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《写真漢詩》四長、黄昏に金麦を想う。

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 「金麦」のテレビCMが好きだ。柳楽優弥と黒木華の「帰れば、金麦」シリーズである。二人は帰りの電車やバスの中で、脳内全てが金麦(ビール、第3のビール?)に支配される。そして唯々、缶ビールのタブを引っ張る瞬間を想像して、ニヤニヤする。その二人の表情が大好きだ。私もそんな時代があったな。  ビールの旬はいつか?殆どの人は夏って答える。でも、私は何故か、秋のビールが好きだ。暑いときに飲むビールは勿論最高だ。喉越しが堪らない。でも、収穫の秋!大地の恵み、海の幸、山の幸、全て食べ物が美味しくなる秋に飲むビールは美味い。肴が美味いだけでなく、ビール自体が上手くなっている気がするのだ。おかしいな、ビールの原料の麦の収穫期は春なのに。(麦秋という言葉はあるが、春のことだ。) 黄昏どきの仙台堀川公園      理由は解った。ビールの麦と並ぶ主原料のホップの収穫期が8月なのだ。日本であれば、北海道や東北で収穫のときを迎える。ホップは、ビールに香りや苦味を付ける。ビールの味はそのホップの新鮮さによって決まると言われている。そしてビールの醸造は1ヶ月から1ヶ月半かかるので、フレッシュなホップを使ったビールが飲めるのは、9月後半〜10月に なるという訳だ。欧米(最近は日本でも)で盛んに行われる収穫祭&ビールの祭典「オクトーバーフェスト」は正に、この新鮮なホップを味わうためにこの時期に合わせて開催されているのだ。  そんなことを考え歩く、仙台堀川公園はもう夕暮れだ。たった一週間前までは、この時間帯は明るかったのに。段々夜が早くなり、私の足取りも早くなる。そうどんどん早くなる。だって帰れば金麦!家人と二人のオクトーバーフェストだ。 自宅マンション、もう金麦まで10mだ!     大好きな金麦CMだけど、一言だけ言いたい。よくバス停で見かけるポスターのキャッチコピーについてだ。 「行きより帰りは、ちょっとうれしい。帰れば、金麦」 だ。「ちょっと」は明らかに間違っている!数倍だ!イヤ、無限大だ!そもそも比較する方が間違っている!  サラリーマン生活40年、私は行きが嬉しかった日を、数えることが出来る。

《写真漢詩》小田代ヶ原の貴婦人は苦労人だった。(日光吟行シリーズ4)

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   奥日光、 昨日の「戦場ヶ原」(※リンク) に続き、今日は隣の「小田代ヶ原」の話だ。2つの原野の境には広葉樹ミズナラの林があるだけだが、2つの原野の性格は大きく異なる。「戦場ヶ原」はズバリ沼地、湿原である。一方、「小田代ヶ原」は湿原から草原への遷移期にあり、両者の特徴を併せ持つ希少な原野なのだ。昨日の話に拘るようで恐縮だが、この「小田代ヶ原」であれば、大軍の合戦も可能であり、「戦場ヶ原」よりも「戦場ヶ原」に相応しい気がする。  そして、その「小田代ヶ原」の中央部に、一本有名なシラカンバがある。その名も「小田代ヶ原の貴婦人」と呼ばれ、この一本の樹を見るために世界中からファンがやって来る。ミズナラの林を後ろに従え、秋の草原の澄み切った空気の中、白く輝いて見える一本のシラカンバの樹!神秘的でさえある。誰が付けたのかは知らないが「貴婦人」の名に恥じない気品だ。  貴婦人、英語であれば「LADY(レディ)」である。逆に「LADY」の日本語訳を見ると「貴婦人」と「淑女」の二つが出てくる。そうか、「小田代ヶ原の淑女」の可能性もあったかと思ったが、どうもしっくりこない。此処はやっぱり「貴婦人」だ。「淑女」と「貴婦人」の違い、、、ともに「洗練された女性」の意だが、その後に「淑女」は「慎ましく淑やかな女性」とあり、「貴婦人」は「身分の高い女性、高貴な女性」とある。お付き合いするなら、私は断然「淑女」の方だが、このシラカンバの近寄り難い高貴さは「貴婦人」が正解と納得した。     だが、実はこの貴婦人、なかなかの苦労人だった。草原に一本だけすくっと立っているのは、仲間が皆、鹿にやられたのだ。シラカンバの樹皮は鹿の好物の一つ、樹の周りを一周食べられてしまうと、シラカンバは水を吸い上げられなくて枯れてしまうのだ。貴婦人の仲間たちは皆んなウエストあたりを一周食べられて死んでしまった(鹿もあどけない可愛い顔をして結構悪い奴だ)。逆に一周ではなく数センチ、皮が残れば樹は生きられる。貴婦人はその数センチの皮で鹿の襲来の悲劇から生き延びたのだ。  でも、また鹿に襲われないのか?と私は心配になった。鹿は繁殖力が極めて強く、個体数は右肩上がりで増えていると聞く、今度、大群で貴婦人を襲ってきたらどうするのだ、、、地元の人に尋ねれば、現在は対策は取られていると言う。2001年から「戦場ヶ原」と「小田代ヶ原

