《写真短歌》四長、横浜・元町商店街をブラタモリする。(横浜吟行1)



 横浜元町である。1860年(万延元年・桜田門外の変)、前年の横浜開港によって、立ち退きを強いられた旧横浜村の村民(多くは漁業関係者)たちが移住して出来た街である。

 NHKの人気番組「ブラタモリ」風に地形を紹介すると、街の南・東側は山手の丘陵地に隣接し、北側は堀川を挟んで山下町と隣接している。地図を見れば一目瞭然で、丘陵と川に挟まれた全長600mの狭い平坦地に村民たちは押し込められたのだ。だが、後にその狭さが元町に奏功する。

 明治維新になると、丘の上の山手地区と、川向こうの山下町はともに外国人居留地となった。色々な国の人々が住まいを築き生活を始める。すると必然的に、そうした外人たちの日常品を扱う日本人が必要となり、横浜村から移住した村民たちが、その役割を果たすようになって行った。(例えば漁船の船大工は家具職人になった。)

 やがて、そうした職人や商人たちが店を並べる商店街・元町が形成される。山手と山下町に隣接するという地理的な優位性!わずか600mの中で日常的な買い物が賄える利便性!が元町を発展させる。日夜、街は外人で賑わった。外人で賑わえば、そこには様々な文化が流入する。流入した文化が、また街の彩りを豊かにした。そうなればハイカラな文化の薫りに惹かれて全国から日本人も集まるという好循環が生まれた。

 こうして元町は益々魅力的な街になって行った。狭さが濃厚な異国情緒・ハイセンスな文化を醸成していったのである。

元町と運河を挟んで隣接する山下町、山下公園(右の船は氷川丸)をホテル・ニューグランドから眺める、


 私がこの街を訪れるようになったのは、1970年代後半、大学生のときだ。全国を席巻した「ハマトラ」ブームが始まった頃だ。当時、「フクゾー」のトレーナーやポロシャツ、「ミハマ」の靴、「キタムラ」のバッグが女子大生の三種の神器と言われた。そうなると当然、男子学生も無関心ではいられない。私も例外でなく、少なからず関心を持った。

 今でも覚えているのは、「フクゾー」という屋号の由来についてだ。今更、誰にも聞けない雰囲気で、「フクゾー」という単語を、英語の辞書で引いたことを覚えている。ずーっと後になって、創設者「森本福蔵」の「福蔵」から来ていると知って、一人で大笑いした。まだインターネットで検索出来ない時代だ。それも懐かしい。




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