《写真短歌》作曲家シリーズ(1)ドボルザーク「新世界より」
私の小学生時代の暗い過去については、3月5日公開のブログ記事「集合写真と暗い過去」で告白したが、今日は中学生時代の話だ。運動音痴、そしてズバリ音痴で、私は帰宅部に所属していた。その私を、何を思ったのか音楽の先生(生徒からはゴリラと呼ばれていた)が、オーケストラ部(以下オケ部)に無理矢理入部させたのだ。毎日、バリトン・ホルン(私の場合は、ソロパート無し、ボッ、ボッっとリズムを刻むだけ)とシンバル等打楽器を練習させられた。先生に怒られるのも嫌だったが、練習の曲が自分のミスで止まる瞬間のみんなの視線が一番辛かった。
そして入部間もなくあった演奏会(確か町の公民館のこけら落とし)、曲は忘れもしないロッシーニの「ウィリアムテル序曲」、シンバルを担当している私は、思い切りリズムを外して演奏会を無茶苦茶にしてしまった。そのとき指揮をしていた先生(ゴリラ)が、指揮台から私を睨んだ顔は本当に怖く、今も時々夢に出てきて、私はうなされる。
演奏会の翌朝、朝一番で私は辞表(責任を取りたいとの趣旨、退部届か?)を持って職員室に行ったが、意外や先生(ゴリラ)は優しく慰留してくれた。「ゴリラも教育者なんだ」と妙な納得をしたことを覚えている。
そんな辛いオケ部生活だったが、良いことも2つあった。一つは夏休みの練習(ほぼ毎日)の後、プールをオケ部で独占的に使わせてもらったこと。一応、県大会で優勝するなどオケ部は中学校の花形部だったので、先生(ゴリラ)が力を持っていたのだと思う。オケ部は圧倒的に女子部員が多かったので、プールで泳いでいると、他の運動部の連中から随分羨ましがられた。
もう一つはクラッシックの名曲の幾つかを好き(聴くのが)になったことだ。中でもドボルザークの交響曲第9番(中学生の時は、確か5番だったはずだが、今は9番?)「新世界より」は格別で、その後の私の人生の折々に私を助け、励ましてくれた。現役サラリーマン時代、本当に忙しくて、時間が無いときも、フィナーレの第4章だけ聴いて元気をもらったことも、今は良い思い出だ。
「新世界より」はドボルザークが、新世界(アメリカ、勿論大阪の通天閣界隈ではない)に渡って、故郷チェコ(ボヘミア)を想って作曲した。ニューヨークの写真は無かったので、新宿の夕焼けで代替させて頂いた。唯、この角度からの新宿は、撮影当時建設が始まっていた新国立競技場が完成し、今では見ることが出来ない。特別な夕焼けだ。