《写真漢詩》戦場ヶ原で戦ったのは誰だ!(日光吟行シリーズ3)

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   奥日光の戦場ヶ原である。2021年11月に訪れた。山の天気は移ろい易いとはよく言うが、このときも正にそれで、晴れたかと思えば、風が出て暗くなり、ついには雪も降り出す始末、一日の中に四季があるようだった。でもその気象の変化の度に、佇まいを変える湿原を堪能し、満足度の高い旅だった。   私は、このブログでよく花の名前の由来を書いてきた。名前の由来は重要だ。鑑賞する際の深みが変わってくる。地名だって同じ、旅の楽しさがグッと増すときだってある。今日はそんな話。「戦場ヶ原」の名前の由来だ。  私は、まだ戦場ヶ原を訪れたことがない時代、戦場ヶ原の由来は当然「其処が何かの戦さの現場になった」ことから来ていると思っていた。南北朝の時代、栃木県を本拠地とした足利尊氏と誰かとの戦さとか、時代は下って戦国時代に、越後から上杉謙信が攻めて来たとかだ。しっかり調べもせず、適当にそう考えていた。  でも、現地に来れば、すぐ分かる。此処は広大な面積の平坦な地ではあるが、沼だ!湿原地帯だ!ウクライナでも道がぬかるむ季節は戦さは出来ないと言う。此処はぬかるむってレベルではない!ズボズボだ!足を取られて戦えない!関ヶ原の戦いのように、大軍が衝突するなんてあり得ない!   と思っていたら、湿原のガイドブックを見れば答えが分かった。戦ったのは山だったんだ。昔、男体山の神と赤城山の神が、美しい中禅寺湖を自分のものにしようと、それぞれ大蛇と大ムカデに変身して戦ったのだ(蛇とムカデであれば、私は迷わず蛇に軍配をあげる)。壮絶な戦いとなったが、結局、蛇の男体山が勝利した(蛇は飛び道具を使ったようだ。やっぱり蛇は少しズルイ)。  そうか、大蛇と大ムカデであれば、そんなに沼も気にしないので由来はこれかなっと思ったが、所詮、これは蛇とムカデの喧嘩だ。その一対一の喧嘩の場に「戦場が原」とは如何にも大袈裟ではないか?と思っていたら、別の説が出て来た。やっぱり大軍の衝突はあったと、、、  それは、古事記や日本書紀執筆以前の大昔のことだ、この辺りは毛野(ケヌ)国という大きな国の中心だった。そして此処で国を二分する有力豪族同士の衝突があったとの説だ。うーん、どっちだ?本当に戦場ヶ原で大合戦があったのか?無かったのか?と、少々投げやり気味の私は、全く新しい有力説を見つけた。   それはこうだ。「土地の人は、此処が非常に広い原

《写真短歌》四長、モダニズムの館に興奮!(後編・長野県立美術館東山魁夷館)

