《写真漢詩・短歌》四長、談山神社で神社の苦難の日々を労う。(飛鳥・大和路吟行シリーズ4)
奈良県桜井市多武峰の「談山神社」である。上の漢詩の和訳にある通り、この地で中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)が大化の改新のクーデター計画を打ち合わせた。「談山」とは「談(かたら)い山」ということだ。この談山、クーデターの現場である飛鳥の板蓋宮からは随分と遠い。それくらい離れた山奥でやらないと、時の絶対的権力者である蘇我氏にバレてクーデターが失敗に終わると考えたのだろう。中大兄皇子も中臣鎌足も流石に慎重だ。その後の歴史の政争や現代の企業内闘争が、企む側の情報が事前に漏れて未遂に終わった例も多いことを思えば、二人の慎重さは見習うべきところだ。
この大化の改新によって、日本の支配構造は大きく変わる。権力が豪族から天皇へ移行した。以来、天皇側近としての藤原氏の立場も固まって行った。従って、この談山神社、藤原氏にとっての聖地である。それ故藤原鎌足の墓も此処にある。
此処まで読んで頂いた皆さん!きっと思うだろう。「成程!談山神社、あれから千四百年、藤原氏の聖地として、この多武峰で平穏に時を過ごしたのだろう。」と、、、
ところが、それは全く違うのである。「談山神社」の歴史は、そんな生優しいものではない。波瀾万丈!苦難の日々だ。それは、「談山神社」が藤原氏の聖地であるにも関わらず、同じ藤原氏の氏神「春日大社」、氏寺の「興福寺」と仲違いをしてしまったのが原因だ。特に興福寺との仲違いは領地争いも絡み深刻で、僧兵を要する興福寺に、何度も何度も焼き討ちにあってしまう。
そして、戦さにも巻き込まれる。「南北朝の争い」、松永久秀の「多武峰合戦」等々だ。その都度、談山神社は焼失・再建を繰り返す。江戸時代になって、やや平穏のときを送るが、最後に明治期の「廃仏毀釈」の荒波に襲われた。正に「七転び八起きの社」である。
そんな、談山神社、私が訪れたのは、5月新緑の頃、私と家人以外観光客はいない。家人からは「談山神社には、人気の紅葉シーズンに訪れたかった。」と言われた。でも、私は十分に満足していた。何故なら、大化の改新の談いが、この地で行われたのは、645年の5月!だ。中大兄皇子と中臣鎌足は、この日と同じ深い新緑に囲まれながら、その後の日本を決定付ける密謀を談っていたのだから、、、短歌も出来た。


