みたとされる。でも、どうだろう。私は慶喜は、起死回生の大政奉還が功を奏せず、王政復古の大号令となった段階で、すっかり方針転換していたと思う。  もう徳川幕府への執着は捨て、幕府解体はやむを得ないと考えたに違いない。あとは自ら考えた三つの方針だけ守ろうとしたと思う。その三つとは「①徳川家の都・江戸を戦火から守る。②未来永劫、徳川家が朝敵になることは避ける。③徳川の家の血筋を絶やさない。」だ。そのためには多少の屈辱は受け入れることにした。  屈辱は仕方ない。でも名誉の討ち死にや自刃なんてとんでもない。長生きして維新政府、岩倉や西郷や大久保や木戸が、そして朝廷が本当に徳川無しでやって行けるか、お手並み拝見だ。  三方針のうち、先ず①が勝海舟の頑張りで早々に解決!江戸は燃えなかった。②も早くも明治5年、慶喜の官位は復活、永遠の朝敵になることは免れた。③に至っては、もう大成功!維新後、慶喜は子作り(側室(30名いた)たちとだが)に励み、何と10男11女をもうけた。  これは正式に認知された数で隠し子も入れれば、相当な数の子孫を残したと想像する。徳川の血筋は絶えるどころか、大繁栄(血脈は、皇族、華族、財閥、政界、宗教界等々に拡がる)した。(十一代将軍徳川家斉の子供53人の徳川ギネス記録に迫る。実は超えていたかも知れない。) 京都御所内・小御所  明治の世、慶喜は趣味(狩猟・ビリヤード・写真、最後はドライブ等々)と子作りに明け暮れ、予

《写真漢詩》京都吟行シリーズ(20)四長、京のラビリンスを彷徨う。

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    京都の街は、平安京の大路小路による区割りが今も残り、「碁盤の目」と呼ばれている。したがって、通りの名称さえ覚えれば、観光客でも道に迷うことは無いとされている。でも、通りの名前を覚えるのは大変だ。殆どの通りが固有の名称を持ち、その数はかなりのものだ。  京都通の友人は簡単に言う。「童歌で覚えれば簡単ですよ。歌は色々ありますが『丸竹夷』がお勧めです。」 その『丸竹夷』は、こんな感じだ。 上は「京都子ども情報館」の栞より、まだまだ続きがあるみたいだ。     冗談じゃない。落語の「寿限無寿限無」ほどではないが、難しい。脳が柔軟な子供ならともかく、前頭葉が萎縮しつつある70歳目前の老人には、記憶するのは不可能に近い。今は童歌は参考情報として、地図とGPSを頼りにして歩いている。    ところで、冒頭の漢詩だが、私が「京都の街は迷宮(ラビリンス)だ」としているのは、通りの話ではない。もっと狭く、地割の内部にアクセスする「路地(「ろーじ」と発音)」や「図子(ずし)」のことだ。  「路地」の殆どは「袋小路」で通り抜け出来ない、一方で「図子」は通り抜けが可能、名前が付けられ地図に載っているのもある。道幅は人の擦れ違いが出来ないものから、車が本当にギリギリ入れるものまで様々だ。恐らくは私有地が殆どであり、通行人も自然と無言で通り抜ける。(声が聞こえるとドキッとする。)  その「路地」や「図子」が何故「迷宮(ラビリンス)」なのか?私の答えは明快だ。 消える のである。「前は此処に「路地」があったのに、、、」その「路地」が見つからないなんてことはしょっちゅうだ。  逆に、「こんな「路地」前から此処にあったっけ」てなことも、私にはよくある。そして素敵な隠れ家のような店に限って、そんな「路地」にあったりするから厄介だ。      こんなこともあった。会社の仕事で2泊3日の出張、京都に泊まった夜の出来事だ。最初の夜、同僚と別れた後、ひとり迷い込んだ「路地」の突き当たりに素敵なバーを発見!入店するとカウンターの向こうに京美人のママがいた。赤いドレスがお似合いだ。私を見て妖艶に微笑む、、、勧められるままに赤い色のカクテルを2、3杯、気持ち良く飲む。そして千鳥足でホテルに帰還、、、  翌日、もう一度その店へ行こうと捜すが、どうしてもその店が見つからない。散々歩いて、漸く此処だと見当をつけて、