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   昨日に続き(※リンク) 、モダニズム建築家谷口吉生の話だ、写真は長野県立美術館東山魁夷館である。名前の通り日本画家東山魁夷の作品を所蔵する美術館である。谷口吉生は魁夷の美術館を此処の他に、もう一つ「東山魁夷せとうち美術館」を設計している。魁夷の絵を収める器と言えば谷口吉生と決まっているようだ。その理由は明白、生前の魁夷自身が指名していたんだそうだ。魁夷夫人も大賛成と言うか、夫人の方が「貴方、谷口吉生さん(吉生ちゃん)にお願いしましょう。」と積極的であったとの話もある。   東山魁夷と谷口吉生の縁、これは実は東山魁夷と谷口吉生の父谷口吉郎との深い親交に遡る。昭和39年、谷口吉郎が皇居の東宮御所を設計することに決まったとき、東宮御所の壁画を描くのに決まったのが魁夷だったのだ。それ以来二人は親交を深める。当時千葉県市川にあった魁夷の自宅兼アトリエを、谷口吉郎は何度も訪れるが、そのときは必ず息子吉生を連れて行ったそうだ。(後に吉生は大変可愛がって貰ったと述べているが、夫人にもお菓子なんぞを出して貰ったに違いない。) 東山魁夷「御射鹿池」長野県立美術館東山魁夷館蔵   そこで谷口吉生は、東山魁夷の作品に興味を持ち、成長すると魁夷の展覧会の展示、構成も手伝うようになった。そしてその中で魁夷の作品への理解、魁夷という画家への理解を深めて行った。吉生は突き詰めた。「東山魁夷は最も伝統的な日本画家である。しかし、それだけではない。彼は現代の作家の中で最も独創性と革新性を秘めている。」と。   そして考え続けたに違いない。「もし、将来自分が東山魁夷の美術館の設計を任されたとき、魁夷の作品を生かし切るために、どのような器を提供できるのか?」と、、、そして結論に辿り着く。  美術館開設の日に、谷口吉生はこんな言葉を寄せている。「今回の設計で考えたことは、美術館が展示作品の額縁となることだ。」と。「額縁は絵よりも目立ちすぎては鑑賞の妨げになる。」と。「一方で額縁には絵を守る役目もある。」と、、、その額縁を谷口吉生は完璧に創り上げる。「簡潔な意匠と十分な機能性」を特徴とする モダニズム建築(※リンク) によって、、、 短歌が降りてきた。

《写真短歌》四長、モダニズムの館に興奮!(前編・豊田市美術館)

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  愛知県豊田市にある「豊田市美術館」である。昨秋訪れた。世界的なモダニズム建築家谷口吉生設計の建物を見るために訪れた。正直、美術館の学芸員さんには大変申し訳ないが、企画展や所蔵コレクションには殆ど興味は無く、唯々、その器である谷口吉生の最高傑作を見るためだけに、、、、  建築家谷口吉生は、昭和期の名建築家谷口吉郎(東宮御所・帝国劇場・東京近代美術館を設計、愛知県犬山市の明治村開設にも尽力)の長男。丹下健三氏に師事し、独立後は葛西臨海水族館、国立博物館法隆寺宝物館、土門拳記念館、長野県信濃美術館東山魁夷館等々、そしてニューヨーク近代美術館新館と次々とモダニズム建築の傑作を世に送り出している。   モダニズム建築とは、ル・コルビジェに代表される機能主義、合理主義を体現する建築である。それ以前の様式建築(歴史的な意匠)を否定し、工業生産による材料(鉄・コンクリート・ガラス)特有の構造美(面、線)を追求した。谷口吉郎の作品はその完成形だと私は思う。私は上述した彼の国内の作品は、既に豊田市美術館以外は全て見ていた。豊田市であれば、私の生まれ故郷の愛知県、いつでも行ける。とっておこうと思っていた。   私がこの「豊田市美術館」の建物の外観を、この眼で見たのは少し前のことだ。テレビCM(野村不動産)である。私が毎日見ている朝の経済番組の合間に流れていた。でも、結構長い期間、私は迂闊にも外国の建造物をロケで撮影したものだと思っていた。恐らくは野村不動産の米国にあるマンションか個人邸かと。「凄い建造物だな。でも海外(当時はコロナ禍下だ)、当分行けないな。イヤ、もう一生行くことも無い、見ることの無いな。」と、、、  昨秋、ふとその映像の隅に小さく字が書かれているのを発見、読めば何と「豊田市美術館」とあるではないか!それからの行動は早かったと思う。それが豊田市美術館であるなら、そのときの美術館の企画展が何かなど全く関係ないと、、、直ぐに行かねばと、、、とっておくなどとんでもない。そんなこと言っていたら、見ないで終わるかもしれない。 美術館内、外観とは趣が異なるが、こちらもスタイリッシュだ。  実物は素晴らしかった。CM映像よりもずーっと。見学中は頭の中を、CMのバックミュージック、山下達郎の「NEVER GROW OLD」が流れていた。

