《写真漢詩》四長、仙台堀で驟雨に遭う。
「驟雨」の「驟」は馬が早く走りまわる意で、降り始めや降り止みが突然の雨である。「村雨」「群雨」「繁雨」と同義、「俄か雨」や「夕立ち」も含まれる。英語では気象用語としては「rain shower」。一般用語として用いられる「squallスコール」は、気象用語としては「急に始まり数分間続く突風」のことで雨ではないそうだ。
「驟雨」は仕組みとしては、対流性の雲、積雲や積乱雲が上昇気流により垂直方向に発達するときに降る雨だ。水平方向へは広がりを欠くため、降る時間も短時間で、降る範囲も局地的である。
それ故、高層ビルのような積乱雲が次から次へと発生、連なり進行することにより、線上ではあるが長時間・広範囲に豪雨を齎す「線状降水帯」や「バックビルディング現象」(※リンク)とは一線を画す。仕組みは同じであるが、連続性に決定的な違いがあるのだ。私は「線状降水帯」や「バックビルディング現象」には恐れしか感じないが、「驟雨」およびその同義の言葉たちには風情さえ感じる。
その中間的なのが「ゲリラ豪雨」だ。「ゲリラ豪雨」、そのゲリラの意からすれば、本来は局地的で単発的のはずだ。どちらかと言えば、「驟雨」「夕立ち」「俄か雨」に近いだろう。でも、言葉にインパクトがあるので、もっと激しく厳しいものを想像してしまう。
「ゲリラ豪雨」は勿論気象用語ではない。マスコミが使い出し、ある年の流行語大賞にランクインさせた。私は気象の世界までに戦争や争いを想起させるネーミングをする感覚が良く分からない。表向きは平和主義を標榜するマスコミも結構好戦的かもしれないとも思ってしまう。
でも「ゲリラ豪雨」は完全に定着してしまった。今や「驟雨」や「村雨」といった美しい日本語は完全に死語だ。「俄か雨」や「夕立ち」が使われるのが相応しい場面ですら「ゲリラ豪雨」が使用されている。
私の幼い頃は、夏休みには必ず夕方になると夕立ちがあった(あった気がする)。でも、私は雲の動きから、夕立ちが来ると分かっていても、ギリギリまで外で遊んでいた。流石に、雷が鳴り出すと走って帰ったが、たいがいびしょ濡れだった。結果、母や祖母に毎回同じ小言を言われながら、タオルでゴシゴシと拭いて貰うことになった。でも結構、その夕立が好きだった。ドキドキときめいたし、心地良かった。夕立ちが去った後、世界が一変するような爽快な空気も格別だった。夕立ちは少年時代の夏休みの風情ある必須アイテムだった。
「ゲリラ豪雨」にその風情を感じるか?私には甚だ疑問だ。