《写真漢詩》京都吟行シリーズ(21)徳川慶喜のリベンジ(二条城&小御所)


 

 京都吟行シリーズの最終回(一応)にあたり、京都の幕末・維新の現場を詠んだ二つの七言絶句を載せる。写真は「大政奉還」の二条城と「王政復古」の京都御所内の小御所である。この後、京都は東京に日本の首都の座を譲った。

 慶應3年(1867年)10月の「大政奉還」と12月の「王政復古」、改めて確認すると、その間は、僅か2ヶ月しか無い。しかしその2ヶ月で歴史の舞台は大きく動いた。主役は、勿論、徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜だ。

 慶喜は「大政奉還」と言う大方の予想を裏切る奇策で、倒幕派の機先を制し優位に立った。しかし、それも束の間、慶喜不在の小御所会議で、岩倉具視・西郷隆盛・大久保利通などの画策により、「王政復古の大号令」を出されてしまう。慶喜は政権から突然排除されてしまった。

二条城

 この時代を描いた多くの書物では、その後も慶喜は諦めず巻き返し策を試みたとされる。でも、どうだろう。私は慶喜は、起死回生の大政奉還が功を奏せず、王政復古の大号令となった段階で、すっかり方針転換していたと思う。

 もう徳川幕府への執着は捨て、幕府解体はやむを得ないと考えたに違いない。あとは自ら考えた三つの方針だけ守ろうとしたと思う。その三つとは「①徳川家の都・江戸を戦火から守る。②未来永劫、徳川家が朝敵になることは避ける。③徳川の家の血筋を絶やさない。」だ。そのためには多少の屈辱は受け入れることにした。

 屈辱は仕方ない。でも名誉の討ち死にや自刃なんてとんでもない。長生きして維新政府、岩倉や西郷や大久保や木戸が、そして朝廷が本当に徳川無しでやって行けるか、お手並み拝見だ。

 三方針のうち、先ず①が勝海舟の頑張りで早々に解決!江戸は燃えなかった。②も早くも明治5年、慶喜の官位は復活、永遠の朝敵になることは免れた。③に至っては、もう大成功!維新後、慶喜は子作り(側室(30名いた)たちとだが)に励み、何と10男11女をもうけた。

 これは正式に認知された数で隠し子も入れれば、相当な数の子孫を残したと想像する。徳川の血筋は絶えるどころか、大繁栄(血脈は、皇族、華族、財閥、政界、宗教界等々に拡がる)した。(十一代将軍徳川家斉の子供53人の徳川ギネス記録に迫る。実は超えていたかも知れない。)

京都御所内・小御所

 明治の世、慶喜は趣味(狩猟・ビリヤード・写真、最後はドライブ等々)と子作りに明け暮れ、予定通り長生きする。彼に屈辱を与えた討幕の立役者、岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允らが、それぞれ余り幸せでない最期を迎えた後も、彼は何十年も長生きした。次の世代の伊藤博文よりも長生きした。

 そして、遂に明治帝までが彼より先に逝去、維新の時代が終わりを告げる。それをしっかり確認するように、彼は大正2年亡くなった。皇太子時代から「ケイキさん」「ケイキさん」と彼を慕っていた大正天皇は「最後の将軍」の功績(戦火を避けた)を讃え、その死を随分悼まれたという。徳川慶喜!日本最大の「敗れざる者」かもしれない。


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