《写真漢詩》四長、函館でトルストイに浸る。(函館吟行シリーズ3)

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        昨日のブログ で、函館の街とロシア文化の幸せな関係について書いたが、日本国全体でも1970年代くらいまでは、ロシア文化について憧憬のようなものがあったと思う。トルストイやドストエフスキーの小説は、学生のバイブル的存在であったし、演劇界も人気の劇団民藝や俳優座の年間の演目の半分以上は、その二人にチェーホフを加えたものだった。TVやラジオや歌声喫茶(そんなのがあった)でも、フォークソングと同じノリでロシア民謡が歌われ、みんな、ロシアの雪の白樺並木をトロイカに乗って疾走する気分を味わったものだ。   ゴルバチョフのペレストロイカが始まる前は、ソ連は鎖国状態みたいなのだった。それ故、皆んな行くことも、見ることも出来ないロシア文化に憧れのようなものを抱いていたのかも知れない。(ベルリンの壁が崩壊して見えてしまったソ連の実相、最近のプーチン政権の所業で、ロシアへの憧憬も、すっかり萎んでしまった感があるが、、、)  そして、その日本人のロシア文化への憧れのかなりの部分を作り上げたのは、私はロシア文学、中でもトルストイの存在だと思う。トルストイは圧倒的な理想主義、博愛主義の作家だ。戦前までの日本の文学者でトルストイの影響を受けていない作家はいない。鴎外も漱石も、自然主義や社会主義の作家たちも、白樺派の作家たちに至っては、生き方そのものまでも真似ているように思われる。そうした作家たちの書いた本を通じて、一般の日本人の思想、考え方にトルストイが染みて行った。   ということで、冒頭の漢詩のタイトル「露小説」はトルストイの作品だ。函館の街の風情にぴったりだ。私は函館の街へ旅するなら、その前にトルストイの小説を味わってから行くのをお勧めする。「復活」「アンナ・カレーニナ」何でも良いが(「イワンの馬鹿」以外)、私はやはり「戦争と平和」をお勧めする。ナポレオンとの戦争の時代のロシア貴族社会を描く大群像劇(登場人物559人)だ。ロシア文化のエッセンスが詰まっている。  でも、それは大変だと思う人が殆どだろう。当然だ。私は「トルストイの小説を味わって」と書いた。「読んで」ではない。私のお勧めは、配信ドラマ(全6話)の視聴だ。2016年、英国放送協会制作の「戦争と平和」、映画だとどうしてもダイジェストになり過ぎだが、この配信ドラマは過不足無い。主役の一人ナターシャ役のリリー・ジェーム

《写真漢詩》四長、函館と「らんまん」の縁を知る。(函館吟行シリーズ2)

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写真は旧函館区公会堂    函館の街を特徴づけるもの、それは街の其処此処で感じるロシアの面影だと私は思う。最近、ウクライナ侵攻で世界中から非難を浴びているロシアではあるが、此処、函館では幕末の昔に根付いたロシア文化と函館の街の幸せな関係が、今も続いている。  1858年、日本で最初のロシア領事館が開設された。英米が函館には貿易分野に限定して領事館スタッフを配置したのに比して、地理的に近く、鎖国時代も水面下の行き来があったロシアは、政治経済、海軍、科学技術、医療等々、多くの専門スタッフを領事館に常駐させた。ロシア海軍を中心にロシア船の入港も頻繁だった。江戸で桜田門外の変のあった1860年には、ロシア正教会の聖堂まで建立された。(函館ハリストス正教会、初代宣教師はニコライ、彼は後に東京に移り、神田駿河台にニコライ堂を創建する。) 函館ハリストス正教会     領事館と地元の人たちとの交流も盛んで、ロシア料理や洋服の仕立て、写真術なども領事館スタッフを通じて、函館の街に根付いて行った。  旧函館区公会堂にあったパンフレットを眺めていたら、領事館開設当時の領事館スタッフの中に、今年の4月以降、よく耳にする名前を見つけた。「マキシモヴィッチ」だ。NHKの朝の連続テレビ小説「らんまん」で、名前だけは頻繁に登場した植物学者、植物学会の世界的権威だ。  どのくらいの権威かと言えば、もう超絶対的権威だ。何しろ当時は、世界各国で新種と思しき植物を見つけても、マキシモヴィッチの元に標本を送り、彼に認めれなければ新種とならず、学名も付けられなかったのだ。らんまんの主人公「牧野富太郎博士」も800点もの標本をロシアの彼の元へ送っている。そしてマキシモヴィッチが亡くなり叶わなかったが、牧野富太郎は、彼の元で学ぶため訪露を企図していた。     そうか、そのマキシモヴィッチが函館にいたのか。調べれば彼は20代のとき、3年5ヶ月も領事館付き植物学者として、函館周辺の植物の採集・調査をしていた。日本は彼にとって、思い出も愛着もある土地だったのだ。そして牧野富太郎が訪露するにあたって、マキシモヴィッチとの仲介を依頼したのは、その頃、函館から東京へ移って来たニコライだったそうだ。  NHK朝ドラ「らんまん」、植物学の世界を非常に丁寧に、リスペクトを持って描く久々の秀作だった。でも、私は牧野富太郎とマキシ

