《写真漢詩》春日大社も永遠に不滅です。(飛鳥・大和路シリーズ9)


 
 昨日のブログ(※リンク)で興福寺のBCP(事業存続計画)の凄さについて書いたら、多くの方からご賛同を頂いた。今日も同じような話。奈良の寺社のレジリエンスについての話だ。

 冒頭の漢詩は「春日大社」を詠んでいる。「春日大社」は、奈良・平城京に遷都された710年に、藤原不比等が藤原家の氏神を御蓋山に祀り、春日社と称したのが起源とされる。興福寺が藤原氏の「氏寺」なら、春日大社は藤原氏の「氏神」という位置付けだ。それ以降、藤原氏の興隆を、この二社寺(興福寺と春日大社)で手を携えて、宗教面から支え続けた。

 どちらかと言えば、兄貴格は興福寺だ。興福寺は僧兵という強力な軍隊を擁し、荘園の石高も春日大社の約10倍近くあった。興福寺は、軍事面・経済面から弟分である春日大社を守り続けた。唯、これも昨日書いたが、興福寺はその強過ぎる権勢から、他勢力、時の政権からも睨まれ、何度も焼き討ちに遭った。でも、そんなときは、春日大社が興福寺の僧侶や僧兵を匿うなど、二社寺は持ちつ持たれつの関係を続けて来た。

 この二社寺の協力関係が、最も発揮されたのが、興福寺最大の危機!明治維新政府によって出された1868年の神仏分離令のときである。全国に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる。文字通り、寺は破壊され、仏像仏具も売り飛ばされる。僧侶たちは、一挙に失業者だ。興福寺も例外では無い。規模が大きいだけに、失業問題は深刻だ、、、

 しかし、二社寺はこの危機を乗り越える。大胆な戦略で。興福寺は先ず100を超える末子寺、六つの坊を廃止した。その上で僧たちは、全員自主的に還俗、その後全員で何と春日大社の神主になったのだ。驚きだ!昨日まで坊さんだった人が、今日から神主になるのだ。昨日まで「南無阿弥陀仏」とお経を唱えていた人が、突然、「祓い給え、清め給え」とか「かしこみかしこみ申〜す」ってお祓いをするのだ。ちょっとびっくりだし、宗教の教義ってそんないい加減(失礼)なものなのか?と思ってしまう、、、

 でも、そこが奈良の社寺のレジリエンスだ。1300年に亘り生き残ってきた秘訣。奥義だ。小さい(小さくはない!)ことに構っていてはいけない。奈良の街に、存続し続け、祈り続けること。それこそが、興福寺と春日神社の全てなのだ。


 此処で私はまた想像しなくてもよいことを想像してしまった。逆もあったかもと。それは太平洋戦争の後だ。日本が敗れ、連合国が占領軍として乗り込んで来たときだ。連合国の多くが天皇の戦争責任を追及しようとしていた。そして天皇制とセットになっていた国家神道としての神道の責任も当然追求の俎上に上がる。もし、昭和天皇とマッカーサー元帥の会見がなければ、神道も消滅していたかもしれないのだ。春日大社も危なかったかもしれない、、、

 でも大丈夫!例えそんなことになっても、きっと春日大社はレジリエンスを発揮していたに違いない。今度は神主たちが、全員興福寺の僧侶に転職して、嵐が通り過ぎるのを待つことにしたのだろう、、、

 興福寺と春日大社!永遠に不滅です。

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