《写真漢詩》京都吟行シリーズ(18)家康は何故墓に歯を入れたのか?(瑞巌山・圓光寺)

   京都、一乗寺小谷の名刹「瑞巌山・圓光寺」である。山門を潜ると見事な枯山水の奔龍庭が迎えてくれる。門前に掲げられた由来板によれば、開基は徳川家康。家康が国内教学の発展を図るため、学校を開いたのが始まりとある。また、此処を拠点として「孔子家語」「貞観政要」など多くの書籍を刊行、それらは「圓光寺版」と称されたそうだ。そして由来板の最後の方に、境内に家康の歯を埋葬した墓があることが記してある。


 私は徳川家康が、戦国の世を最終的に征し、徳川幕府を開くことが出来た最大の要因は、彼が空前絶後の読書家であったことだと思っている。私の故郷・名古屋に蓬左文庫がある。文庫の始まりは、尾張徳川家が家康から譲り受けた膨大な書籍である。高校生の頃は、徳川家康は本を集めるのが趣味だったのだろうくらい思っていたが、最近は違ってきた。家康はその膨大な数の本の殆どを、実際に読んでいたのではないかと思うようになってきた。家康はきっと速読が出来たのだ。(蓬左文庫だけではない。家康の蔵書と称されるものは他にも大量に存在する。)


 家康は幼い頃、織田家や今川家の人質になった。そして孤独を癒すために、自然と読書の習慣が身に付いた。以来、唯一本だけが、家康の本当に信頼できる師であり友となったのだろう。それ故、軍事・内政・外交等々、次々と「どうする家康!」と重大な判断を求められたときも、家康は膨大な読書量から構築した自らの脳内のデータベースから、その事案の最適解を導き出すことが可能だった(まるで将棋の藤井八冠が最善手を打つ様に)。そんなふうに思うようになってきた。(家康の儒学・兵学・歴史などの漢籍の知識は半端ではない。当時の最高の知識人である禅僧の遥か上を行っていた様だ。(但し、詩歌等文学系は全く興味無かった。))


 そんな読書大好きな家康、自ら開いた国内教学の最重要拠点この圓光寺には、かなりの思い入れがあったのだろう。自ら指示して日光東照宮、久能山の他に、此処圓光寺にも自分の墓を建てることにした。でも何故「歯」を入れたのだろう?謎だ!(私の知る限り不明だ。もし、ご存知の方がいれば教えて欲しい)。しかし、家康のことだ、それには深い意味があったに違いない。きっと蔵書の中の何処かにその答えが書いてある気がする。唯、現在、家康を上回る読書家はいない。誰も理由は分からないので説明も出来ない。私は思う。「いつの日かAIが、家康の全ての蔵書を読み込んだとき、歯を此処の墓に入れた理由が判明するかもしれない。」と。そんな日が早く来ることを祈っている。


 

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