《写真短歌・俳句》咲いても椿、散っても椿
今日は、漢字の話です。このブログの2月10日『私的現代漢詩論」や2月12日「仙台堀と漢詩」のページに詳しく書きましたが、私にとって最大の漢詩の魅了は、詩に載せられる情報量の多さです。そしてそれは漢字の情報量の多さに他なりません。
今日は、その漢字の情報量の多さが、俳句や短歌を詠む時にも結構役に立っていると言う、私の拙い詩作法・過程について少しお話しさせて下さい。
上の俳句、地面に落ちた「散り椿(季語)」を詠んだ俳句です。句の中に「世の人々が大事に育んで来た夢が一瞬に散る」というニュアンスを入れたいなと思った時、人と夢が合体して出来ている「儚」の字が浮かび、出来たと思いました。「人の夢が正に「儚」く散る」、たった一字の中に、人の人生の諸々を詰め込んだ情報量の多い、示唆に富んだ「儚」という漢字が良い仕事をしてくれました。
一方、上の短歌は、逆に漢字を分解して詠んだ短歌です。「椿」と言う漢字の中に「春を忍ばせているけど冬に咲く木」と言う沢山の情報が載っていることに、ふと気が付きました。そしてそれをそのまま詠んだら完成。たった一つの漢字に込められた情報を説明しただけで短歌が成立すると言う面白い例です。
漢字の集合体の「漢詩」と漢字の情報量を利用する「短歌」や「俳句」、漢字の面白さを味わいながら、それぞれを行ったり来たりして、創作の日々を過ごしています。