《写真漢詩》戦場ヶ原で戦ったのは誰だ!(日光吟行シリーズ3)


  奥日光の戦場ヶ原である。2021年11月に訪れた。山の天気は移ろい易いとはよく言うが、このときも正にそれで、晴れたかと思えば、風が出て暗くなり、ついには雪も降り出す始末、一日の中に四季があるようだった。でもその気象の変化の度に、佇まいを変える湿原を堪能し、満足度の高い旅だった。

 私は、このブログでよく花の名前の由来を書いてきた。名前の由来は重要だ。鑑賞する際の深みが変わってくる。地名だって同じ、旅の楽しさがグッと増すときだってある。今日はそんな話。「戦場ヶ原」の名前の由来だ。

 私は、まだ戦場ヶ原を訪れたことがない時代、戦場ヶ原の由来は当然「其処が何かの戦さの現場になった」ことから来ていると思っていた。南北朝の時代、栃木県を本拠地とした足利尊氏と誰かとの戦さとか、時代は下って戦国時代に、越後から上杉謙信が攻めて来たとかだ。しっかり調べもせず、適当にそう考えていた。

 でも、現地に来れば、すぐ分かる。此処は広大な面積の平坦な地ではあるが、沼だ!湿原地帯だ!ウクライナでも道がぬかるむ季節は戦さは出来ないと言う。此処はぬかるむってレベルではない!ズボズボだ!足を取られて戦えない!関ヶ原の戦いのように、大軍が衝突するなんてあり得ない!


 と思っていたら、湿原のガイドブックを見れば答えが分かった。戦ったのは山だったんだ。昔、男体山の神と赤城山の神が、美しい中禅寺湖を自分のものにしようと、それぞれ大蛇と大ムカデに変身して戦ったのだ(蛇とムカデであれば、私は迷わず蛇に軍配をあげる)。壮絶な戦いとなったが、結局、蛇の男体山が勝利した(蛇は飛び道具を使ったようだ。やっぱり蛇は少しズルイ)。

 そうか、大蛇と大ムカデであれば、そんなに沼も気にしないので由来はこれかなっと思ったが、所詮、これは蛇とムカデの喧嘩だ。その一対一の喧嘩の場に「戦場が原」とは如何にも大袈裟ではないか?と思っていたら、別の説が出て来た。やっぱり大軍の衝突はあったと、、、

 それは、古事記や日本書紀執筆以前の大昔のことだ、この辺りは毛野(ケヌ)国という大きな国の中心だった。そして此処で国を二分する有力豪族同士の衝突があったとの説だ。うーん、どっちだ?本当に戦場ヶ原で大合戦があったのか?無かったのか?と、少々投げやり気味の私は、全く新しい有力説を見つけた。

 それはこうだ。「土地の人は、此処が非常に広い原野であったことから、『千畳ヶ原』と呼んでいた。それがいつの間にか『戦場ヶ原』に変化した。(「今さら誰にも聞けない500の常識」平川陽一編)」と言う説だ。身も蓋も無い説だが、これが一番腹に落ちた。






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