《写真漢詩・短歌》日本の夜を変える。石井幹子『浅草寺夜景』

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   照明デザイナー・石井幹子の代表作の一つ、「浅草寺夜景」だ。私が最初に石井幹子を認識したのは、1995年、NHK衛星放送の「わが心の旅 フィンランド 光の夢」を見たときだ。  当時私は「わが心の旅」のテーマ曲(立原摂子・作曲)が大変気に入っていた。毎回、番組冒頭に流れるこのテーマ曲をしっかり聴き、番組自体は途中で失礼してしまうのが大半だった。でも、この石井幹子の回は鮮明に覚えている。  大まかな内容は、「彼女は、若い頃、日本の照明(と言うか日本の夜景?)に大いに疑問を持ち、答えを求めて北欧へ旅立つ、そして『ある答え』を見出す、、その軌跡を何十年後に再び辿る。」と言うものだった。    正に「わが心の旅」で心に沁みる番組だった。そして、私はこの番組を見て、日本の夜の照明が少しづつ素敵になっているのは、彼女の仕事であったことを初めて認識した。   そう言えば、、、あの頃、私も思ってはいた。 「最近、なんか東京タワーや東京駅、レインボーブリッジ、歌舞伎座等々のライトアップが急にセンス良くなっている気がする、、、」 「東京の色々な建物が穏やかな光、温かみのある光に包まれて、夜の闇の中から浮かび上がっている気がする。前からこうだっけ、、、」ってな感じには思ってはいた。  でも。一方で、それはそれまで照明の違いなんて真剣に見ていなかったので、気が付かなかっただけだろうとも思っていた。  しかし、そうではなかった。一人の女性デザイナーが、一つ一つ変えていたのだ。もう現代では違うだろうけれど、あの頃彼女には、素敵な照明を企画することよりも、苦労したことがあったそうだ。ライトアップする対象の建造物の所有者を納得させることだ。でも、その苦労のお陰で、東京の夜は、美しくなった。東京だけではない、大阪も京都も、、、日本の夜が、格段に。  ところで、前述の「わが心の旅」で彼女が見つけた「ある答え」って何なのか?実は番組の中では、彼女は答えらしきものを見出したとは言ってはいるが、その答えの内容は明確にしてはいなかった。答えは作品を見て判断してくれということだろう。それも納得だ。  でも私は、最近あるインタビュー記事で、彼女がその答えを話しているのを見つけてしまった。それは「日本人の月明かりへの憧憬」だ。  彼女曰く「満月の夜はこよなく美しい。まち全体を照らす満月の清らかな光を大切に、それを

《写真短歌》京都吟行シリーズ(19)水琴窟から遠州の声が聞こえる。(瑞厳山・圓光寺2)

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圓光寺    一見、水を張った手水鉢に、すっかり紅葉した大ぶりのもみじの葉を浮かべ、目に美しき一枚の写真である。しかし、この手水鉢の真骨頂は鉢の下にある。鉢の地下部分が「水琴窟」となっている。「水琴窟」と聞くだけで、澄んだ小さな水音聞こえてくる気がする。目にも、耳にも美しき一枚の写真なのだ。  近頃は何でもランキング時代、頼みもしないのにネットの中で順位付けされる。上の写真も例外ではない。「京都で聞きたい水琴窟ランキング」の見事第1位、「圓光寺の水琴窟」である。 圓光寺   「水琴窟」の始まりは、安土桃山〜江戸時代初期。明治時代には、個人邸の庭にも盛んに用いられたが、その後すっかり寂れ、名前さえ聞かなくなり忘れ去られていた。ところが、昭和の終わりにあるテレビ番組で取り上げられると大ブームとなった。水琴窟のある寺や庭園にどっと観光客が訪れた。かく言う私もその一人、新しく作られた庭園の水琴窟の音色に感動した覚えがある。「誰が、この仕組みを考えたのだろう?世の中にはセンスの良い人がいるな!」と、、、  「水琴窟」は誰が作ったか?正確なことはわからないようだ。でも、当時、大名茶人として名を馳せた「小堀遠州」だという説が有力だ。何でも当時の古書に「小堀遠州」が師匠筋の「古田織部」に水琴窟の仕組みを説明するくだりがあるそうだ。 圓光寺   「小堀遠州」と「古田織部」。ともに戦国時代→安土桃山時代→江戸時代を生きた大名茶人である。千利休の流れを汲みながら、信長・秀吉・家康と時の最高権力者が変わっても、常に権力者の側にあり重用された。権力者はいつの世も我が儘だ。茶器など道具の謂れなど古いものを有り難がっているかと思えば。飽きっぽいところもある。側に侍って、故事来歴だけを話しているだけでは、捨てられる。捨てられるだけならまだ良いが、権力者の気分次第で、殺されることさえある。(権力者は猜疑心も強い) 「飛雲閣」(安土桃山時代、秀吉の政庁兼住居「聚楽第」の楼閣、現在では西本願寺境内に移築されている。)   そうか、遠州も織部も大変だ。新基軸も考えないといけない。そこで、ある情景が頭に浮かんだ。時は安土桃山時代、場所は京都の聚楽第の庭、秀吉に遠州が何か説明している。側には家康も織部も侍っている。遠州が秀吉に囁く「太閤殿下、これが私の造った『水琴窟』でございます。此処に水を垂らせば、あや不思

