《写真漢詩》四長、仙台堀の終点(清澄庭園)を語る。
先日、仙台堀の入り口、中川船番所を天皇陛下が行幸された話をこのブログに書いた(※リンク)。今日は、仙台堀の出口付近の話だ。仙台堀、最後は隅田川に出る。終点は仙台堀の名の由来となった「仙台藩蔵屋敷」である。江戸時代、中川船番所で検められた仙台藩の藩米は、仙台堀を通り、一旦、仙台藩蔵屋敷に運び入れられ、その後必要に応じて隅田川へ出て行った。仙台堀出口付近の古地図で確認するとよく分かる。下のような具合だ。
古地図の右上から左下へ、対角線上を走る水路が仙台堀である。藩米はその仙台堀を左下から右上へ運ばれ、仙台堀出口部分の右側「松平陸奥守」と記されている仙台藩蔵屋敷に入る。蔵屋敷は隅田川(大川)にも面しており、当時として非常に便利な場所を仙台藩が押さえていたことが一目瞭然だ。
今も仙台堀は健在だ。一部埋め立てられた部分はあるものの、ほぼ全貌を辿ることが可能だ。一方で、仙台藩蔵屋敷の跡はと言えば、現在はセメント工場が立っている。そこが元は蔵屋敷だったことは、古い案内板でかろうじて確認できる状態だ。少し寂しい。
そのため貴方が仙台堀ツアーを計画するとしても、「終点がセメント工場ではちょっとな」と思うかもしれない。でも、私がそんな貴方に代案を提供する。上の古地図の右側に一番大きな面積を占めている「久世大和守」の屋敷に注目!実は此処が現在、あの有名な「清澄庭園」になっているのだ。「天皇陛下もお忍びで行幸をする中川船番所をスタートして、仙台堀を踏破し、東京でも有数の名園・「清澄庭園」をゴールするツアー!」素晴らしい休日になることは私が保証する。
その「清澄庭園」、庭園好きの三菱財閥の創始者岩崎弥太郎が土地を購入。其処を財閥二代目総帥岩崎弥之助が二人の天才を全面的に信頼し、国内外の賓客をもてなす庭園として明治24年に完成させた。一人は京都の武者小路千家の茶匠「磯谷宗庸」。彼が全体構想から庭石一つ一つまで設計し、東京に京の庭を再現した。そして現在、「清澄庭園」の写真には必ず登場する池にせり出した風雅な数寄屋造りの建物「涼亭」については「保岡勝也」。彼はなんと丸の内のビル街「一丁目ロンドン」を設計した近代建築家である。それ故、此処では江戸だけでなく明治の趣も味わうことが出来る。仙台堀ツアーのゴールに相応しい場所である。漢詩も出来た。