《写真漢詩・短歌》四長、ミュシャの「スラブ叙事詩」の前に佇む。
しかし、ミュシャはパリでの名声を捨て故郷チェコに帰った。当時高まっていたチェコのオーストリア(ハプスブルク家)からの民族・独立運動を、絵画の力で鼓舞し精神的に支えるためだ。そのためにミュシャが制作したのが、超大作「スラブ叙事詩」20枚の連作だ。私は2017年その全てが来日したとき、六本木の国立新美術館に見に行った。圧巻!その言葉以外無い。感激した。
そして私は、2019年初秋、プラハの聖ビート大聖堂で、その連作の一部が、ステンドグラスになったのを見ることになる。まだコロナ禍もロシアのウクライナ侵攻も無かったときだ。ステンドグラスを前にしての感動は、六本木のときのそれをも更に上回る。
そして思う。ミュシャ自身もこれを見て感動したんだろうなと。パリでポスターを描きながらも構想し、20余年かけて描き切った「スラブ叙事詩」。それが完成し、祖国も独立した。その独立の象徴的な場所であるプラハ城・聖ビート大聖堂に、自ら描いた「スラブ叙事詩」が、ステンドグラスになって、目の前にある。ステンドグラス越しに太陽の日差しが自分に降り注ぐ。その瞬間のミュシャの感慨は如何許りであったろうと、、、
しかし、ミュシャの人生はその後悲しい物語が続く。
ミュシャはチェコに侵略してきたナチス・ドイツに逮捕されたのだ。ミュシャの絵画がチェコ国民の愛国心を刺激すると言うとんでも無い理由で。その逮捕は既に老境で持病もあったミュシャには大きな負担となり、間も無く亡くなってしまった。
「スラブ叙事詩」、チェコ人もロシア人もウクライナ人も皆スラブ民族である。そう考えると、ミュシャの余りにも悲しい理不尽な死を、その後の「プラハの春の崩壊」や現在進行形の「ロシアのウクライナ侵攻」に重ねずにはいられない。ウクライナの地に再び平和の光が降り注ぐ日々が、1日でも早く訪れることを強く願う。