《写真漢詩》京都吟行シリーズ(18)家康は何故墓に歯を入れたのか?(瑞巌山・圓光寺)

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    京都、一乗寺小谷 の名刹「瑞巌山・圓光寺」である。山門を潜ると見事な枯山水の奔龍庭が迎えてくれる。門前に掲げられた由来板によれば、開基は徳川家康。家康が国内教学の発展を図るため、学校を開いたのが始まりとある。また、此処を拠点として「孔子家語」「貞観政要」など多くの書籍を刊行、それらは「圓光寺版」と称されたそうだ。そして由来板の最後の方に、境内に家康の歯を埋葬した墓があることが記してある。   私は徳川家康が、戦国の世を最終的に征し、徳川幕府を開くことが出来た最大の要因は、彼が空前絶後の読書家であったことだと思っている。私の故郷・名古屋に蓬左文庫がある。文庫の始まりは、尾張徳川家が家康から譲り受けた膨大な書籍である。高校生の頃は、徳川家康は本を集めるのが趣味だったのだろうくらい思っていたが、最近は違ってきた。家康はその膨大な数の本の殆どを、実際に読んでいたのではないかと思うようになってきた。家康はきっと速読が出来たのだ。(蓬左文庫だけではない。家康の蔵書と称されるものは他にも大量に存在する。)   家康は幼い頃、織田家や今川家の人質になった。そして孤独を癒すために、自然と読書の習慣が身に付いた。以来、唯一本だけが、家康の本当に信頼できる師であり友となったのだろう。それ故、軍事・内政・外交等々、次々と「どうする家康!」と重大な判断を求められたときも、家康は膨大な読書量から構築した自らの脳内のデータベースから、その事案の最適解を導き出すことが可能だった(まるで将棋の藤井八冠が最善手を打つ様に)。そんなふうに思うようになってきた。(家康の儒学・兵学・歴史などの漢籍の知識は半端ではない。当時の最高の知識人である禅僧の遥か上を行っていた様だ。(但し、詩歌等文学系は全く興味無かった。))   そんな読書大好きな家康、自ら開いた国内教学の最重要拠点この圓光寺には、かなりの思い入れがあったのだろう。自ら指示して日光東照宮、久能山の他に、此処圓光寺にも自分の墓を建てることにした。でも何故「歯」を入れたのだろう?謎だ!(私の知る限り不明だ。もし、ご存知の方がいれば教えて欲しい)。しかし、家康のことだ、それには深い意味があったに違いない。きっと蔵書の中の何処かにその答えが書いてある気がする。唯、現在、家康を上回る読書家はいない。誰も理由は分からないので説明も出来ない。私は思う。「い

《写真俳句》生きた化石は何を語るのか?(仙台堀・メタセコイアの森)

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   仙台堀川公園の「原始の森」、生きた化石と言われる落葉針葉樹「メタセコイア」である。11月になっても夏日が続くなど異常気象ではあるが、見上げれば、少しづつ色が濃くなっている。「メタセコイア」の名は「メタ」と「セコイア」を合体させたもの。接頭語の「メタ」は「超えた」とか「高次元」とか、色々な意味を持つ。一方「セコイア」は巨大な常緑針葉樹で、樹高115mに達するものが報告されるなど、現生の生物の中では地球上で最も背が高いと言われている。米国の西海岸の国立公園などに自生、米国人が好きな樹の一つである。すると「メタセコイア」は「セコイア」を超えて高くなるのかと驚いたが、この場合の接頭語「メタ」は「後の」とか「別の」の意味で使われていると知り納得した。 新緑のメタセコイアの森   この「メタセコイア」を発見したのが日本人であることを最近知った。京都大学で古代のフロラを研究していた三木茂博士だ。和歌山県橋本市の第三紀の地層から、新種の植物遺体(化石)として発見した。博士は化石から、葉・枝・球果などを類推、論文にして世界に発表した。1941年のことだ。  ところが、事態は急変する。1946年、絶滅したと考えられていたメタセコイアの生存木が中国の湖北省で発見された。三木博士が研究から類推、論文に記載したのと寸分違わぬ姿で、、、、博士の研究は世界中で賞賛され、メタセコイアは「化石」から「生きた化石」に変身した。  何処かで見た聞いたようなシーン!そう前回のNHKの朝ドラ「らんまん」に出てきそうなシーンである(出てこなかったと記憶している)。 前にこのブログで書いた「植物細胞学」の池野成一郎! そして「古代フロア」の三木茂!日本の植物学、牧野富太郎だけではない!正に「らんまん」だ。 12月のメタセコイアの森   毎度の蛇足だが、「メタセコイア」の命名者も勿論発見者・三木茂博士だ。シンプルな命名だが、キャッチーな響きで、その名が胸に刻まれる。80年経っても色褪せない。私はザッカーバーグが社名を「フェイスブック」から「メタ」に変えたと聞いたとき、「メタバース」よりこの「メタセコイア」が胸を過った。 P.S. 本日は、暦の上では二十四節気の「立冬」だ。昨日東京は最高気温28°Cの夏日、秋を完全に飛ばして、冬が立った。

