《写真漢詩》四長、旧岩崎邸でジョサイア・コンドルと時間旅行する。(根津・上野吟行5)
三菱財閥三代目総帥・岩崎久弥の館である。岩崎久弥の業績は漢詩の通りであるが、私はもう一つ付け加えたい。それはこの館の設計をジョサイア・コンドルに依頼し、後世の私たちに残してくれたことだ。私は東京に数ある明治の洋館の中でこの館が一番気に入っている。コロニアル風で、外観を見るだけで明るい気分になり、屋内を回遊すれば、当時の日本経済の黎明期の中心にあった岩崎家の勢いのようなものを肌で感じることが出来る。
「ジョサイア・コンドル」、イギリスの建築家、明治維新政府の所謂「お雇い外国人」であるが、彼が日本の建築界への貢献たるや途方も無いものがある。彼自身、建築家として、上野博物館、鹿鳴館等々設計しただけでは無い。工部大学校(現・東大工学部)の教授として、辰野金吾(東京駅、日本銀行等々設計)、片山東熊(迎賓館、京都や奈良の国立博物館等々設計)ら日本建築界を牽引する錚々たる逸材たちを育てた。当時の日本全国の西洋建築の主要なものが、彼の息がかかった建築と言っても過言ではない。
そして三菱財閥・岩崎家との関係も濃厚だ。「一丁倫敦(現丸の内ビジネス街)」の三菱一号館、二号館。岩崎一族の私邸の多くも殆ど彼の設計だ。(残念ながら、その大半は関東大震災等で消失し、現存するのは関東閣(現三菱グループ迎賓館)と此の旧岩崎邸のみ、一般公開されているのは此処だけだ。)
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| 旧岩崎邸庭園の中にある撞球室、これもジョサイア・コンドルの設計 |
そんな「ジョサイア・コンドル」だが、大の日本贔屓だった。日本人女性と結婚し、落語、華道、日本舞踊に精通していた。中でも日本画については、当時の日本画壇を代表する絵師「河鍋暁斎」に師事し、「暁斎」から「暁英」という号を与えられている。そしてコンドルは「暁斎」の臨終にも立ち会う。「河鍋暁斎」は弟子「ジョサイア・コンドル」に手を握られて息を引き取ったそうだ。
2015年、「幕末・明治のスター絵師・河鍋暁斎と弟子コンドル」という展覧会が、これも縁の「三菱一号館美術館」で開催された。「三菱一号館美術館」の学芸員さんの粋な企画だ。私も「三菱(岩崎家)」と「ジョサイア・コンドル」と「河鍋暁斎」という組み合わせに導かれて訪れた。
「ジョサイア・コンドル」が「河鍋暁斎」の臨終に立ち会ったのは1889年(明治22年)。「三菱一号館」を設計したのが1894年(明治27年)。「岩崎久弥邸(旧岩崎邸)」を設計したのは1896年(明治29年)だ。コンドルを中心に当事者たちの胸の内迄、勝手に色々想像が膨らむ。明治の時間旅行は楽しい。




