《写真短歌》四長、西行にイイね👍する。

  少し前、私は歌人の中で好きなのは、与謝野晶子だと書いた。彼女が好きな理由もその時に書いたが、もう一つ大きな理由がある。それは近代以前の和歌・短歌については、勉強不足で良くわからないからだ。万葉集・古今和歌集・新古今和歌集、イイなと思う和歌もある。でも解説付きでだ。ストレートに聞いて、読んで直ぐにその意を解して評価できるほど、古典に強い訳ではない。

 でも西行のこの和歌は違う。「願わくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月の頃」だ。最初に聞いたとき驚いた、体が震えた。恐らく、平安末期・鎌倉初期の歌人の歌なのに、聞いた瞬間、意味を理解できた嬉しさもあったと思う。(因みに「如月の望月の頃」とは「お釈迦さま入滅の日、旧暦の2月15日を指している。)

「花の下にて、春死なん」、頭の中で映像が浮かぶ。「旅路の果て、独り桜の樹にもたれて、舞い散る桜の花弁を見ながら、死んでいく西行の姿」が、、、


 最近、歳のせいか「死に際」ということを考えるようになった。現代も世間で理想的な「死に際」と言われる「死に際」は、やはり「家族に囲まれて、看取られ、手を握られ往生して行く」って感じだろう。でも私は思う「本当にそうかな?」。自分に置き換えれば分かる。看取ってくれる家族が余りにも嘆き悲しんでくれて、泣き崩れていたら、この先、コイツら大丈夫かな?と心配だし不安になる(それこそ死にきれない)。一方で、余り悲しんでいない様なら、それはそれで問題だ。「やっと逝ってくれたか」と皆んな少し浮かれているようならば、それこそ大問題である(悔しくて死ねない)。やはり、私の理想は西行だ。花の下で独り逝くだな。

 西行にオマージュして、私なりの最後のパターンを幾つか想像してみる。先ず、西行の春に対抗して、秋で考えてみる。「銀杏編」だ。


 西行が桜のピンクの雨を見ながら逝くのであれば、私は銀杏の黄金(ゴールド)の雨に降られて逝くパターン、植物の旬を切り取り逝くパターンだ。美しい。ドラマチックでもある。悪くない。でも最後の時期を上手くピンポイントで植物の旬に合わせるというのは結構難易度が高いかもしれない。では、これはどうだろう。「潮騒編」だ。


 そうこちらは、永遠と続く自然の営みの中で逝くパターンだ。潮騒は年中無休(短歌はたまたま5月にしてあるが、何月でも大丈夫)だ。そしてこれは視覚だけでなく、聴覚でも永遠を感じながら逝くという優れものの企画だ。でも難点もある。それなりの海辺・渚が必要なのだ。桜や銀杏なら結構な名木が仙台堀にある。一方でこの企画に叶う海辺・渚までたどり着くのには、周りの人の協力がいる。

 一長一短だなと思った時だ。あるアイデアが、私の前頭葉を刺激した。「プロジェクション・マッピング‼️」だ。今、デジタル技術の進展で「プロジェクション・マッピング」の進化は素晴らしい。私の理想の「死に際」環境を整えてくれるかもしれない。いや待てよ。もう少し経てば、「バーチャル・リアリティ」とか「メタ・バース」とか「アバター」とか、私の知らないIT技術がもっと素晴らしい「死に際」を発明してくれるかもしれない。病院や老人ホームでそうした新たな看取りサービス(理想の走馬灯とか)提供してくれるかもしれない、、、と考えると。うーん、まだまだ死ねないな、、私は長生きすることにした。

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