《写真漢詩・短歌》四長、不思議な帆船と遭遇する。(函館吟行シリーズ1)

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    2016年台風一過の北海道函館の街を散策した。海岸と並行する街道を歩く。海は見えない。港が近いからか、海運会社や船具を販売する少しレトロビルが並んでいる。港街・函館の風情あふれる通りである。  突然、海側の路地から船のマストが大きく見えた。 驚いた。海岸までは結構距離がある。あのあたりは、まだ住宅地か、工場の敷地のはずだ。なのになんであんな位置にマストがあるのか?私は確かめるために路地へ入って行った、、、  そこには、帆は張られていないものの美しいフォルムの帆船が、工場の空き地の様な場所に陸上げされていた。帆船を見上げた瞬間の私の心を描写したのが、下の漢詩(七言絶句)だ。     でも、何処か非日常的な不思議な光景だった。暫く台風の名残りの風に吹かれて佇んでいると、今度は短歌が降りてきた。   写真部分に、詩というか?短歌の説明というか?そのときの心象風景を書いた。でも、読んだ殆どの人が意味不明だ。申し訳ない。  今日は、本当にとりとめのないブログで恐縮だ。まあ、そんな日もあるということで、、、何々、とりとめがないのは、いつものことだって、、、仰る通りだ。 海岸まで出ると津軽海峡が見えた。  

《写真漢詩》四長、ウィーンで「第三の男」を追跡す。

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   上の写真は、オーストリア・ウィーンのプラーター公園の大観覧車である。映画「第三の男」の重要なシーンの舞台である。2019年、オーストリア、チェコ、ハンガリーの3カ国を巡る旅で訪れた。世界的大ヒット映画の聖地だけあって、大観覧車は、もう100歳を超えているにも関わらず健在だ!観覧車の箱も映画撮影当時のままで、中に足を踏み入れるとモノクロ映画のあのシーンも甦る。(気分を出すため本日のブログの写真はモノクロ仕様だ。) デジタルリマスター版DVD   映画「第三の男」は、1949年のイギリス映画、第2次世界大戦後の連合軍統治下のウィーンを舞台とした「フィルム・ノワール(※)」の金字塔だ。その年のカンヌ国際映画祭のグランプリを獲得し、アカデミー賞では撮影賞(白黒部門)を受賞した。  現在は映画史に残る傑作として、映画ベスト100企画があれば、必ず上位にランクされる。オーソン・ウェルズの存在感(ラスト30分だけなのに)!アントン・カラスのツィター演奏によるテーマ音楽(エビスビールのCM曲だ)!明暗のコントラストを生かし切った映像美!シャープな編集!私も大昔に見たが印象に残っている映画だ。ウィーンへ行くなら聖地巡礼は欠かせない。 プラーター公園入り口    聖地巡礼は面白い。新しい発見もある。忘れていたことも思い出す。この時もあった。僅か2、3行前に「大昔に見たが印象に残っている映画」と偉そうに書いたが、実はとんでもない。 映画で何を見ていたのかと思った。ウィーンに来て、映画の資料を真剣に見直して、ガイドさんの話を聞いて、恥ずかしながら理解した。何かが繋がった気がした。 大観覧車からの眺め、ウィーン市中央部、シュテファン大聖堂の尖塔も見える。    それは 当時(映画の舞台となった時代も映画公開時も)、ウィーンはドイツの敗戦の結果として、連合軍に四分割(米・英・仏・ソ連)統治されていたことの意味、その重み、緊張感だ。  壁こそ築かれていないが、当時のウィーンはドイツのベルリンと同じだ。壁が無いから人は行き来し、交流する。でもそれが逆に、街全体に、街に暮らす人全員に強い緊張感を強いたに違いない。見えない壁の方が高かったかもしれない。その背景があってこその映画「第三の男」だったのだ。それは分割統治の現場に立って初めて想像出来る。 大観覧車の箱から前の大観覧車の箱を撮影    