《写真漢詩》四長、鳥が嫌いなのに鳥になる。(佐賀インターナショナルバルーンフェスタ)

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   一昨日?このブログ で中島みゆき作詞作曲の「この空を飛べたら」のことを書いた。内容はハングライダーに乗れば、鳥の様に空を飛べるという話だった。書いたときは忘れていたが(完全に歳を取ったせいだ、危機的だ。)、実は私も鳥になったことがある。いや、空を飛んだことがある。忘れもしない(忘れていたが)2015年11月1日、佐賀のインターナショナルバルーンフェスタでバルーンに乗ったのだ(正しくは、乗せてもらったのだ。)  バルーンに乗るまで知らなかったが、「バルーンはれっきとしたスカイスポーツ競技!」バルーン操縦の正確さや飛行距離に加え、タスクと呼ばれる種目をクリアすることを競う。そのため、朝一番の競技バルーンの離陸のときは、河川敷も緊張感に包まれる。バルーンを膨らませるため、バーナーで熱風を送り込むときは、結構音も凄まじく、F1 のコックピットのようだ。   勿論、私の乗せて貰ったバルーンは、観戦用のバルーンなので周りの緊張感も然程ではなかったが、別の問題があった。そのバルーンが飛ぶのか、飛ばないのか、ギリギリまで分からなかったのだ。私も高所恐怖症ではあるが、空を飛べる機会など滅多に無いと、悲痛な覚悟(オーバーだ)を決めて東京から来た。何としても乗りたい。 鳥は嫌い(※リンク) だが、鳥になりたいと思ったが、なかなかOKが出ない。聞けば佐賀は風が複雑で、バルーンを飛ばすのは結構危険が伴うとのことだ。一瞬、なんでそんな危険な場所でやるのか?と思ってしまったが、冷静になれば分かる。   「バルーンは、れっきとしたスカイスポーツ競技!」だからだ。バルーンは基本的には「風まかせ」、上昇と下降は操作できるが、左右の動きは風を読むしかない。会場の佐賀平野上空は風の層がいくつも重なり、パイロットの風を読む技量が試される空、世界屈指のバルーン競技に適した空なのだそうだ。我々をゲスト(素人)を乗せるバルーンの飛行判断に時間がかかり、慎重になるのは当たり前だ、、、とかなり謙虚になった私に、悪運強くOKが出た。バルーンが真っ直ぐに上昇する。みるみるうちに地上で見送ってくれた人たちが小さくなる。私も鳥になった。漢詩も出来ました。

《写真短歌》四長、海無し(長野)県で海を見た。(白馬・秋・4)

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  先日のブログ で、唐松岳の第1ケルンからの眺めを紹介した。眼前に白馬三山が迫り、「メメント・モリ」さえ実感するという内容だった。でも、それはケルンから西の眺め、回れ右をして東側を眺めると景色は変わる。遥か遠方には越後の高い山並みが見えるが、その間には低い山並、そして細長い低地が、回廊の様に北から南に貫いている。   地図で示すと、こんな感じ、回廊はJRの大糸線が走っているその場所だ。実はこの回廊こそが、「フォッサマグナ」の西縁、糸魚川ー静岡構造線である。「フォッサマグナ」とは、ラテン語で「大きな溝」という意味だ。明治の初め、政府の招きで来日したドイツの地質学者・ナウマン博士が発見した。大昔、本州のど真ん中に「大きな溝」があり、そこに海水が流れ込んでいたというのだ。そう。海峡があった、、、   小学生だったか、中学生だったか忘れたが、最初にこの「フォッサマグナ」のことを聞いたときは結構ショックだった。「フォッサマグナ」の名前も何処かキャッチーだったが、本州のど真ん中に海峡があったということは衝撃的だ。津軽海峡や関門海峡よりずっと大きくて長い海峡があった。本州のど真ん中に。この溝・「フォッサマグナ」は、現代においては眼に見える地形的な溝ではなく、地質的な溝だということはわかっていた。叶うはずはない!でも私はそれを見たいと思っていた。   あれから50年以上経った。すっかり忘れていたが、このケルンに立ったとき、急に思い出した。あの遠くに見える越後の山並みと、自分が今立っているこのケルンの間に、大昔、大きな海峡があったことを、、、目を閉じて、想像力を全開すれば海峡が見える、そして、何処から歌も聞こえる、、、「信濃海峡秋景色」か、、、