《写真短歌》短歌への拘り
私が短歌を始めたのは、漢詩を詠んでいてそれを書き下し文にしたら、たまたま七五調で、自然に短歌になったことからです。それ故、漢詩以上に何も勉強していないし、有名な歌人の作品についても、ごくごく一般的な知識しか持ち合わせていません。
でも最近は、漢詩と同じくらいの頻度で創作しています。それは何よりも短歌が自由だから、俳句も時々は創りますが、これは苦手です。季語の制約の中で17文字で勝負するのは辛いものがあります。その点、短歌は基本的に季語からは解放されています。そして、そもそもが万葉集から来ていることもあり、ロマンチックな表現が俳句に14字プラスするだけで可能になります。
そんな短歌ですが、漢詩から始めたこともあり、私なりに拘っていることもあります。それは
①文語体の七五調の美しさを崩さないように字余りは極力避ける。
②短歌の中で使う漢字の情報量を活用する。
の2点です。②については、最近では更に大胆になって、漢字を生かすために造語や音訓の読みを自由化(?)するのもありと思い実行しています。そんな作品を一つ紹介させて下さい。
「裸木」「血管」「幹枝」「赤液」の読みは、拘り①②から、自由化させて頂きました。そのせいか、文語調且つ万葉調って言えなくもないなと勝手に思っています。
(蛇足)昔、井上陽水の名曲「少年時代」を聞いたとき歌詞の「風あざみ」「宵かがり」を聞いて、さすが陽水、色々な言葉を知っているなと感心しました。そして、後にそれが彼の造語と聞いて、今度は尊敬したということがありました。表現は自由に、聞く人、読む人を心地良くですね。僭越極まりない蛇足ですが、この短歌を詠んだとき、少しだけそのことを思い出しました。