《写真漢詩》四長、裏磐梯で磐梯山大噴火を知る。(福島吟行2)

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裏磐梯高原ホテルから眺める磐梯山    2021年初秋、福島県裏磐梯を旅した。二度目の訪問となる裏磐梯高原ホテルは、前回訪問の後大改装があり、充実したライブラリーが新設されていた。ランチ前の時間調整に中を覗くと「磐梯山大噴火」の資料があり手に取った。ざっと目を通すと、資料のポイントは以下の通りだ。恥ずかしながら私の知らなかったことばかりだった。   1888年(明治21年)7月15日、磐梯山が噴火。噴火による死者は477名、明治以降の近代日本に於いて最も多い犠牲者が発生した火山災害であり、明治政府が初めて経験した大規模自然災害だった。   噴火の凄まじさは、次のような普段は使用されない恐ろしげな用語が使われたことで分かる。「①山体崩壊(磐梯山を構成する峰の一つ小磐梯は全面的に崩壊、消滅した。その跡に巨大な馬蹄型カルデラが出来た。)」「②岩屑なだれ(山体崩壊により発生した岩石、土砂によるなだれ、長瀬川とその多くの支流を堰き止め、大洪水を発生させた。その跡には檜原湖、秋元湖等々幾つもの湖が出来た。)」「③火砕サージ(噴火による爆風、何度も発生した。衣服を着ていても瞬間、火傷した。)」等々である。  この資料を読んでから見ると、目の前の磐梯山の美しい景色も全く別なものに見える。「山体崩壊」の傷跡が生々しく迫る。目の前の湖も「岩屑なだれ」で川が堰き止められて出来たと思えば、大洪水による被害も容易に想像出来る。そして今、自分が立っているこの場所が噴火の後に出来た馬蹄型カルデラの中なのかと想うと恐ろしい。噴火は太古の昔ではない、明治の話だ。且つ磐梯山は現在も活火山なのだ。思わず、当時の犠牲者に合掌した。 磐梯山の山体崩壊の跡、あの場所から岩屑なだれ、こちらに押し寄せ、川を堰き止め、湖が出来た。    午後は、暫し磐梯山噴火を忘れ、楽しみにしていた五色沼を散策することにした。錦繍の秋はまだ先だが、瑠璃色の水を湛える湖沼は不気味なくらい美しく神秘的だ。この世のものとは思えない不思議な色彩である。我を忘れて見惚れていると、、自らの迂闊さに気づく、「この美しい五色沼も、磐梯山噴火により川が堰き止められ出来たんだ。」と。  あの大惨事の後、磐梯山の山の神は、何を思ってこの宝石の様な五色沼をこの地に残したのか?鎮魂か?唯の気まぐれか?神の差配に人智は及ばない。神のみぞ知るとはこのことだ。

《写真短歌》四長、神鹿と邂逅す。(飛鳥・大和路シリーズ10)

