《写真漢詩》入道雲は死語になるのか?





   先日、「驟雨」について書いたブログ(※リンク)の中で、「小さい頃、夏の夕方には、必ず夕立ちがあった(あった気がする)。」と記したら、ある人から連絡があった。「本当に昔はあった。そして、それは科学的に証明出来る。」と。彼曰く「昔あった夏の夕立が無くなってしまったのは、やはり温暖化の所為だ。でも、夏が暑くなったからというよりも、前後の春と秋の気温上昇が原因だ。昔は、季節にメリハリがあり、春と秋がしっかりと涼しかった。そのため夏でも上空の空気は冷やされたままで、夕立ちを降らす入道雲が、毎日のように出来て、結果、毎日夕立ちがあった。」「ところが、現代は違う。春と秋の気温が上がり、上空と地表の温度差が無くなり、夕立ちを降らす入道雲が出来難くなった。」、、、

 そうか、少なくなったのは「夕立ち」だけでなく「夕立ちを降らす入道雲」も気象学的に少なくなっていたのか、、、

亀戸天神から東京スカイツリーを眺める。

  私はそれを聞くまで、入道雲という言葉を最近あまり聞かなくなったのは、若い人が「入道」の意味を知らなくなったからだと思っていた。「入道」即ち出家して僧侶になることだ。私の小さい頃は「入道清盛」「入道相国」と言って、平清盛が「入道」の代表選手だった。その頃、清盛は完全に悪者キャラだった。一方で源氏の頼朝・義経兄弟は完璧な正義の味方だった。そのため、もくもくと大きくなる入道雲さえも不気味で憎らしく感じていた。

 ところが最近では、清盛は幼い頼朝を殺さず、後にリベンジを許すなど、脇の甘さ(人間的な面)を指摘されるようになった。大河ドラマの世界では、寧ろ昨年の頼朝、今年の信長の方が、ともに実弟を殺すなど、冷酷さ残忍さ(非人間的な面)が強調されている。気象に例えるなら、平清盛が唯の入道雲なら、源頼朝や織田信長は差し詰め「線状降水帯」かもしれない。

 小さい頃は、気象も歴史も変わらないものだと信じていた。だが、どうやら違うようだ。少し怖い話だ。

マンションのベランダから眺めた空、あの雲は、入道雲か?線状降水帯か?


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