《写真漢詩》日光・華厳の滝!夏目漱石のトラウマ(日光吟行シリーズ5)


  日光の「華厳の滝」である。男体山の噴火によって堰き止められた水は、一旦、中禅寺湖に集まり、大谷川へ流出する。その唯一の流出口にこの滝は位置する。落差97m!「那智の滝」「袋田の滝」とともに日本三名瀑に数えられる。

 この「華厳の滝」と夏目漱石の「吾輩は猫である」の関係を説明できたら、貴方はかなりの漱石マニヤ、日本文学通と言える。勿論、私は知らなかった。「もし、華厳の滝が無かったら、『吾輩は猫である』は生まれなかった。」なんて、、、その因果関係を説明するとこんな感じだ。

①1903年(明治36年)、華厳の滝で投身自殺があった。飛び込んだのは、旧制第一高等学校の学生・藤村操。北海道出身、飛び級で入学した秀才、当然前途を有望視されていた。

②その前途有望な若者が何故?世の中は騒然となる。原因はなんだ。当時、我が国でも育ち始めていたマスコミも大いに関心を持ち、調査が始まる。

③その調査の中で浮かび上がったのが夏目漱石だ。漱石は当時英国留学から帰国して、第一高等学校で英語の講師をしていた。自殺した藤村操も漱石の学生で、藤村操が自殺する直前の授業で、漱石が藤村操の授業態度の悪さを酷く叱責していたことが判明する。

④そうなると炎上してしまうのは、現代と同じだ。SNSの無い当時であるが、このことはマスコミを通じ、一高関係者だけでなく、当時の知識人層に一気に伝播する。「漱石が藤村操を死に追いやった」と大炎上だ!

⑤漱石はこの大炎上に苛まれる。とうとう神経衰弱を患い(再発?)。教職を休業、妻とも別居する。

⑥そんな漱石を救ったのが、高浜虚子だ。虚子は神経衰弱の治療の一環として創作を勧めた。漱石もそれを受け入れ、処女作「吾輩は猫である」を執筆した。

 その後の漱石の旺盛な文筆活動を考えれば、この「藤村操、華厳の滝入水事件」も単なるキッカケに過ぎないかも知れない。でも漱石、教職活動が順調に行っていれば、英文学研究や幼い頃から大好きだった漢籍の研究者への道を歩いていたかも知れない。歴史にイフは禁物だ。それは承知している。でも色々想像してしまう。


  そして、ここからは私の完全な想像だ。私はこの事件は、その後も漱石と「華厳の滝」を悩まし続けたに違いないと思う。そう言うのも、「華厳の滝」は藤村の入水事件の後、何と「自殺の名所」となってしまったからだ。事件後4年間で185名が入水を図る。内自殺既遂が40名だ。恐らくその都度、報道され、漱石のトラウマも刺激されたろう。「藤村操、華厳の滝入水事件」!漱石も大きな傷を負った。そして「華厳の滝」もまた然り、不吉な称号を負ってしまった。



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