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   奈良・春日大社の参道だ。短歌の中に鹿が出てくるのに、写真に写っていないじゃないか?とのご批判は甘んじて受けたい。鹿を見つけてカメラを向けたら、その瞬間、鹿は消えたのである。流石!春日大社の鹿!これこそ「神鹿(しんろく)」である。  奈良公園(元々は、興福寺・春日大社の境内)の鹿は、2021年現在、全体で1105頭、内訳はオス鹿217頭、メス鹿806頭、子鹿82頭という構成だ。(このオス・メス比率なら、オス鹿は皆モテるのか?と思ってしまうが、そんなに甘い世界ではないようだ。)  鹿たちの総数は、このところ1000頭前後で安定している。対人関係も修学旅行のマスコットとして人気者で平和である。しかし、ここに至る道筋は決して平坦ではなかった様だ。 離れ鹿(オスの子鹿は成長すると、ある時期、群れから離れる)   春日大社が創建された8世紀から江戸時代まで、春日大社を氏神とする藤原氏は鹿たちを、神の使いとして崇拝して来た。自分たちも神社参拝途中で鹿を見ると、わざわざ輿から降りてお辞儀をしていた。徹底的に鹿を大事にし、近隣の民にも崇拝と保護を強いた。それも半端ではない。幼い子が石を投げてそれが鹿に当たり、鹿が傷を負えば大変だ。子供は縄で縛られて、奈良の街を引き回されてた上に、斬首処刑された。家族・親戚も連帯責任で家を焼かれ、遠方に追放されたという。徳川綱吉の生類憐みの令よりも残酷だ(やはりお犬様より神鹿は偉いのか?)。 鹿の装束した人たちの神楽?春日大社境内   一方で甘やかされた鹿は、どんどん凶暴化。畑を荒らし、角で人を殺傷するトラブルも頻発する。もう人と鹿との共存は不可能と思われたそのとき、、、江戸から名奉行が奈良へやって来る。大岡越前でも遠山金四郎でもない、奈良奉行・溝口信勝である。彼はそれまでの極端な鹿保護政策を転換、人と鹿との共存を試みる。人と鹿とのトラブルは裁判(本当だ)として公平なお捌きをした。人を傷つけていた鹿は角を伐った。イヨッ!名奉行!(因みに、この「鹿の角伐り」は制度化され現代まで続いている。)  その後、太平洋戦争中、戦後、食糧事情が深刻となると、今度は人が鹿を襲う事件が頻発した。奈良公園の鹿は総数79頭まで激減した。考えれば、西洋では鹿はジビエの中でも珍重されている。この間の状況はあまり記録に残っていないが、私は春日神社の神様も食糧事情を鑑み、免罪

《写真漢詩》京都吟行シリーズ(12)上七軒と「野風」

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    京都上七軒の懐石料理の店「野風」である。京町家を改装した店内は風情があり、板さんの腕も格別でお勧めだ。それにしても「野風」、良い響きである。飲食店の店の名は重要だ。現に東京在住の私が、上七軒の店など知る由もないが、「野風」の名前に釣られて予約した。  「野風」と言えば、有名なのは名笛の名前「乃可勢(野風)」である。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑が蔵した「一節切」。最後は徳川家康が死期に際して、自らの六男・松平忠輝に形見として託したと言われている。その数奇な来歴からか、古今、その笛に纏わる様々な物語が語り継がれている。 京都・上七軒、休日夜のお茶屋街   笛の最後の所有者、松平忠輝の人生も波瀾万丈だ。家康の六男に生まれながら、容貌怪異のために、父・家康にも疎まれた。一方で、その忠輝、成長するにつれ剣、槍、弓、馬術、舞、そして笛と才気を発する。そうなると、未だ徳川の政権が盤石とは言えない時代、舅の伊達政宗を始め、彼のことを放っては置かない。彼を担ぐ不穏な動きが胎動する。結果、忠輝、お家騒動を怖れる兄の二代将軍徳川秀忠から流刑に処せられてしまった。  まだ、若かった忠輝、配流生活は何と都合67年にも及ぶ。67年と聞くと皆んなびっくりだ。忠輝って一体幾つまで生きたのかと思うに違いない。享年92歳、江戸初期では驚異的だ。仙人の扱いだったに違いない。そして、その長い配流生活を支え、彼を慰め続けたのが、名笛「乃可勢(野風)」である。父家康の形見である。忠輝は日々、この笛を吹き、信長や秀吉、そして勿論、父家康のことを偲び過ごしたと言う。  前述の通り家康、この息子のことをそんなに可愛がっていなかったようである。でも、その息子の長い配流生活を予見していたかのように、この名笛だけは忠輝に形見として残した。さすが家康!である。読みが深すぎる。 上七軒の隣、北野天満宮   ところで、野風と聞けば、もう一人思い出す人物がいる。TBSのテレビドラマ「JINー仁」に登場する吉原の花魁「野風さん」(こちらはさん付けだ)である。中谷美紀が演じた。絶世の美女で、賢く芯も強い。登場人物全員のリスペクトの対象、タイムトラベラードラマの過去と現代を結ぶキーウーマンである。彼女の存在がドラマに華やかさとリアルさ、そして重厚感をも齎した。  上七軒の懐石料理店「野風」を予約するとき、名笛「乃可勢(